君の手だけは冷たいままで
真っ白だった。
ただ真っ白だった。
白を汚す黒ですら、また限りなく白に近くなる灰色ですら少しも無かった。
勿論、ほかの色などほんの僅かも存在していない。
そんな世界で僕はただ座っていた。
あまりに色がないものだから、地面に座っているのか、浮いているのかすらよく分からない。
暫くそこでぼーっと意識を彷徨わせた後、はっと意識が覚醒するかのように何かが弾けた。
そして、あれ?と首を傾げる。
「ここは…、どこだろう」
目をぱちぱちと瞬かせながら辺りを見回した。
こんなにも
そしてすぐにあぁ夢か、と悟る。
むしろ何故それを最初に思いつかなかったのかが不思議だと苦笑した。
却説、一体どのくらいここでぼんやりとしていればこの夢は覚めるのだろう。
結構長い間ここにいる気がして、
そしてそこで初めて体を動かそうとしたのだが、まるで銅像にでもなってしまったかのように指先ですらピクリとも動かせなかった。
ああ、何とも厄介な夢だな、とため息をつきつつまたぼんやりと目の前に広がる純白を忌々しげに見やる。
「はぁ、本当にここは何処だろう」
「何処なんだろうね」
「暇だなぁ」
「そうだねぇ」
「夢なら早く覚めてほしいなぁ」
「それは何だか寂しいな」
「……ん??」
「…どうしたの?」
呟いた言葉がこの空間に響いていく。
ため息混じりに吐き出されたそれらに何故か返答が返ってきた。
しかし、特に何も疑問に思うことなく僕は言葉を続けていたのだが、何かがおかしいことに気付く。
「………」
「………」
え?え?今、僕は一体誰と会話をしていた?冷や汗が背中を伝う。
声が聞こえてきたのは自分の後ろからだ。
ただ体が動かせないので振り返ることができない。
どうすることも出来ず固まっていれば、後ろのその人が口を開いた。
「初めまして、尊ちゃん」
「へ…?」
今この人は尊と云った?なぜその名を知っている?と焦る。しかしすぐに、これは自分の夢なのだからその名を知ってて当然かと納得した。
「えっと、あなたは……?」
「あ、もう時間だね。また今度話そう」
「え、あの…!」
「じゃあ、またね」
僕の問いには全く答えることなく、時間切れだというその人。真っ白な世界が少しずつ黒に塗りつぶされ始めた。どうやら本当に時間切れらしい。
思わず立ち上がろうとすれば、それまで動かなかった体を動かすことが出来たので、バッと勢いよく後ろを振り返った。
「…!あなたは…」
「……」
振り返った先にいる人物を見て、目を見開いた。
何も云わず微笑んだその人が目に入った途端、全部が真っ黒になった。
あの人は…彼は、『中島敦』だった。
自分よりも背が高く、そして少し声が低い。自分とそっくりだけど、どこか違う彼は原作の『本物の中島敦』だった。
何か言葉を紡ごうとしたが、暗闇に飲み込まれたためか遮られてしまった。それに抗うことが出来ずゆっくりと目を閉じた。
そして次に目を開けたときに視界に映ったのは何処かの天井だった。
僕はどうやら寝台に寝かされているらしい。まだぼーっとする頭をどうにか回そうとする。
「ここは……」
「気づいたか。全くこの忙しい時に……」
全く見覚えのないその場所に思わずそう呟けばそんな声が返ってきて、はっとそちらを見れば寝台の脇に置かれた椅子に国木田さんが座っていた。
眼鏡を頭にかけた状態で、あの大きく理想と書かれた手帳を読んでいた彼は、僕の方へと視線を移した。
「僕は、マフィアに襲われて、それから……、そうだ!谷崎さんにナオミさんは!?」
二人は確か酷い傷を負っていた筈だ!と、慌てて体を起こした。僕の問いを聞いて国木田さんは静かに目を閉じた。
「無事だ。隣で与謝野先生が治療中…」
「ギャアアアアア」
治療中だ、と国木田さんが云いかけたとき物凄い悲鳴が轟いた。声からして谷崎さんだ。
その絶叫に血の気が引いた。
「え?…治療中?」
むしろ今にも殺されてしまいそうな悲鳴だったが…。本当に大丈夫なのだろうか、と不安ではあるが国木田さんがさんの様子からして心配はいらないのだろう。
「聞いたぞ小僧、七十億の懸賞首だと?出世したな、マフィアが血眼になるわけだ」
七十億…、懸賞首…?
その言葉を聞いて芥川の云っていたことを思い出した。
「そうです!ど、どどどうしよう!マフィアが探偵社に押寄せてくるかも…!」
七十億なんて大金を僕なんかにかける意味がわからないが、今はそんなことよりも探偵社にマフィアが襲撃してくる可能性がある、ということが問題なのだ。それにマフィア以外からの襲撃だって考えられる。
しかし、焦る僕とは打って代わり国木田さんは全く慌てる様子はない。
「狼狽えるな。確かにマフィアの暴力は苛烈を極める。だが、動揺するな。」
「…いや、あの国木田さん」
「動揺は達人をも殺す、師匠の教えだ」
「……あの、手帳が逆さまですよ」
冷静に話し出した国木田さん。
一見何ともなさそうには見えるが、ふと目に映った彼の手帳の『理想』という文字が反対になっていることに気づいた。
そのことを指摘すれば、国木田さんは一瞬固まった。
しかし、次の瞬間には逆さの手帳の向きを正し、まるで最初からそうであったかのように振る舞う。
「……えっと」
「俺は動揺していない!」
ガタッと席を立ち、凄い勢いでそう弁解する国木田さん。その様は明らかに動揺している。
「……」
「マフィア如きで取乱すか!
誰が取り乱すか、とは云っているけど…、矢張り相当不味い状況なのだろう。
あれをこうして、こう動いてぐっとやって倒す。などと身振り手振りで動きを表現しながら説明しているが、どうもふわふわとしている。
僕なんかの所為で探偵社に危機が迫ってしまっている。このままでは皆さんが……。
「ふん、奴らは直ぐに来るぞ。お前が招き入れた事態だ。自分で出来る事を考えておけ」
「……はい」
僕に出来る事、かあ。一体僕には何が出来るのだろうと考えてはみるが、何も浮かんでは来なかった。
スっと立ち上がった国木田さんはそのまま部屋から出ていこうとする。
しかし、扉に手を掛けて立ち止まりそして振り返った。
「ところで小僧。先刻から探しているんだが眼鏡を知らんか?」
「……」
これは云うべきだろうか…。
最初から国木田さんの頭の上にあるだなんて、云うべきだろうか。
そう一瞬悩んだ後、僕は無言で頭を指した。
「……」
「……」
国木田さんの手が頭の上の眼鏡に触れる。そしてそれをいつものように掛けた。
無表情の国木田さんと目が合うが何も言い出せなった。お互いに無言のまま2、3秒ほど見つめ合った後、目を逸らして何事も無かったかのように振る舞う。
僕がくるりと国木田さんがいる方とは違う方を向けば、その間に国木田さんは外へと出ていってしまった。ガチャン、という扉の閉まる音が聞こえる。
その音とともにはぁ、とため息をついた。
「僕にできること…」
果たしてそんなものが僕なんかにあるのだろうか…。
両手で顔を覆い、国木田さんの言葉を繰り返すように何回か呟いてはみるが、矢張り先ほどと同じように何も出てきはしない。
顔を覆っていた手のひらを離し見つめる。
『だって、何にもないでしょ』
あの子に云われた言葉が唐突に頭の中を疾風の如く通り過ぎていった。
あの子が誰だったかはどうしても思い出せないけれど、その言葉たちはゆっくりと『私』に鉛のように重いものを投下していく。
『でもね。その空白のところが俺は一番好きだけど』
また、だ。また落ちていく。あの狂気は絶対に思い出してはいけない、と頭の中で誰かが云っている。でも、それを遮るように響く声たち。
終いには、その声音を聞きたくないと両手で耳を塞いで息を吐くように言葉を紡いだ。
「そうだね。やっぱり僕には何にもないや」
その呟きが思ったよりも部屋に響いた気がして悲しくなった。
(手、冷たいね)
(冷え性だからね)
(知ってる?手が冷たい人は心が暖かいんだって)