3939.


きっかけは知らない内に


​「おい、ナマエ。……またこんな夜更けまで、無理をしているのか」
​重厚な扉が開く音と共に、硬質な声が室内に響く。
顔を上げると、そこには青いマントを翻したフリックが立っていた。相変わらず、隙のない端正な佇まいだ。
​「フリックさん。……すみません、明日の作戦会議の資料をまとめておきたくて」
「それは俺の仕事だと言ったはずだ。あんたは、自分の体をもう少し労わってくれ」
​彼は溜め息を一つ吐くと、私の手から羽根ペンをひょいと取り上げた。
その指先が、わずかに私の手に触れる。フリックは一瞬、眉を寄せたが、すぐに視線を逸らして隣の椅子を引き寄せた。
​「……手が冷えている。少し休め」
「でも、あと少しで終わりますから」
「……頑固な奴だな」
​彼は苦笑いして、そのまま席を立とうとはしなかった。
フリックは、亡くした恋人への想いを胸に秘めている人だ。その青い服も、剣の名も、すべては彼女への誓い。だから、私たちが彼の隣に並ぶことは、どこか聖域に踏み込むような、遠慮がちなものになってしまう。
​「……ねえ、フリックさん」
「なんだ」
「どうして、いつも私を助けてくれるんですか? 他の皆にも優しいけれど、私には少し……過保護な気がします」
​私の問いに、フリックの手が止まった。
彼は自分の剣――オデッサの名を冠した剣の柄を、無意識に、けれど大切そうに撫でる。
​「……きっかけなんて、自分でも分からないんだ。気づいた時には、あんたの姿を追うのが習慣になっていた」
​フリックは絞り出すような声で続けた。
​「最初は、危なっかしい仲間の一人だと思っていた。……だが、あんたが笑うと、この荒んだ戦場が少しだけ明るく見える気がした。……知らない内に、俺の視界の大半を、あんたが占めていたんだ」
​彼はゆっくりと顔を上げ、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その青い瞳には、過去への追憶ではない、**「今、目の前にいる私」**への戸惑いと情熱が混ざり合っている。
​「……不実だと思うか? 過去を捨てられない男が、別の誰かに心を乱されることを」
「そんなこと……!」
​首を振ろうとした私の頬を、彼の熱い掌が包み込んだ。
いつの間に、こんなに近くに。
​「きっかけは、本当に知らない内だったんだ。……だが、今はもう、ごまかせない」
​彼はそのまま、私の額に自分の額をこつんと預けた。
​「……オデッサ。彼女との思い出は、俺の魂そのものだ。だが、俺の『今』を動かしているのは、ナマエ……あんたなんだ」
​誓いの剣を帯びたまま、彼は静かに、けれど強く私の肩を引き寄せた。
知らない内に始まっていたこの感情が、もう後戻りできない場所まで来ていることを、彼の震える吐息が教えてくれた。

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