彼女の瞳は、まるで秋の空を映したようだ、と思った。
晴れた秋の空は、どこまでも続いて見えるほど澄み渡っているから。
その澄んだ瞳は、吸い込まれそうなほど透きとおっていた。それはきっと、彼女が美しい夢を持っているから。
そのつぶらな瞳は、いつもキラキラと輝いていた。それはきっと、彼女が夢を追い続けているから。
夢を追うことなどとうにあきらめた私には、彼女の瞳はまぶしすぎて、痛々しくて、──たまらなく愛おしく思えた。
それなのに、
〈大気くんみたいに、現実に縛られた寂しい生き方はしたくないっ〉
*
「……まさか……」
目を覚ました大気は、信じられないように声を漏らした。
(まさか、夢にまで彼女が出てきてしまうとは……)
ぼんやりと部屋の天井を見上げたまま、深い溜息をつく。
──昨日の自分はらしくもなく声を荒らげ、まったくひどいものだった。いつもどおり彼女のコロコロと変わる表情をひそかに楽しみながら話を聞いていたはずが、些細なところからひずみが生まれ、しまいには互いをそしりあう泥仕合となってしまった。
冷静沈着をモットーにしている大気としては、あれほど感情的になることなど考えられないことだった。
(まったく、彼女に出会ってからというもの、私はどうかしてしまっている)
重い身体を引きずりながらリビングへ行くと、まだカーテンが閉じたままだった。どうやら大気が一番乗りのようだ。すきまから漏れる朝日が部屋に光の線を作っている。
すでに身体に染み付いた動作でコーヒーを淹れると、ソファに座り真っ黒のテレビ画面をぼんやりと眺めた。
(……泣かせてしまいましたね)
あやめの言葉に傷ついたのは大気とて同じことだ。それでも去りぎわに見たあの涙をたたえた瞳が、大気の脳裏にこびりついて離れずにいる。
「お? どうした大気、カーテンも開けずにボーッとして?」
カラッとした声が聞こえ、大気は緩慢な動作で首だけ振り向いた。
「……ああ、星野。おはようございます」
「なんだよ、朝からシケた顔してんな」
頭をボリボリとかきながら星野が言うと、窓際まで行きカーテンを勢いよくジャッと開けた。目を刺すような朝の光に、大気は顔をしかめる。
星野はそのままキッチンから自分のコーヒーを持ってくると、大気の目の前のソファに横たわった。大きなあくびをする星野を見るともなしに見ていた大気だったが、やおら口を開く。
「星野、私は寂しい生き方をしているでしょうか」
「──へあ?」
完全に不意打ちを喰らった星野は、あくびの途中で間の抜けた声を出した。
大気は視線を手元のコーヒーに落とすとくり返す。
「私は現実に縛られた寂しい生き方をしている、と」
「言われたのか? 誰に?」
「…………」
「……まあ、訊かなくてもわかるか」
星野は「うーん」と困ったようにうなりながら身体を起こすと、ソファに座り直して言った。
「おまえはどうなんだ?」
「……どう、とは?」
「自分が寂しい生き方をしてると思うか?」
「……さあ……どうでしょう」
大気はコーヒーカップを指先でいじりながら黙り込んだ。
──平和だったあの頃と比べれば、当然自分も変わった。いまはもう、あの頃のように無垢な気持ちで夢を描くことはできない。火球王妃の捜索という差し迫った問題のある中では、どうしても現実のことばかり考えてしまう。
それでも仲間と過ごす時間に感じる安らぎや、あやめととりとめのないことを語らう時の心浮き立つ感じ、詩を読んでいる時のまるで精神の世界を旅しているような開放感は、どれも大気を満たしてくれるものだ。寂しいと思ったことなどない。
「大気がそれで納得してるんなら、それでいいんじゃねえの?」
まるで大気の考えがまとまるのを待っていたかのようなタイミングで、星野が言った。そして口をニヤリとさせると、小さくウインクをしながら付け加える。
「それに、それを言った相手だって、本気でそう思ったわけじゃないかもしれないぜ?」
──売り言葉に買い言葉、か。
「どうせしょうもないケンカでもしたんだろ?」と続けた勘のいい星野に、大気は「そうかもしれませんね」と苦笑しながら、ようやく肩の力が抜けてくるのを感じた。
「大気、今日もあいつと会うんだろ? ちゃんと仲直りしてこいよ」
「……ですが、彼女には『もう来なくていい』と……」
「なに言ってんだよ。タイミング逃したらますます気まずくなるだろうが。行ってちゃんと話し合ってこいって、な?」
星野と話していると、なぜか重たかった気分も和らいでくる。
大気は心の中で感謝しながら、ふ、とゆるく微笑んだ。
* * *
あやめからは一週間分の予定を聞いていたので、今日の撮影場所も一応知ってはいた。
撮影が終わる時刻にスタジオビルへやってきた大気は、そこでビルから出てきた二人連れを見ると驚愕の表情を浮かべた。
──あやめだ。そしてその隣に並んで歩くのは……虎島。
「あやめさんっ!?」
大気が駆けつけると、二人が立ち止まった。剣呑な目をしたあやめがチラリと横目で大気を見上げてくる。
大気はそばまで来るとあやめの顔を覗き込んだ。
「どういうことですか、なぜ彼と一緒に!?」
「私、虎島さんについてくことにしたの」
「!? なぜ……」
目を合わせずに言い放ったあやめに、大気は愕然として言葉を失う。
あやめはそのまま大気を見ることなく続けた。
「現実を見ることにしたの。このまま努力したって、誰にも見向きされないかもしれない。虎島さんなら私をスターにしてくれるって言うから、ついてくことにしたの」
「なっ……そんなうまい話はないって、あなた自身が言っていたじゃないですかっ。一足飛びにスターだなんて……芝居で人を感動させたいというあなたの夢はどうなったんですか!?」
「くだらないんでしょう? そんな夢」
キッと睨み上げてきたあやめの瞳に涙が光るのが見え、大気がひるんだ。
あやめは視線を下に落とすと、弱い声で続ける。
「そろそろ将来のことを考えて、大学の進路も変えようと思ってたから……。最後に一度だけ、可能性に賭けてみることにしたの」
「最後って……あなたにはまだモデルの道が続いているじゃないですかっ。そこからの可能性だって、残っているではないですか!」
両肩をつかんで覗き込むと、あやめは顔をクシャリと歪ませた。
「……終わりだって……。いまの雑誌の契約、今日で終わったの。更新もしないって。……もう、全部なくなっちゃったの」
「!? そんなことが……」
大気が目を丸くして固まる。あやめは大気から離れると、背を向け虎島のほうへ歩きだした。
ハッとした大気が慌ててあやめの背中へ声をかける。
「待ってください、あやめさんっ! もう一度頑張ってみましょう! あなたの夢も……私との新しい夢も、そんなヤツに安売りしていいものではありませんっ!」
呼びかける大気に、あやめが振り返ることはなかった。
虎島が金の髪をひるがえすまぎわ、ニヤリと勝ち誇った笑みを大気へ寄越して去っていった。
* * *
前を行く虎島の銀のアクセサリーがジャラジャラと音を立てる。あやめはその不快な音を聞きながら、ぼんやりと足元に視線を落とし歩いていた。
ついに念願の芝居ができるというのに、あやめの気持ちはまったく高揚していなかった。むしろ、本当にこれでよかったのかという思いが先ほどから渦巻いている。
ひとけのない寂れた公園まで来ると、虎島が振り向いて言った。
「さてと……このあたりでいいかしら。じゃあ、あやめちゃん。ちょっとそこに立ってくれる?」
「……あの、虎島さん。本当にあなたのところでお芝居をやらせてくれるんですよね?」
「さあね。なんの話かしら?」
「……?」
これまでさんざん重ねてきた甘言とは打って変わった口ぶりに、あやめが眉をひそめる。
虎島はくたびれたように息を吐きながら、片眉を上げてあやめを見た。
「そんなうまい話、あるわけないでしょう? まったく苦労させられたわ、あんたを落とすのにも。──あんたが受けたオーディションを片っ端から操作するの、結構大変だったのよ?」
「──!?」
──いまなんと言ったか。まさか、これまでの落選はすべて虎島のしわざだったのか。
虎島の冷たい瞳に見据えられ、あやめの背筋にゾワッと悪寒が走る。
こいつは危険だ。頭の奥で警鐘が鳴り響く中、どこからか大気の声が聞こえてきた。
〈あなたの夢も……私との新しい夢も、そんなヤツに安売りしていいものではありませんっ!〉
「あ、あの、虎島さん……やっぱり私、大気くんのとこに……」
後ずさりながら言うあやめに、虎島は黒い笑みを深くした。
「──もう遅いわよ」