マリオネット・シンドローム

『_だか…ね……つ__な、…だよ?』

……もう、うるさいなあ。

ぶつぶつと聞こえるその声は、鼓膜を揺らしはしたが言葉としてしっかりと形を成してはくれなかった。


『あー、"これ"じゃあ、だめだね』

だから、うるさいってば。

ぼんやりとした暗闇にそう呟けば、その囁きはゆっくりと闇に溶けて跡形もなく消え去った。


___ああ、声が聞こえる。


たどたどしい幼子の声が言葉を紡ぐごとに、繰り返すごとに段々と姿を変えて、いつの間にか低く低く変わっていた。


『__流石に"それ"は脆かったかな。ま、また探せばいいか』

初めて聞くようで、物心つく前からよく知っているような矛盾した感覚をその声は名前に突きつける。いつものように「しずかに」と呟けば、フッと笑った"それ"は闇にひっそり溶け込もうとしていた。

綺麗に透き通った灰色の目が、嫌に黒に浮いて目に焼き付いた。

『ねえ、"僕のでく"。今回は___』

呟かれたそれを聞き流して、目蓋をゆっくり閉じた。


◇◆◇




その日、名前は酷く後悔していた。

出社してから30分と少し、ため息は既に10回を軽くこえていた。幸せが身体の中から飛び出してしまう感覚はしないが、明らかに減っている気はする。いけない、と思っていてもそれはスルスルと口から零れていった。

2連休後の出勤ということもあり怠さからくるため息も含まれているが、それ以外にも理由があった。

頭にぼんやりと浮かぶのは1人の男の子である。虎杖くん。彼のことが頭から離れない、というより、彼の中の深いところに鎮座する真っ黒な"それ"が名前の心を追い詰めていく感覚がした。

「やっぱり、……祓ってあげれば良かった」

ポツリ、言葉を零した。カタカタと叩いていたパソコンのキーボードから手を離しため息をひとつ。


"あれ"は暗くて怖い。今まで見た"もの"なんて比べ物にならないくらいの恐ろしさを、満面の笑みを浮かべるように湛えていた。

名前には、一定距離に入ってきた"奴ら"を消す他に、触ると消し去ることができるお祓いのような力がある。それを使って"あれ"に名前が触れていれば、こちらがどうなるか分からない。でも、やっぱりそれでも祓ってあげれば良かったのだ。

たとえ自分がどうなろうと。

いつもは無関心を貫くし、自己犠牲なんて言葉は好きではないが、あの邂逅のたった少しの時間で、彼は兄にとっていい影響を与える子の1人であると確信していた。あんなものを飼っていたら、虎杖くんはどうなってしまうのだろうか。

もしかしたら"私みたいに"__。

そこまで考えてから、止めていた手をキーボードの上に戻して仕事を再開した。


◇◆◇



「七海ちゃん、おはー」
「あ、おはよう……」

1時間出勤時間の違う同僚の女の子が出勤してきた。何だか嫌な気配がして、あいさつをしながらそちらに視線を移す。あまり血色の良くない肌がまず最初に目に映り、その後すぐ彼女の後ろの"それ"と目が合った。

「なんか顔色、悪くない?」
「……うん、今日あんまり体調良くない」
「早退した方が……」
「うん、でも今日までのをやってからじゃないと……」

青白い顔が嫌に目に映る。そんなものを引っ付けていたら、そりゃ体調が悪くなるだろうに、なんて言える訳もなく、人知れずため息をひとつ。もう一度"それ"に視線を向けて思案しはじめる。

名前のすぐそこにいる"それ"は、他の奴らと違って一定距離内に入っても、消えない。理由は簡単だ。この同僚に憑いてる、かつ力が強いからだ。

名前が分かっているだけで、誰かに憑いているもの、力が強いもの、名前に怯えていないもの、名前に関心のないものは、一定距離内に入っても消すことができない。

しかし、直接触れば消せることが多い。"それをやったあとのこと"を考えるとあまり気は進まない。しかし、今回は触れて消してあげた方が良いだろうな、と彼女にもう一度話しかけようとした時、別の声が名前を呼んだ。

「七海ー、これ営業部の方に持ってってくんない?」
「あ!!これも」
「ついでにこれもお願ーい」
「向こうに期限のやつ出せって言っといて」

1人が名前に呼びかければ、待ってましたとばかりに他からも声が上がる。書類を受け取り、伝言を預かったからには直ぐに行かねばならない。「分かりました」といつものように返しながら席を立つ。さっきまですぐそこにいたはずの同僚は、いつの間にか真っ青な顔をそのままに自分のデスクで仕事を始めていた。営業部の方の用事が終わったら祓ってあげないと、と頭の片隅で考えながら営業部に向かうことにした。


この会社の横の廃ビルは所謂"心霊スポット"というやつである。オフィスビルが立ち並ぶこの近辺で、そこはいつだって随分と浮いていた。昔、そのビルにあった会社の社長が女関係で色々あったと聞く。

あくまで噂ではあるが、あながち間違いではないのだろう。初出勤の日に先輩と社内をまわった時、名前はあまりにも"それら"がこちらの会社にまでうじゃうじゃ居るせいで、色々と煩わしくて嫌になった。名前が近づけば、大抵散っていった"それら"は、少なからず会社に悪影響を及ぼしていたらしい。まあこれだけいればな、とは思うが。

名前がこの会社に入った月からいつにも増して会社全体の雰囲気やら業績やらが改善されたと聞く。

それでも営業部だけは中々厄介だった。営業部のある所は、一番例の廃ビルに近いために、名前がどんなに訪れたところで、離れた瞬間に"やつら"が湧いてくる。何故だ、と窓の外から廃ビルの様子を伺うと、廃ビルの同じ階に"ヤバいやつ"がいることに気づいた。

"それ"は薄気味悪さと、明らかな有害をたたえてこちらを見つめていた。「なるほど、これが原因で集まってるのか…」と理解したと同時に、関わりたくないなとも思った。だってあれは、"塵のようなもの"。"気にかけないほうがいいもの"だ。

こちらにこれ以上の危害を加えなければの話ではあるが、と、"彼"が名前にむかし諭したことを反芻する。そして名前は、何も知らないふりをして過ごすことにしたのだ。

まさか、数週間後に「七海はよく営業部の方に行って体調崩さないなあ。じゃあ、これからは営業部に関するやつはちょっと任せてもいいか?」なんて、有無を言わさない笑みで上司から言われるなどとは思いもしなかった。何ならその"ちょっと"が全然"ちょっと"じゃないだなんて思いもしなかったのだ。


◇◆◇



「……あれ?いなくなってる」

いつもの気配を感じず、思わず営業部の窓の外から隣の廃ビルをみる。
いつも嫌な気配を満遍なく放っていた"それ"がどこにもいない。思わずいつもは近づかないその窓に更に2歩ほど寄って、廃ビル全体を見えるだけの範囲見るが、やはり"それ"はどこにもいなかった。心做しかいつもは湧いている"やつら"も少ない気がした。

おかしい、と思いながら営業部の人達の様子を伺う。

いつも誰かしら腹痛やら頭痛やら、彼氏彼女奥さん旦那さん舅・姑関係で問題を抱えため息をついている営業部の活気がいやにいい。多忙やストレスによる空元気には見えない、ただの絶好調。初めて見た光景になにこれ、と思わずつぶやく。

そこでふと思い出した。同僚の後ろにいた"やつ"が放っていたあの気配を。あの廃ビルにいた"やつ"が彼女に憑いてるのだと理解する。姿は見た事がなかったため、気づくのに遅れてしまった。そして、あまりに気配が近すぎて逆に気づかなかったのだと認識し、またため息が出た。営業部の方の用事をさっさと済ませて来た道を帰る。自分の仕事場へ戻って、同僚の様子を伺う。真っ青だった顔は、もう色がなかった。

「……本当に大丈夫?」
「うん、昨日彼氏と会ってからずっとこんな感じで…」

上司に営業部からの書類を渡し、少し話をしてから同僚のデスクに近づいて声をかけた。明らかに大丈夫では無いのに「大丈夫?」と聞くのはやはり日本人の性なのだろうか。

彼氏と会ってから、ねえ。そう云えば、同僚の彼氏って__、

「彼氏って確か心霊スポット巡るの好きな人だったよね?」
「そう……、確か一昨日友達とここのすぐ横のビルに行ったらしくて」

やっぱり、口の中で呟く。あの廃ビルの異様さを理解しているはずの同僚が自ら近づいたとは思えなかったのだ。彼氏に着いてきたやつが、同僚に憑きなおしたらしい。ギョロリ、その目と目があった。ニヤリ、笑ったそいつの長い長い髪の毛が少しずつ辺りを覆っていく。

「誰か腹痛の薬もってないか?」
「……あ、俺も欲しいです」

周りの人間が明らかに不調を訴えはじめた。最悪、と心の中で言う。

全くなんでこうなってしまったのだろう。まあ、理由なんてすぐに思いつくが。"こいつ"がここにいる理由は、いわゆる私のせいってやつか、と。

他の人より"視える"せいか、この何とも言えない力のせいかは分からないが、何かしらを感じて名前の近いところに"こういうやつ"が来たことはある。何回かこれと似た経験があるため、やはり今回もそんな所なのだろう。この同僚とはほとんど同じところで仕事をしているし、お弁当も一緒に食べる。そのせいで何かを感じ取られてしまったのだろうか。

「……」

あーあ、わざわざ"食べられに来る"なんて。そうぼんやりと思いながら"それ"を睨みつけた。そして、同僚の肩にそっと触れる。次の瞬間、"それ"は目の前から消失する。グワン、と何かが身体の中を駆け巡っていく感覚がして、名前は思わず口を押さえた。

「もしかして、七海ちゃんも具合悪い?」
「……うん、あまりよくはない」

というか、今急激に悪くなった。ぐるぐると気持ち悪いそれが己の中を巡っていて、くらりと眩暈に似た何かに襲われる。

「だ、大丈夫だから」

全然大丈夫じゃないけれど。安心させるため、というか強がりでそう言って、自分のデスクに戻ろうとするが身体は言うことを聞いてはくれないようだ。

「な、七海っ!」
「本当に大丈夫!?」

ガタン、音がしてはじめて、片手は口に、片手はデスクについて蹲っているのだと気づいた。上から上司やら同僚やらの心配した声が降ってくる。

また強がりで「大丈夫だから」と言い張るが、明らかに体調が悪い様に「早退していいよ」と言葉をかけられる。ぱっと顔を上げて同僚の顔色を確認する。先程より格段に色の良くなった彼女が見えて、ほっとした。「ほら、荷物はこれだけだよね?」と他の同僚が荷物をまとめてくれたらしく、鞄を渡してくれる。ここまでされたら早退するしかない。上司に「迎えとか来れる人は?」と聞かれ、「いないですね。タクシー拾います」と答えた。

「そっか、今日までの仕事は抱えてなかったよな。明日来れそうなら続きからで。無理そうなら連絡してくれ、振り分ける」
「本当にすいません。分かりました」
「いいよ、七海が体調崩すことあまりないからな。他が体調悪いときはいつも代わってくれるし」

いつもの爽やかな笑みを浮かべた上司は、他の人の仕事を把握してるだけあってさすがである。「下まで送ってく」と半ば支えられ、エレベーターで1階まで降りた。タクシーが来るまで待とうとしてくれたが、それは断った。だって、「タクシーを呼ぶなんて嘘だし」とは言えない。

今すぐ"これ"をどうにかしないといけないのだ。

上司の姿が見えなくなったのを確認して、人通りの多い通りから、1つ2つ路地をぬけて滅多に人のこない所へ入り込む。誰もいないことを確認すると、建物の壁に背中を預けて、座り込んだ。体が悲鳴をあげている。体の中を"食べた"そいつの力が暴れ回る。この感覚が大嫌いだ、昔から。早く、はやくどうにかしないと。ぼんやりとしてきた意識が"彼"を連れてきた。


『__また首突っ込んだの?……お人好しだねえ』

耳元で"彼"が嗤っている。ああ、煩いなあ。分かってるよ、どうせお腹が空いてたくせに。それなら丁度いいじゃないか。ああ、本当に執拗い。どうせなら"全部"食べてくれればいいのに。中途半端に力だけ身体に残すのではなく、それすら全部食べてしまえばいいのに。


『……ふふ、本当に仕方ないなあ』

ああ、だからもう静かにしてよ……。

名前は、でくらしくくぐつの言う通りに生きてくれればいいのになあ』
「……」
『___それ以外なんていらないのに』

そう呟くと"彼"はまた愉快そうに嗤った。

『■、□□乖□、__はなれ

彼が、そう唱えると身体のぐるぐる巡っていたそれが、ふっと伝播していく感覚がした。

(君が僕の"でく"で)
(あなたは私の"くぐつ")

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