名前はポツリと呟いた。暗闇の中でぼんやりと見つめた自分の掌に浮かぶ印はここでしか見れないからか、何だか違和感があった。
『何それ?』
「……」
名前のつぶやきを拾った彼がにこりと笑顔を浮かべて首を傾げる。この暗闇に似つかわしくない白髪に灰色の目、そして死装束のような白い装い。その全てをこちらの瞳に焼きつかせる彼は、いつものようにニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。いつものように「静かに」も「うるさい」も言わず、名前は彼の言葉を聞き流した。
"21g"
それは人の魂の重さらしい。
それはあと一歩踏み出せば死に至る人の体重と、亡くなったあとの人の体重の差が21gあったという話だった。まあ本当かどうかは知らないが。汗が蒸発したとかそういう説もあるらしい。ぼんやりと見ていたメディアで特集されていただけだったから内容はそこまで覚えていない。でも、その21gという単語だけはよく覚えていた。
『あーあ、"今回の
はぁあ、とわざとらしく大きくため息をつく音が反響している。ぼんやりとした思考のまま顔をあげれば、暗闇の中にぷかりぷかり浮かび咲いている花が目に入った。
「蓮の花だ…」
何だっけ。仏教かなんかで意味がある花だった気がする。そこまで詳しくないから、知識は何も浮かびはしなかった。あの如何にも宗教な名前の学校に通っていた兄だったら少しは詳しいかも知れないなあ、とぼんやり考えた。その花を目に映していると、そこにあるのは蓮の花だけでないことに気づいた。
「それ、なんの花だっけ?」
『ああ、これ?えーっと、カンシロギク』
「……カンシロギク」
その花を指さしてそう問えば、珍しく自分と会話をする気のある名前に嬉しそうに笑って彼が言う。大抵のことは何でも知っている彼は、ほんの少しその花の名を思い出すように考えるとそう答えた。名前は、思わずオウム返ししてしまった。なんとなく見慣れた花で、名前もぼんやりとだが知っていたはずのそれは、自分の中で象られ始めていた名前とは随分と違っていた。
重たい腰を上げてその花に近づく。いつもは彼と一定の距離を保っていたが、今日はそれを意識することはなかった。その花のそばに腰を下ろした。
『この名前なら知ってるんじゃない?』
「なに?」
『__ノースポール』
「ノースポール、ああ確かにその名前は聞いたことある」
『ふふ、ちなみに花言葉は知ってるかい?』
「……知らないよ。むしろ知ってるの?」
いくら大抵のことは知っていると言っても、彼が花言葉まで知っているとは思えないが。伊達に何回も"繰り返している"訳ではないらしい。
『知っているよ、とてもいい花言葉がある』
「ふうん」
『……儡に一番近くて遠い意味の花言葉がね』
「へえ、それは?」
___輪廻転生
思わずノースポールに向けていた視線を彼、傀に移していた。
「輪廻、転生?」
『そうさ、その花にはそういう花言葉があるんだよ』
「へえ、大層な花言葉だね」
『そうだねえ。君にぴったりだろ?』
彼は楽しそうにそう言葉を弾ませた。
「……ぴったり」
『死んで生まれ変わっているんだからそうだろう?もう君が何回目の儡かは覚えていないけれど、僕が無理矢理そうさせているんだから』
「……」
『他人で云う神や仏は、君の中だと僕だろう?違う?もう気の遠くなるくらい昔から君の魂は半分ないんだ。僕がいないと、僕に縋らないと生きていけないでしょう?』
「……」
彼の言葉に何と言えばいいのか思い浮かばなかった。狂気をたたえた瞳はこちらを捉えているのに、名前を見てはいない。彼が見ているのはこの"魂"だけ。名前が死ねば、またこのたった21gすらない魂を抱えて無理矢理次の肉体に移っていく。もうずっと昔から何回も何百回も繰り返してきた彼には名前なんかそこまでちゃんと映っていないのだろう。
『ああ、でも今回はまだ死なないでくれよ』
「……生憎とその予定はまだないかな」
『そう、なら良かった。一応これは君の人生だ。恋だの結婚だのに首は突っ込まないし、興味もないから好きに生きていいけど、とりあえず僕が良いって言うまでは死なないでね』
「生憎と恋も結婚も予定ない。……あと、死ぬのにあなたの許可が必要って何だか本物のあやつり人形だね」
"あやつり人形"、その言葉に彼はにっこりと笑みを深めた。
『何言ってるの。君は僕の傀儡だろう?……1000年も前に僕がそうだったように、君は傀儡なんだよ』
「……そう」
あー、なんか変なスイッチ押したかも。割と変なこと言われている自覚はあるが、深く考えると面倒なので適当に流した。
『君は特に今までの子たちの中で、力は強いし僕の力との馴染みも良いから気に入ってるんだ。……あー、繰り返してきてよかった』
__そろそろ"
なんて、聞きたくないことが聞こえてきて、思わず「うるさい」と呟いた。そうするとこの暗闇は段々と晴れていく。意識もだんだんと浮上していく。
千年以上前、とある術師の傀儡が化け物になった。上手く喰らうことができず、取り込めなかった呪いに乗っ取られ、主を殺し、その感情をも食べた。
化け物は、主が仕えていたとある公家の姫君の類稀なる美しく透き通って透明な魂を食べかけ、後悔する。まだまだ未熟なそれはきっとこれからもっともっと美しくそして美味しくなるはずだっただろう、と。
___完熟した魂が食べたい。今ですらこんなに美味しくて、そして何より強い力が手に入る魂だ。これが完全に熟した時、それはきっと……、
だから、
未熟な魂に"儡"と名付け、彼は自分の力で補完して無理矢理色々な身体を転々とするようになった。その魂や、その力に耐えかねた身体は大抵は若くして死に至るが、彼は気にしない。また繰り返せばいいだけだ。そうして何回も回数を重ね、カルマを辿るうちに、彼は"彼女"と出会った。
『__ああ、本当にあと少しだ。でも、その前に今回の世はいつにも増して面白いらしい。宿儺、そしてアイツの器ねえ』
傀はついこの間あった彼を思い出す。
__食べるのは彼らのことを見物してからにしよう。きっといい見世物になる。
そう言って、深い深い暗闇にどっぷりと浸かった。
「……これは、厄介だなあ」
五条は目隠しで自分の目を隠すとぽつりと呟いた。今日、都内で受けていた自分の任務がまさかの2つともおじゃんになっただけではなく、他の者の任務も同様に何件かダメになったらしい。
呪霊が居なくなってしまっているのはある意味良い事ではあるが、急にそれが同時多発的に起こると気味が悪い。今日の予定がなくなったことを高専からの連絡されたあと、五条は自分が祓う予定だった呪霊のいたはずの場所まで飛んで確認する。
マジで居ないじゃん、口の中で呟いてため息をひとつついた。祓う予定の呪霊が居ないどころか、その辺を漂っていそうな雑魚ですら見かけない。宿儺や悠仁のことといい、この件といい、最近は一体何が起こっているんだと考える。
明らかに今までの日常とは違った何かが起きているのだと感じ取り、またため息をついた。宿儺の件は置いといて、この呪霊が祓われている件に関してそろそろ本腰をいれるか、と意気込む。しかし、意気込んだところで手がかりは皆無だ。
「今日の任務、片方は特級なんだけどなあ……」
相当力が強くなければ、さすがに特級を祓うのは難しい。もしかしたら呪霊同士で諍いでも起きているのだろうか。そう考えてみるが、なかには目の前にいた呪霊が急に消し飛んだと話す呪術師もいたらしく、しかもまたその他に人や呪霊を見かけなかったと言っていたらしい。少し前にも同じようなことが起きているし、状況も似ているから同一犯。別に悪いことをしているわけではないが、何だかドラマとかで見る完全犯罪を見ている気分である。
如何せん東京は人が多すぎる。この小さな土地に有り得ないくらいの人が休みなく行き来しているのだ。少々どころか、それなりに力のある一般人が何人か混ざっていても不思議じゃないのかもしれない。下手したら本人が無自覚である可能性も否めない。考えれば考えるほど答えは出てきそうにないため、五条は東京の街を練り歩くことにした。今日は暦上は土曜日と休日であるためか、いつもより人が沢山行き交っていた。
五条は、仕事もなくなり報告書も書くに書けない状態となってしまったため、ほぼ非番扱いだ。高専に行って新たに依頼を押し付けられたくはない。今はそんな気分じゃなかった。
「あ、七海!やっほー!七海も今日の依頼なくなったんだろ?」
「……ああ、五条さん」
人が多い場所だというのに、意外にも待ち合わせせずとも知り合いとはばったり会うものらしい。パン屋から出てきた後輩は五条の顔を見た途端少しだけ表情を歪めた。そして軽く会釈する。それに片手を挙げて応えた。顔を顰めている七海に慣れっこな五条は気にせず近づいて当然のように七海の横を歩き出す。七海はそんな五条に隠しもせずため息をついた。
「話には聞いてたけど、実際遭遇してみるとなんだか気味悪いよねえ」
「そうですね。……それで現場には?」
「行ったよ。…綺麗まっさら!この五条悟なんてお呼びじゃないらしいよ」
五条はわざとらしくそう言った。それを横目に七海も先程のことを思い浮かべる。自分の任務の予定があった場所に一応行ってみたが、たしかに五条の言う通り綺麗さっぱり何もなかった。
「本当に、一体どこの誰がこんなことしてるんだろうねえ」
「五条さんの目で特定は?」
「それができたらこんなに苦労はしていないよ。……1回、"何か"を捉えたことはあったけど本当に一瞬さ。すぐに消えたし追おうにも追えないかった」
それを聞いて七海は顔を顰める。五条でも難しいなら一体誰が追えるのだろうか、と。
「……」
「ま、すぐ近くでしてくれたら特定はできるかもね」
「……そうですか」
その言葉に頷きながら足を進める。そういえば五条さんはどこまで着いてくる気だ?と心の中で考えながら、ちらりと隣を見る。鼻歌を歌いながら歩く彼は全く上機嫌には見えない。すぐに視線を前に向ける。今日は特に人が多いからか辺りをふよふよと彷徨う呪霊が目に入った。
「……ねえ、七海」
「五条さん、これは…」
呪霊が一方向に向かって動いていることに気づいたのはほぼ同時だった。
"何かが起こっている"。
街中で急に走り出そうにも人は多いし、目立つ。できるだけ早足で"そこ"に向かえば、ビルとビルの間の小さな公園に呪霊が溢れかえっていた。決して強いものではない。2人ならば簡単に片付けられるくらいの呪霊たちが囲む"それ"が目に入る。
「……なっ」
「はは、これは一体どういう…」
囲まれている"それ"、いや"彼女"を二人は知っている。ベンチに体を預け、眠っているらしい彼女の顔色は真っ青通り越して真っ白で、心做しかこちらも血の気が引く気がした。
「…名前」
ぽつり、七海は自分の妹の名前を呟いた。そこに眠る彼女、いや七海名前を見つめてから、そして周りの呪霊をみやる。一体何が起こっているのか?それを考えたところで、結局答えは出ないだろう。
「七海、さっさと片付けよう」
「……そうですね」
五条の声に頷き、七海は前を見据えた。
(ねえ、__様、お願い……___)
(ええ。あなたがそれを望むなら)