明日にはもう泣かないから
いつだってその空間は深い深い闇から始まっていく。何処を見渡しても真っ黒なそこは僕の中にいつも大きな存在感のようなものを残していた。
「うわぁあん!わぁあん!」
子供の泣く声が暗闇の中に響いた。
それが合図か何かなのか、真っ黒だった世界の一部分が光に照らされるかのように明るくなった。
その子供こそが幼き日の僕であり、この空間こそがいまだに僕の中に深く重い鉛のようなものを落とす要因だった。
「う、っ…ヒック…」
「泣くのを止めろ!餓鬼め!」
バシッという音が暗闇に響いた。
とある人間が幼い僕を容赦なく叩いたのだ。
泣くのを止めろ、とは云われても先程までのものに今の痛みが足されて涙を止めることが更に難しくなった。
しかし、その人間はそんなことは関係がない、とでも云うかのようにこちらを指差して云うのだ。
「詮無く泣いて許されるのは負うてくれる親ある児のみ!親にも捨てられたような餓鬼に泣く資格などない!」
そう理不尽に押し付けられる暴力のような言葉。その言葉があまりにも痛くて痛くて仕方がなかった。
「なんで僕だけが…」
ふと施設の窓から見えた外の景色。
そこから少し遠いところに見える公園の方では、とある親子が仲良く手を繋いで歩いていくのが見えた。両手を両親に片方ずつ握られて、時折幸せそうに微笑んで、時折ムッとして拗ねてみたり…。そんな光景が偶然目に移りまた泣きそうになる。同じくらいの年なのに、僕にはあの子のように手を繋いで歩いてくれる人がいない。あの子と同じ女の子なのに何故か僕だけがこんな格好をしている…。
そんなことばかりが頭の中に巣食って、肩を落としてまた寒い廊下を歩き出す。
それが僕にとっての日常のようなものだった。
「うわあああん、ヒック…っうわあん」
どれだけ泣き叫ぼうが痛みに耐えようがそんな幸せを貰えないことを僕は当然のように知っていた。
人に、世界に見捨てられ
でも、それでも僕は……!
探偵社に入ってからそう心の中で思うようになった。何だかいつもよりも体が軽くなった気がした。
「何ッ」
先程の暗闇の世界はどこへやら、どこかぼんやりとした意識の中で僕はいつの間にか異能力を使っていた。先程、芥川の異能力によって喰い千切られてしまった足など全くといっていいほど気にならなかった。
「そうこなくては」
芥川のそんな言葉が聞こえてきた。
しかし、それに返すことは無い。いや、返せなかった。
何故だか自分の体のはずなのに自分で制御が出来ないのだ。ついこの前、勝手に異能力が出てきて暴れ回ったときと同じような感覚に陥る。
どうやら異能力が暴走してしまっているらしい。
「グオオオ」
異能力により完全に虎化してしまった体で勢いよく芥川に飛びかかった。
「『羅生門』」
芥川がそう云えば黒獣が現れこちらに向かってくる。そして、腹の辺りを喰い破られたわけだが、異能力のせいですぐに回復してしまった。
「再生能力!…しかもこれほどの高速で……!」
「芥川先輩!」
「退がっていろ樋口。お前では手に負えぬ」
そんな芥川の驚いた声が響いた。
それを見兼ねた女が一歩前へと出たが、それを目の前の虎を見据えたまま制止した。
ざっと地を蹴ると虎化した僕は一瞬で芥川の目の前へと出た。
「疾いッ」
僕の異能力と芥川の異能力がぶつかる。
ドオオンという激しい音とともに壁へと飛ばされたのは、芥川の方だ。
「おのれ!」
女がそう叫びながら銃を拾い、そしてこちらに銃口を向けると引き金を引いた。
しかし、虎化した僕の体に当たるとそれらは跳ね返される。
「銃弾が通らない……!?」
僕の異能力は完全に女を敵だと判断したのか飛びかかろうとする。ただ先程、芥川の異能力とぶつかったためか虎化が半分解けてしまった。
しかし、彼らは何故かこちらに気づかない。
「何をしている樋口!…『羅生門・顎』」
そして突如現れた僕を模した虎のようなものが女に飛びかかっている。先程の谷崎さんの異能力を思い出し、彼の能力だろうと思いながら虎の幻影と芥川達の様子を伺う。
「ち……生け捕りの筈が…」
ビシャア、という音を立てて虎の幻影が芥川の異能力によって真っ二つに切り裂かれてしまった。
真逆それが幻影だとは思っていない芥川は苦しげにそう呟いた。
真っ二つになった虎の幻影が少しずつ消えていく。
「『細雪』…!」
「!…今裂いた虎は虚像か!…では!」
谷崎さんのその声に驚いたように辺りを見回す芥川。僕はその後に回り込んでまた虎化すると攻撃を仕掛ける体制に入った。
が、その気配に気がついた芥川がこちらを振り向いた。
「『羅生門・叢』…!」
再び芥川と僕の異能力がぶつかり合おうとした。
しかし……、
「はぁーい!そこまで!」
突如響いた声に遮られる。
そして異能力が完全に消えて、虎になっていた体が元通りになっていく。
「…え」
「…なッ」
相変わらずぼんやりとした意識のまま自分と芥川との間に立っている人物を見た。僕らの異能を相殺したのは、太宰さんだ。
僕はそのまま地面へと倒れ込んだ。
異能力の扱いに慣れていないためだろうか、体力は底を尽き、体を動かすことすら億劫に感じられるほどの疲労が僕にのしかかる。
しかし、そんなことは知らないとばかりに声が上から降ってきた。
「ほらほら、起きなさい敦君。三人も負ぶって帰るのは厭だよ、私」
「…う、……痛いです」
ぺちぺちと頬を軽く叩かれる。
薄ら閉じていた目を開ければ、太宰さんは私の横に屈んでいて呑気に笑っているのが見えた。
先程までの殺伐とした空間は何処へ行ってしまったのか、彼が来たおかげで少しだけ緊張感が緩んだ。
太宰さんに云われ起き上がろうとしたが、力が入らなかった。むしろ自分を襲う眠気に負けてしまいそうで、また目を閉じた。
(おーい、敦君…)
(……)
(あれ、寝てしまったのかい!?)
(……)
ヨコハマギヤングスタアパラダヰス<終>