パラノイドは捨てて歩け

__面白いくらいにただの一般人。


それが結局分かった七海名前のことであった。体調が悪いのは貧血と過労が原因みたいだ。そのことが分かると兄の方の七海はほっと人知れず息をついた。それと同時にそんなになるまで休息をどうしてとらなかったのか、なんて過去の自分のことなど棚に上げて少し怒りを覚えた。まだ名前は眠ったままであるため、その怒りは自然に伝播して消えていく。

「……」

しかし、一つだけ結局分からないことがある。何故あんなに呪霊が彼女に集まっていたのか、だ。七海があの光景を名前の周りで見たのはこれが初めてである。元から呪霊を寄せやすい体質だとかそんなものがあったら、身内に見える七海がいるのだからとっくの昔に分かるだろうし。

五条がその眼で見たのに、首を傾げていたのだからやはり何も分からない。呪力は一般人のそれだ。特に変わったものはないように思えた。じゃあ呪霊にしか分からない"何か"を発している?とか、"何か"を所有しているのでは?それくらいしか考えられない。しかし、家入が探ってみてもそれらしいものは出てこなかったのだ。


結局曖昧なまま時間は過ぎ夕方になる。その頃になると名前が目を覚ました。「ここどこ?」それが第一声だ。

困惑するのは当たり前だろう。病院だとか自宅だとか七海の家だとかなら分かる。しかし、居るのは兄の母校。ワタワタと慌てる彼女に対して、五条が良い感じに丸め込んだらしい。五条談なので本当に"良い感じ"に収まったのかは分からない。取り敢えず状況だけは把握したらしいので、彼女はまず職場に連絡をとった。電話を終えた彼女が口を開く。明日は昼から出勤になったらしい。意外と融通が効く職場みたいだ。何でもよく体調を崩す人たちが多いらしく、こういう対応には職場も彼女もそれなりに慣れているらしい。何だそれ、とは思ったが、彼女は平然としているのでそういうものなのかもしれない。

「いつも代わってもらってるから休みなよー、とか言われたけどさ。それはさすがにね」

なんて言って名前は笑っている。その様子を見て、七海は先程の怒りをまた少しだけ思い出した。貧血と過労が原因だと話して、少しだけ説教をする。反省の色よりも少しだけ困っているという感情の方が多い表情の名前は、それでも言い訳も何もすることなく「ごめんなさい、心配ありがとう」と言うだけだった。


◇◆◇



貧血と過労ね、名前はぼんやりと考えた。兄から言われた言葉に"あの力"の後ってそういう症状になっているのだろうか、と考える。生憎そういった知識はあまりないためよくは分からないが。しかし、残念ながら2連休後の出勤であったので、過労はないはずだ。貧血は元々それらしい体質だったので、まあ言われても仕方ないだろう。口には出さないがそんなことを頭の中に思い浮かべる。

身体の中をぐるぐると渦巻いて駆け回る気持ち悪さはまだあるが、先程よりも随分マシである。同僚のあの子に憑いていた"それ"は結構厄介なやつだったように思えたから、もっと酷いかと思ってたのになあ。兄の知り合いらしい保健医さん?の処置のお陰だろうか。それにしても何で私は兄の母校にいるのだろう。先程五条さんに色々話を聞いたが、結局何故ここに運ばれているのかの明確な理由には繋がってはいない気がする。例えここが五条さんが言ってた兄の仕事に関わる所であっても、兄の母校であっても、名前をここに連れてくる理由にはならないだろう。だが、理由に着いて探ったところで、教えてくれるようには思えない。考えるだけ無駄、といったところだろうか。


「あの、さすがに迷惑なんじゃ……、そろそろ帰ります」

五条さんに呼ばれた兄と入れ替わりで保健医の女の人が部屋に入ってきた。家入さんというらしい。美人だな。

今回のことでの謝罪と感謝の言葉を述べたあとに、そうさらに続ける。窓の外から夕日がさしている。随分長い間ここにいたのだろうということを察しながら、帰るなら今のうちだろうと声をかけた訳だが。

「…うーん、ちょっと待ってて」
「え、はい」

多分ここに連れてこられた時よりも随分顔色も良くなっただろうし、今の状態だったら家に帰るくらいの体力は持つはずだ。「帰っていいよ、でも安静にね〜」的なことを言ってくれるのでは、と思ったんだけど……。名前は、部屋を出て行ってしまった彼女を目で追いながら、小さくため息をつく。自分の知らないところで、何かが起こっているようなそんなぼんやりとした不安を覚えた。


◇◆◇


「……」

家入硝子が懸念していたのはやはり彼女を高専から出したら、呪霊を引き付けてしまうのでは?ということだ。そんな危険な状態になりかねないため、すぐには了承できず、廊下で話している五条と七海の所へやってきた。

"普通なら"、確かに今の状態だったら帰れるだろう。1人にするのは不安であるが、今日は七海は夜から出張だ。七海と名前は、住んでいるところもお互いに近いらしいので、出張前に一旦帰る七海がそこまで送ればいい。

しかし、五条や七海の話が本当であるなら、七海が送っている途中、もしくは彼女が家に帰ってから彼女に危険が及ぶ可能性が高い。家に結界を張って今日は難から逃れられたとして、明日は?彼女も普通の社会人で仕事があるだろう。もしかしたら今回の件で"その普通"が罷り通らなくなるのでは?そんなことを考え始めたらキリがない。

呪霊を引きつける原因が分かっているのならそれなりの対処はできるが、彼女の件はそれが分からない。だって、"異常"をいくら色々探っても彼女は"普通"だったのだから。


「帰りたいって?」
「ええ」

五条は家入を見るなり、分かっていたようにそう聞いた。それに頷けば、五条は七海の方へと視線を向けた。七海はいつも通り無表情だが、どことなく固い。

「帰してあげたいんだけどねえ、さっきの状態が続くなら要監視、保護ってやつなんだよね」
「せめて原因が分かればねいいんだけど」
「……」


五条と家入の会話を七海は無言で聞いている。妹を"こちら"に関わらせたくない。自分の高専時代のこと、最近のことそれらを思い返しながら出てくるのは"それ"だけだ。

こんな仕事をしていれば、知り合いで死んでいったものは沢山いる。身近なやつもあまり顔を合わせていないやつも。あいつもそいつも彼も彼女もあの人も。少数の集まりだからこそ余計に"死"は近くに感じる。そんな世界に妹を近づけたいとは思わなかった。巻き込みたくないと思っていた。

しかし、それも通用しなくなる、かもしれない。昼の公園のできごとは明らかな"異常"だった。自分たちがいなければ、彼女はどうなっていたのか。それを考えれば、彼女を"こちら"に近づけたくないと思っていたはずなのに、揺らいでくる。彼女を守るためには、どうしたらいいのか。そう考えれば、答えは簡単に落ちてくる。



__七海も五条も家入も誰も知らないのだ。知るはずはないのだ。

七海名前は、とっくの昔に、気の遠くなるくらい昔に"こちら"側に入り込んでいることも。彼女にとってその"異常"は"普通"であることも。


◇◆◇



「…えっと」

外の廊下のことなど知らずに名前はスマホを確認していた。家入が部屋を出て行ってから結構時間が経っていた。

スマホを確認していたのは、自分の体調不良のせいで狂ってしまった仕事のスケジュールやら何やらをもう一度考える必要があったからだ。通常の業務や自分が今関わっている案件について、時には上司や同僚に確認の連絡を入れながら練り直す。ある程度簡単に纏まったところで、窓の外をまた見やった。

「ん?パンダ?」

視界の端に一瞬パンダが見えた気がしたが、ここは学校。幻覚?見間違い?と首を捻る。いや、もしそうでないとしても、文化祭とかそういったイベントとかに使うから誰かが着ていたのだろう。そう勝手に結論づけた。そうでなければ演劇部とかかな?着ぐるみ着るかは知らないけれど。

「……」

それにしてもこの時間帯なら部活動などをしたり、下校したりする生徒がいるものではないのだろうか。そんな疑問がふと浮かんだ。しかし、そんな物音も人もほとんどなく、何だか夏休みとかの学校にいるみたい。

あれ?そういえば夏休みってもしかしたら今ぐらいだっけ?だから生徒があまりいないのだろうか?社会人になったら夏休みという概念があまり関係なくなるし、今は9月だけど高専ってつくところとか大学とかって期間がそれぞれ変わってたりするから意識してなかったなあ、なんて呑気に考える。

そんなことを考えていれば、ガラリと扉が開く音がした。家入さんが戻ってきたのだろうか。そう思って名前はそちらを見やる。そこには兄と家入、五条が立っていた。

3人並ぶとなんかすごい。てか、さっきは何も言えなかったが、五条さんのあのアイマスク?は何だろうか。サングラス姿しか見たことがなかったから違和感がある。前、見えてますか?だなんて聞けはしないが、めちゃくちゃ気になる。

「よし、帰ろうか」
「え、あ…はい」

急にそう言われて驚く。先程望んだ言葉ではあるが、なんだか変な感じだ。兄ではなく、五条が名前に言ったからだろう。隣で死んだ目をした兄が五条さんをちらりと見た。しかし、彼は何も言わなかった。


◇◆◇



七海は隣の五条の行動にため息をついた。妹に呪霊が寄ってくる理由は結局原因が分からないのだ。だから家に帰すのはまずいだろう。原因がはっきりするまでは呪霊の危険がないところにいた方が良いし、彼女の安全のため必要ならば、呪霊の存在を教えなければいけない事態になるかもしれない。それを身内であり、そして何より1人の呪術師である七海は頭の隅でしっかりと考えていたのだ。覚悟だって決めてはいた。それなのに五条は一言言った。

「よし、今日は帰宅してもらおう」
「……」
「は、何言ってんの?」

唐突にそう言ったのだ。七海と家入が困惑の表情を浮かべていることなど構いもせず、五条は言葉を続けていく。正直反対したかったが、こういう時の五条は、こちらの話を聞いてはいても採用してくれないことなど2人はよく知っている。五条には五条なりの考えがあるのだろう。自分たちには見えていないものが、違う視点での思考が彼の中を巡っているのだろう。

「大丈夫だよ、もう一度この眼で確認したいだけだ。名前ちゃんにはこの最強がついてるから七海は安心して出張行ってきていいよー。あ、お土産はぜーったいだから!よろしく!」
「…はあ」

五条はやはり五条の六眼では分からなかった"原因"が気になっているらしかった。ただの普通の一般人である彼女に呪霊が寄るのはどうしてなのか、そんな好奇心が少し、そしてこのまま放っておけば本当の危機が訪れるかもしれないという懸念、それが五条の頭を占めている。勿論名前を危険に晒す気はないし、まずいと思ったら高専にまた連れ帰るつもりだ。どうせ明日は任務がないから虎杖の特訓に付き合うくらいの予定しかない。彼女の様子を見る時間はそれなりにあるはずだ。

「大丈夫だよ。大事な後輩の妹だ。何かあれば絶対に守る。……だから、五条せんぱーいって敬っていいんだよ?」
「よろしくお願いします。五条さん」
「ちぇ、ノリ悪」
「……めんどくさ」
「硝子がひどい」

五条は頼りになるがノリがうざいし面倒、それがその時七海と家入が心の中で思ったことだ。まあこの男が任せろと言うのだから大丈夫だろう。そんなことを考えながら、3人は名前が寝かされていたその部屋を再び訪れる。そして五条が名前に「よし、帰ろうか」と伝える。急なことで驚いた名前だが、「はい」と頷いた。

部屋を出て、高専の廊下を七海は荷物を片手に少しだけふらついている名前の身体を支えやすいように近づいて隣を歩く。これから用があるから、と途中で別れる家入に名前は感謝やら謝罪やらを丁寧に述べる。その丁寧さや姿勢に五条も見習え、という視線を家入が五条に向けるが、五条はただニヤニヤと笑っているだけだった。七海は心の中で家入に賛同する。全くだ、と。


七海、五条、名前の3人は高専の校舎の外に出て、校門を目指す。途中まで伊地知が車で送ることになったので、結界から出た瞬間、何かあれば帳をおろせるように待機させている。昼間のことからして、結界を出れば彼女に呪霊が集まる可能性が高いだろうからと。呪霊を祓った瞬間にはもう集まり始めていたのを思い出しながら、七海は腕時計を確認した。

「……」

出張に使う新幹線の時間には余裕が全然あることを確認し、それから隣を歩く名前に視線を移した。名前は高専の造りを珍しそうに眺めていた。自分たちは見慣れているから特に気にしていなかったが、これが一般の反応なのだろう。五条が馴れ馴れしく名前に絡んでいる様子を横目に七海は考える。

名前は五条が近づいてもその分だけ距離をとってコミュニケーションをとるし、上手にあしらっていた。彼女は大抵の人に対してこうなので、七海が五条に兎や角言うことはない。ある意味心配が要らない。

そんなことを考えているうちには、"外"が近くなる。七海はちらりと五条を見やる。いつの間にか五条はアイマスクを外していた。その青と目が合った。小さく頷く。


「本当に今日はすいませんでした」
「いいよ、気にしないで。寧ろ僕たちが見つけて良かった」

結界の外まであと数歩。名前はぽつりとそう呟いた。それに五条はニコニコと笑ってそう言った。

「色々とありがとうございます」
「どういたしまして」

なんて会話しているうちにはもう"外"だ。名前に悟られないように七海と五条はそっと構える。視界の端には伊地知も待機しているのが見えた。

「……」
「……」
「…?どうしたんですか?立ち止まって?」

数歩先、不思議そうに首を傾げた名前がこちらを振り返っている。彼女の立つ場所は結界の外だ。

"外"に出た彼女に呪霊が群がることはない。

身構えていた身体の力を抜く。七海と五条は再び視線を合わせた。お互いの表情を確認してから、また名前を見やる。

「いえ、何も…」

本当に何もない。ただ女が1人こちらを振り返っているだけ。その後方で後輩が呆然とこちらを見ているだけなのだ。

まるで昼間の光景は白昼夢だったのではないか、と錯覚する。七海や五条、家入は彼女に対して何もしていない。原因が分からなかったから、手の付けようがなかったから。なのに状況は"こう"なった。それは"つまり"__、

「いや、何でもないよ。帰ろうか」


("普通"は人それぞれ)
(当たり前ほど、不確かなものはないでしょ?)

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