昼どきを過ぎたファミリーレストランは、友達同士で勉強をする若者がちらほら見える程度でまばらだった。
大気が「コーヒーでいい」と言うと、女性はドリンクバーふたつと食事を頼んですぐさま席を立ち、両手にコーヒーカップとグラスを持ってテーブルに戻ってきた。大気のほうへコーヒーカップを差し出しながら、先ほどよりいくぶんリラックスした表情で笑いかけてくる。
「さっきは本当に助かりました。あの人しつこくて困ってたんですよ」
「なんだったんですか、あの人は?」
その前におまえは誰だ。というのは大気が一番訊きたいところであったが、おいそれと立ち入って変な縁ができてしまっては困る。ここは適当に話をしてさっさと別れようと、さして興味もなさそうに話を合わせた。
「んー、一応芸能プロダクションの人らしいんだけど……見るからにあやしい感じがして」
たしかにどう見てもあやしかったな、と大気は心の中で同意した。
──芸能プロダクションということは、彼女はスカウトでもされたのだろうか。正直、目鼻立ちは整っているが、いまいち垢抜けない雰囲気である。これなら仲間の二人のほうがよっぽど洗練されている。
大気の視線を読んだのか、女性がテーブルに軽く身を乗り出してきた。
「お兄さん、かっこいいですね。モデルさんですか?」
街を歩いている最中、遠巻きにこちらを見る女性たちから何度も聞こえてきた言葉だ。
大気は若干うんざりした顔で「いえ」とだけ答えた。
「え、モデルさんじゃないんですか? じゃあ、なにやってる人ですか?」
よく言えば人なつこい、悪く言えば遠慮のない質問に、大気は気乗りしない表情で返す。
「なにと言われましても、特には……」
「あ、もしかして私と同じ大学生ですか?」
「いえ、そういうわけでも……」
歯切れの悪い大気に、女性はいぶかしむように眉をひそめた。
「あの、言いたくなかったら聞き流してくださいね。……お兄さん、何歳?」
「……15です」
「じゅっ……!? え、中3? というかその落ち着きっぷりで年下っ!?」
「?」
慌てた様子で周囲をキョロキョロ見回す女性に、大気は首をかしげた。
女性は大気のほうへさらに身を乗り出してくると、声をひそめて訊いてくる。
「……平日の昼間になんでこんなとこいるの? 学校は?」
「学校?」
「だって中3でしょ、あなた?」
「……チューサン?」
まるで話の通じない大気に、女性は片手を自分の額にあてた。
「あなた、学校行ってないの?」
「はあ……。最近ここに来たばかりで、まだここの暮らしぶりがよくわかっていないものでして」
「最近ここに来た? ……もしかして、帰国子女とか?」
よくわからないが都合よく解釈してくれたようなので、大気は「そんなところです」と調子を合わせた。
「まいったな……ご両親はあなたがここにいること知ってるの?」
「事情がありまして、両親は一緒ではありません」
「えっ、じゃあ一人?」
「いえ。仲間が二人、一緒に来ています」
「仲間? ──まあ、頼れる人がいるならよかった。でも学校は行ったほうがいいから、あとでその仲間に相談するといいと思うよ」
女性はひとまず納得した様子で、運ばれてきた料理に意識を移すと箸を手に取った。
「──あのっ」
「?」
ここまでずっと受け身でいた大気から初めて話しかけられ、女性は口に運びかけた箸を途中で止めた。
「どうしたの?」
「その、実は私の仲間も、ここの暮らしが初めてでして……」
「え、大丈夫なの、それ?」
「一度ご両親に連絡したほうが」と続けかけた女性をさえぎって、大気がテーブルに両手をついた。
「お願いですっ、ここの暮らしについて教えてくれませんか!」
「──私が?」
女性の手に持った箸から料理がポトリと皿に落ちた。口を開けたまま固まる彼女を見て、さすがに唐突すぎたかと大気があきらめかけた時、
「……いいけど」
「! 本当ですかっ」
「うん。いやその……街中で突然絡んできた私みたいな人を、あなたが信用できるのなら」
「善処しますっ。お願いします!」
背に腹は代えられない。ガバッと頭を下げた大気に「善処しますって」と苦笑した女性は、
「とりあえず、これ食べたら本屋に行こっか」
と、明るく言うなり食事にぱくついた。
* * *
女性に連れられて大気が入った本屋は、駅前にしてはそこそこの広さがある二階建の書店だった。
彼女は店に入るなり「ちょっと待ってて」と言い残し、レジの店員のところへ行ってしまった。大気はそれを見送ると、そばにある『雑誌』と書かれた陳列棚へ目を向ける。
「──ん?」
料理やら車やらの雑誌が並ぶ中、一冊の雑誌に大気の目が留まった。表紙でポーズを決めこちらに視線を向けてくる女性には見覚えがある。──いま一緒にいる彼女だ。
大気はその雑誌を手に取ると、そこに書かれている名前を見た。
「……『あやめ』?」
「おまたせー……あっ」
その時、店員と話を終え戻ってきた女性が、大気の手元を見て小さく声を上げた。
大気は雑誌を持ったまま振り向くと、
「──あやめさん、ですか?」
「……うん」
はにかんだ女性は、恥ずかしそうに髪を指先でいじりながらうなずいた。
*
「いやあバレちゃったかー」と笑いながら本屋の二階へ向かうあやめに続いて、大気も階段を昇った。手には彼女が表紙に載った雑誌を持ったままである。
「あなた、それ返さなくていいの?」
「ええ、せっかくなので買っていきます」
「ええー、いいのに」と言いながらも、あやめはどこか嬉しそうだ。ファミレスでモデルなのか興味津々に訊いてきたのは、彼女自身がモデルをしていたからか、と大気はなんとなく腑に落ちた。
二階に着きあやめに案内されたのは、教育関連書のコーナーだった。
元来大気は勉強好きだ。本から本へ目移りさせていると、あやめが手早く数冊を選び大気の前に並べた。
『日本の生活と仕事』『この国の義務教育』『はじめての日本暮らし』等々……中には外国人向けにふりがな付きのものもある。
「とりあえず一冊あると安心だろうから、このあたりがオススメかな」
「なるほど……」
一冊ずつ吟味するように中身を確認した大気は、最終的に二冊を選び、あやめの載った雑誌と合わせて三冊購入して店をあとにした。
*
最初に会った待ち合わせスポットまで戻ると、大気はあやめへ向き直った。
「今日はありがとうございました、あやめさん」
「こちらこそ。変な男を追い払ってくれて助かったわ、……ええと……」
「大気光です」
考えるより早く名乗っていたことに、大気は自分で驚いた。少しだけ彼女の素性がわかったからか、いつの間にか警戒心がとけていたようだ。
あやめはにっこりと親しみを感じさせる笑顔になると、右手を差し出してきた。
「よろしく、コウくん」
「……あの……」
大気が戸惑いの表情を浮かべる。それを不思議そうに見上げたあやめは、ややあってハッとしたように手を引っ込めた。
「ごめんっ、馴れ馴れしかったね」
「いえ、そうではなく……」
「?」
首をかしげるあやめに、大気はどこか気恥ずかしそうにしながら白状する。
「実は仲間の二人も同じ名前でして……私のことは、大気、と」
「みんな同じ名前なの? なんかアイドルグループみたいだね」
「そんなものではないのですが……」
『光』という名は王妃側近の戦士に与えられる由緒ある称号なのだと言いたかったが、どうせ伝わらないだろうと大気はあいまいに笑ってごまかした。
あやめがふたたび手を差し出してくる。
「じゃあ、よろしく。大気くん」
「ええ、よろしくお願いします」
今度はきちんと握手すると、あやめが視線をさまよわせながら遠慮がちに「それで、その」と続けてきた。
「もし大気くんが嫌じゃなければなんだけど……また待ち合わせしてくれない? あの金髪男、最近しつこくて」
「かまいませんよ」
大気の返答を聞くと、あやめはパッと明るい表情になった。
「本当っ? ありがとう! ああー、ホッとした。これであの男もあきらめてくれるでしょ」
「その代わり、私からもお願いが」
「なに?」
目をパチパチさせながら見上げてくるあやめに、大気は人差し指を立てて口端を上げた。
「私がここでの暮らしに慣れるまでのあいだ、生活の知恵を教えてください。さすがに本だけでは不安ですから」
「そんなこと? お安い御用よ!」
力こぶを作るしぐさをしながらあやめが元気よく答えた。
──そんな姿を見ると、本当に自分が兄になったような気がしてくる。実際には彼女のほうが「お姉さん」らしいが、軽やかな表情にくるっとしたつぶらな瞳は、まるで無垢な少女のようだ。
……自分のような、苦難にあえぐ故郷を見捨てた人間とは違って。
「……大気くん、どしたの?」
「!」
声にハッとした大気は、脳裏によぎった故郷のおぞましい光景を消し去るように何度かまばたきをした。あやめの瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……いえ、すみません。知らない街を歩いたので、少し疲れたようです」
「そう? 今日はゆっくり休んでね」
「ありがとうございます。──それじゃあ、また」
別れの挨拶を告げると、あやめが笑顔でヒラヒラと片手を振ってきた。
「これからよろしくね、大気『兄さん』」
「こちらこそ。──妹の、あやめ『先輩』」
覚えたての言葉を使ってみたら、あやめの笑顔が楽しそうに弾けた。使い方はこれで合っているようだ。
大気は笑みを返すと、仲間の二人──星野と夜天の待つ家へ帰るべく、雑踏の中へ戻っていった。