あやめが目を開けると、見知らぬ天井が視界に飛び込んできた。
「……あれ?」
仰向けに寝転んだまま天井を見上げ、しばし無言で固まる。
──ここはどこだろう。なぜこんなところで寝ているのだろう。というか、いつ寝たのだろう。
「んん〜……?」
天井を見上げたまま首をかしげる。すると、ガチャッと音が聞こえ、開いたドアから大気が姿を現した。
「ああ、起きたんですね、あやめさん」
「大気く……──はっ!!」
その瞬間すべてを思い出したあやめは、目にも留まらぬ速さで寝ていたベッドから抜け出すと、大気が止める暇もなく彼の前に土下座した。
「もおぉしわけっ! ありませんっっ!!」
「ちょ、あやめさんっ!?」
慌てた大気が膝をついて起こそうとしてくる。しかしあやめはそれを撥ねつけると、さらに額を床にこすりつけた。
「オーディションに落ちた腹いせに会って間もない15歳の青少年を強引にカラオケルームに連れ込んだ挙句あろうことか私一人だけ酒を飲んで酔っ払ってさらにはおんぶして連れて帰ってもらいそのまま背中で寝落ちするなんてっ……!」
ノーブレスで言い切ると、大気が「おお」と妙な歓声を上げた。
「あやめさん、大丈夫ですから。いったん落ちつい」
「ごめんなさいっ! 本っ当にごめんなさいっ! おわびします、なんでもします、だからどうか命だけは──」
「落ちついてください」
大気の語気が強まり、あやめがようやく止まった。泣きだしたい思いでおそるおそる顔を上げると、目のあった大気が小さく吹き出す。
「……ひどい、大気くん。笑うなんて」
「すみません。捨てられた小犬のような顔だったので、つい」
「もっとひどい」
「ひとまず座ってください」と大気にうながされ、先ほどまで寝ていたベッドに浅く腰かけた。水の入ったグラスを渡され、乾いていた喉をうるおす。
ベッドに座るあやめの正面に大気が立って訊いてきた。
「覚えているのですか? 酔っていた時のこと」
「はい……あの、おんぶしてもらった時に、エロオヤジみたいなことまで口走りまして……本当に申し訳ありませんでした」
──できれば忘れてしまいたいくらいだった。己の記憶力がうらめしい。
ストレス発散に叫び散らし、酔っ払って大気に介抱してもらったうえ、おぶって連れ帰ってもらっただなんて。しかも「いい匂い」だとかセクハラまがいのことまで口にしてしまった。まだ知り合って三度目の相手にさらすには十分すぎる醜態だ。
「……そうですか、覚えているのですか」
大気はなぜか機嫌よさそうに言うと、隣に腰かけてきた。ベッドの片側が沈み、あやめの身体がわずかに大気のほうへかたむく。
──金木犀の甘い香りが、強く漂ってきた。
「……!」
その瞬間、あやめの顔がカッと熱くなった。ギクシャクとぎこちない動きで、大気から拳ひとつ分だけ距離をとる。
「あやめさん?」
「あっ、いやそのっ……お、おわび! 迷惑かけちゃったおわび、なにすればいい?」
「おわび? そうですね……」
大気は口元に手をあて少し考えると、
「では、また本屋に連れていってくれませんか?」
「本屋? そんなことでいいの?」
「ええ。その代わり、次はさらに品揃えのいい大きめの店でお願いします」
出された提案に、あやめは拍子抜けしたような顔をした。
「それは全然かまわないけど……探してる本があるなら、言ってくれれば買ってくるよ?」
「いえ、そういうわけではなく……いくつか詩集を見てみたくて」
「詩集?」
大気は「ええ」とうなずくと、楽しそうな笑顔で続ける。
「参考資料がほしいと思いまして。あなたから出された問題に答えるための」
「問題? 私なにか……あ、」
「『I love you』を訳しなさい」
あやめが言うより先に、大気が言った。
ベッドに並んで座るいまの状況で、さらには目を見つめられながらその言葉を言われると、変に意識してしまう。あやめは熱くなる顔をごまかすようにパタパタと両手を振った。
「あっ、あれはただの思いつきでっ……そんな真剣にならなくていいのに!」
「ちょっと興味が湧いてきましたので。もともと趣味で詩には親しんでいましたから。──それにどうせ趣味をするなら、自分でいろいろ考えたほうが楽しいと思いませんか?」
自分が言った言葉を大気に使われ、どうしてか恥ずかしくなってくる。あやめは視線を泳がせながら早口でまくし立てた。
「そうだね自分でいろいろ考えたほうが楽しいよねっ! じゃ、じゃあ今度行こっか、大きめの本屋。次の撮影はあさってだから──」
その時ガチャリとドアが開き、銀髪の青年が顔を覗かせた。
「大気、いるの? 玄関に見たことない靴があったけど、あれなに……あ、」
「「あ」」
大気とあやめはベッドに並んで座ったまま、入ってきた彼──夜天を見た。
「…………」
ドアを開けた姿勢のまま固まった夜天は、無言でこちらをじっと見つめると、
「大気フケツっ!!」
「誤解です、夜天っ!」
バタンとドアを閉めて出ていった夜天を、大気が慌てて追いかけた。
なにがなんだかわからぬまま二人のあとを追って部屋を出たあやめは、そこで夜天の両肩に手を置き、彼の顔を覗き込む大気の姿を見つけた。
「どういうつもりなの大気っ!? 星野や僕が必死になってる時に、不純異性交遊してるなんてっ!」
「だから誤解ですって!」
見るからに修羅場の二人をポカンと眺めていたあやめは「あ」とひらめいたように声を上げると、夜天を見て、
「きみ、もしかしてコウくん?」
「気安く呼ばないで!!」
「すみませんっ!」
般若のごとき顔をした夜天に威嚇され、すくみ上がった。
あやめを隠すように前に立った大気は、「どうどう」と夜天をなだめるように両手を振ってみせながら、
「彼女はここでの暮らしをいろいろと教えてくれている人で……いわゆる生活アドバイザーですっ」
「生活アドバイザーがどうして大気のベッドにいたのさ!?」
──いかん、火に油を注いでいる。完全に抑えの効かなくなった夜天に、大気は頭を抱えた。
その時、
「んだよ夜天、騒がしいな。──お?」
別の部屋から星野が出てきて、あやめを見ると両眉を上げた。
あやめは自分を見つめるその黒髪の青年を見つめ返すと、
「……きみもコウくん?」
「ああ、星野光だ」
「……すごい、ほんとにアイドルグループみたい……」
ニカッと爽やかな笑顔で答えた星野に、あやめは信じられない様子で呆けた顔をした。
*
玄関の外に出たところで、前を行く大気が振り向き軽く頭を下げてきた。
「すみません、あやめさん。慌ただしくて」
「いいよいいよ! 元はといえば私が迷惑かけちゃったわけだし。ほら、早く戻ってあげないとカノジョがすねるよ?」
「……あの、夜天とはそういった関係では……」
大気がなにかを言いたげに眉をひそめる。それにあやめはカラカラと笑うと、「あさってのことはまた連絡する」と手短に言い残して別れた。
家路についたあやめは、夕焼けに染まった空を見上げながら、今日一日で見た大気のいろいろな表情を思い返していた。
〈『I love you』を訳しなさい〉
(ただの思いつきで言っただけなのに……大気くん、ずっと考えてくれてたんだ)
無意識のうちに頬がゆるんでくる。
今日は大気のいろいろな一面を見ることができた。代わりに自分もぶざまな一面をさらしてしまったわけだが、得たものを考えるとむしろ得した気分なくらいだ。
足取り軽く歩いていると、少し先に可愛らしいオレンジ色が見えてきた。
「あ、金木犀だ。もうそんな時期──」
和みかけたその時、漂ってきた香りに息を詰まらせるように言葉を途切らせた。
──夢心地の中で感じた、広くて温かい背中と、甘い香りがよみがえってくる。
(ちょっと……なに意識してるの私っ!)
いつもであればゆっくりとその香りを楽しむあやめであったが、今日は熱くなる頬を両手で押さえると、足早に香りの中を通り抜けていった。
* * *
あやめを見送り家の中へ戻った大気は、リビングで仁王立ちになって待ち構える夜天を見るとぐったりとうなだれた。
「大気。さっきの女、誰なの?」
「ですから夜天、彼女は──」
「あやめだろ?」
さえぎって言った星野に、大気と夜天は二人して目を丸くした。
星野は得意げに口端を上げるともう一度言う。
「モデルのあやめだろ? すぐにわかったぜ」
「……星野、なぜあなたが知っているのですか?」
「おまえがここに置きっぱなしにしてた雑誌に載ってたからな」
──しまった、それも起き忘れていたのか。
苦い表情をする大気の脇をすり抜け、夜天が「モデル?」と言いながら星野の手にある雑誌を受け取る。
「……ふん、これでモデル? 華がないね」
容赦ない評価を下した夜天に、大気はあやめがこの場にいなくてよかったと心底安堵した。
夜天はローテーブルに雑誌を放り投げると、ソファに荒々しく腰を下ろし大気を睨み上げる。
「信っじらんない! 大気が地球の女なんかにうつつを抜かしてたなんて」
「ですからそれは誤解だと言っているじゃないですか、夜天。彼女とは行きがかり上たまに会うようになりましたが、本当にこの星の暮らしを教えてもらっているだけで、それ以上はなにもありませんよ」
「当然でしょ。それ以上のなにかがあったらゲンメツするよ、僕」
穏やかでない発言をする夜天に、大気はこっそり冷や汗をかいた。
しかしその夜天も、星野に次の話題を振られるとすぐに表情を真剣なものに切り替える。
「夜天、今日おまえ『気になることがある』って言って出かけたよな。なにか手がかりをつかめたのか?」
「あのお方の手がかりはまだだけど……この街に、邪悪な気配を放つ場所を見つけたんだ」
「邪悪な気配?」
大気がソファに座りながら訊き返すと、夜天がうなずいて続ける。
「うん。『デッドムーンサーカス』ってサーカス団なんだけど」
「デッドムーン……?」
大気が眉をひそめる。──あの虎島という男の名刺に書かれていたものと同じだ。なにかつながりがあるのだろうか。
大気の隣で、星野も同じように眉をひそめながら訊いた。
「やつらか?」
「たぶん違う……ギャラクシアの一味とは違う気配だった」
夜天は首を横に振ると、口元に手をあて考えるしぐさをしてから「それから」と付け加えた。
「この街に、星の輝きをたくさん感じるんだ」
「本当かっ、夜天?」
「9……10……ううん、もっと感じる」
「そんなにいるのか!? ──そいつらが敵じゃないといいけどな」
硬い表情で話す仲間の二人を眺めた大気は、思案顔をすると静かに目を閉じた。
──たしかにこの街には輝きを感じる。しかしそれは星の輝きだけではない。この街に住む人々から、なにか生き生きとしたエナジーを感じるのだ。……いったいなぜ。
考える大気の脳裏に、透きとおった瞳を輝かせるあやめの顔がよぎった。
「夢」──その言葉が自然と浮かんだ。
この街には夢があふれている。豊かな自然、人々の行き交う道、色と音楽に彩られた繁華街。
あやめは、そんな夢にあふれる街で自由に生きているように思えた。
(だから、彼女はあんな瞳をしているのでしょうか……)
大きく開いたつぶらな瞳で、夢を語っていた。
その瞳は、夢を信じ、希望を持って、明日を見ているようだった。
(わからない……たかが夢のために必死になって、くだらない)
くだらないと思うのに、そんな彼女をどうしてか目で追ってしまう。彼女の声を、耳が拾ってしまう。
〈大気くん、あったかい……いい匂い〉
あの時の言葉を思い出すと、胸がくすぐったくなってしまう。
〈──私の、好きな匂いだ〉
酔った中で言われたあの言葉をあやめが覚えていると知った時、なぜかホッとしてしまった。それどころか、どういうわけか嬉しくさえ感じた。
(いったいなぜ……わからない……)
大気は目を閉じたまま眉を寄せ気難しい表情をすると、眉間をほぐすように指で押さえた。