「……あやめさん、」
「は、はいっ」
思わず姿勢を正したあやめに、大気は真剣そのものの顔を向け、
「いまのは愛を歌った歌ですか?」
「え? うん、そうだけど……。あ、違うよ! 変な意味じゃなくて、私が好きな曲ってだけで──」
「愛の歌なのに、歌詞にそれらしき言葉が一度も出てこなかったのはなぜでしょうか?」
「……へ?」
ポカンとするあやめの前で大気は顎に手をあてると、まるで相対性理論でも説くような顔で言った。
「こんなまわりくどい詩では、相手に伝わらないのではないですか?」
「……えー……?」
あまりにまじめに歌詞について論じられ、あやめが若干引き気味になる。しかし気を取り直すと、大気と同じように顎に手をあてた。
「うーん、たしかにまわりくどいけど……なんていうか、奥ゆかしさを感じない?」
「奥ゆかしさ、ですか?」
「そう。ほら、かの有名な夏目漱石大先生だって『月が綺麗ですね』なんて名言を残してるわけだし」
「夏目……誰です、それは?」
キョトンとする大気に、あやめは「そうだった、きみ帰国子女だったね」とうなだれた。
「夏目漱石は、日本を代表する作家だよ。その人が英語教師時代に『I love you』の翻訳例として『月が綺麗ですね』って言ったって話」
「『I love you』の訳は『愛しています』ではないのですか?」
「そ・う・だ・け・どっ」
あやめはどう説明したものかと頭を抱えながら続ける。
「そんなドストレートに言う人、日本にいないでしょ。特に夏目漱石の時代は現代よりさらに控えめだったんだから」
「はあ」
「月を一緒に見てるってことは、夜に二人でいるってことでしょ? そんな状況で並んで空を見上げながら同じ気持ちを共有したら、しっとりした雰囲気にもなるじゃない」
「なるほど、言葉の裏にある気持ちを表現したということですね」
「そっ。まっすぐな気持ちは、どんな言葉でも伝わるものなの。わかってくれた?」
思考を咀嚼するように小さくうなずきをくり返す大気に、あやめはふぅと一息ついた。すると、
「……あやめさん、もし二人のいる場所が月の見えない場所だったら、なんと訳せばよいでしょうか?」
「だーっ、私に聞かないでよっ! 私は夏目漱石じゃないんだから、知らないって!」
大気の質問攻めに、ついにあやめが音を上げた。しかし次の瞬間「そうだ」と手のひらをポンと打つと、大気に向かってビシッと人差し指を突き立てる。
「ちょうどいいや。大気くん、ここで問題です」
「問題? なんでしょう」
「『I love you』を訳しなさい。ただし条件があります。──ひとつ、『好き』とか『愛してる』とかの直接的な表現を使わないこと。ふたつ、月の見えない場所でも使えること」
「……それはいま私が質問した内容では」
「いいから! 自分でいろいろ考えたほうが楽しいでしょ?」
「はあ……」
困ったようにうなずいた大気だったが、すぐに「では情報収集を」と言うと、目次本を手に取りパラパラとめくりはじめた。曲名から愛や恋に関する歌のアタリをつけると、たどたどしい手つきでリモコンを操作し画面に入力していく。曲が流れだすと、大気はマイクには目もくれずに歌詞の流れる画面を凝視した。
(……すごい集中力……)
真剣に目で歌詞を追う大気の横顔を見つめながら、あやめは先ほど言われた言葉を思い返していた。
〈夢は力には勝てません……踏みにじられて無惨に壊されるのが落ちです〉
(大気くんのあれは、きっと私に言ったんじゃない……。なんでだろう、表情はいつもどおりだったのに、──すごく辛そうに見えた)
気にはなるが、大気自身がこれ以上追求してほしくなさそうだった。ならば不用意に立ち入ることはせずに、なにも見なかったことにすべきなのだろう。
それにまだ数回しか会っていないが、大気がとても理性的で自制心の強い人であることはわかった。きっと彼は、自分の弱みを他人に見せることを良しとしないだろう。
(それでも力になってあげたい……私にできることで、なにかしてあげたい。……大気くんのこと、もっと知りたい)
* * *
すっかり機材の操作に慣れた大気は、のめり込むように次から次へと曲を入力していった。いろいろな歌を聴くうちに、流行の曲に共通するある特徴に気づきはじめる。
(なるほど、この星では電子音のリズミカルな楽曲が人気なのですね。音は重ねすぎず、キャッチーなメロディをくり返すのが主流、と……)
「──ん?」
ふと肩にかかった重みに気づき、大気は我に返った。見ると、くたりと頭を落としたあやめがもたれてきている。
「……あやめさん?」
「……んむうー……」
声が完全にだらけきっている。寄りかかられている状態では動くこともできず、大気は首を限界までかしげて、あやめの伏せた顔を覗き込んだ。
「寝てしまったんですか?」
「んー……たいきくん……」
「はい?」
「……あたま……グラグラする……」
「え」
一瞬フリーズした大気は、ハッとするとテーブルの上を見た。ビールジョッキがいつの間にか三杯に増え、どれも空になっている。
「はあ、酔ったんですか。大丈夫ですか?」
「……あんま、だいじょばないかも……目がまわる……」
肩にかかる重みが増し、グラリとあやめの上体がかたむいた。慌てて支えた大気がいよいよ焦りだす。
「ちょ、あやめさんっ。しっかりしてくださいっ」
テーブルに手を伸ばしグラスをわしづかむと、あやめの口元へ運んだ。
「ほら、お茶です。飲んでください」
「んー……? それ、たいきくんのやつ……かんせつきす」
「妙なところで恥ずかしがらないでください。ほら」
「……んむー」
しばらく不服そうに頬を膨らませたあやめだったが、結局大気に押し負けてグラスを受け取ると、恥ずかしそうにうつむきながら口をつけた。
──むしろ身体を寄せ思いきりしなだれかかっているこの状況は恥ずかしくないのか。
大気は急激に疲れが押し寄せてくるのを感じた。ついあやめを見る目がジットリとしたものになる。
そんな大気の気持ちなどつゆ知らず、あやめはグラスのお茶を飲み干すと満足げに息をついた。
「ぷはー、すっきりした」
「もういいですね? さ、帰りますよ」
「ごめん、まだ目がまわってて立てない」
「…………」
* * *
支払いを済ませた大気は、ひきつった笑顔の店員に見送られながらカラオケ店をあとにした。道を歩きながら、すれ違う人たちの視線が突き刺さってくるのを感じる。
足早に道を歩いていると、背中に背負った重みがモゾモゾと動いた。
「……大気くん、恥ずかしいから降ろして……」
「私だって恥ずかしいんですから、我慢してください」
背中から小さく「ごめんなさい」とあやめの声が聞こえてきた。大気は大きな溜息をつくと、おぶったあやめを背負いなおす。
「まったく、お酒に強くないとわかっているのなら、あんなふうに一気に飲んではだめじゃないですか」
「お酒、強いもん……まだ慣れてないだけで」
「あやめさん、この間ハタチになったと言っていましたね。まさか初めて飲んだのですか?」
「……今日で二回目……」
「ほぼ初めてじゃないですか」
──まったく、これではどちらが年上か本気でわからなくなる。一応妙齢の女性だというのに、男の前で酔っ払い、まるで警戒心がない。
少女のように屈託のない笑顔は、コロコロ変わる表情も相まってより幼く見える。そのうえ、子どものように無垢な瞳で夢を語るときた。
くだらない夢を……キラキラした夢を……透きとおるつぶらな瞳で、まっすぐに語る。
(どうして……あなたはそんなに)
石畳をぼんやり眺めながら歩いていると、首筋にくすぐったさを感じた。あやめの髪だ。
甘く柔らかな感触に大気が戸惑っていると、首筋に頬がすり寄せられてきた。耳たぶにあやめのまつ毛がかすめたのがわかり、大気がわずかに緊張を走らせる。
あやめはそのまま大気の首元に顔をうずめてくると、甘えるような声で言った。
「大気くん、あったかい……いい匂い……」
「…………」
「花の香りがする……金木犀だ……」
大気に回された腕が、抱きしめるようにキュッときつくなった。
「──私の、好きな匂いだ」
「…………」
大気は黙って唇を引き結んだ。
(……なぜ……)
どうしてか無性に泣きたくなってきた。背中に触れるあやめの温もりが、急に現実味を帯びてくる。
──なぜ。こんななんてことない言葉に。なんの意味も持たないはずの言葉に。どうして安心感を覚えるのだろう。
湧き上がってくる感情に戸惑っていると、不意にあやめの言った言葉が思い出された。
〈まっすぐな気持ちは、どんな言葉でも伝わるものなの〉
(……ああ、そういうことですか)
大気の口元が自然とほころんだ。
──正直、この状況には奥ゆかしさなんてカケラほども感じないけれど。たしかにいま、彼女のまっすぐな気持ちを感じた。
出会って間もない大気のことも受け入れ、手を差し伸べようとするあたたかな気持ちを感じた。
(……よかった、彼女にいまの顔を見られなくて)
背中で寝息を立てはじめたあやめを背負いなおすと、大気は道をゆっくり進んだ。