見慣れた新世界

目を開ける。

何時になく広い視界に思わず瞬きをした。いつもと見えるものが違う気がする。なんか眩しい。なんで?おかしいな、と部屋の天井を見つめて考える。

ノルウェー人画家のエドヴァルド・ムンク*が描いた、かの有名な絵である「叫び」にどことなく似た見慣れたシミをぼんやりと見つめる。

___ああ、そうだった。

"そのこと"をふと思い出して、ようやく起き上がる。ちらり、部屋のローテーブルに置かれた開きっぱなしの雑誌を見て、それから髪に手をやって、思わずため息をついた。

「学校行きたくない.....」

◇◆◇


いつもよりも3分だけ遅く家を出る。あと5分遅く家を出てしまうと多分遅刻するから、遅刻しないギリギリを考えるといつもよりも3分しか遅らせられなかった。

学校に着く。いつもように昇降口に向かう。いつもの下駄箱に靴を突っ込んでいると、隣にいたクラスメイトの女の子がこっちを2度見してきた。それをチラリと横目に見て密かにため息をつく。

「.....」

本当に教室に行くのが億劫だ。

ノロノロと歩いていればホームルームまであと5分を示す予鈴が鳴る。ゆっくりと階段を登って廊下を行く。いつもよりも人がこちらを見ている気がする。広くなった視界ではその目線が気になって仕方ない。

あー、やっぱり前の方が良かったのかもしれない。先日、ちょっとだけ乗り気になってしまった自分に後悔した。


自分のクラスに入るなり、一斉にこちらに視線が突き刺さった。

ああ、最悪。なんかざわざわしてるし。

いつもなら気にしないのに、今日はいつもと違って遮るものがないから何処に視線を泳がせばいいのか分からない。

あまりの居心地の悪さに、今すぐどこかへ逃げ出したい気持ちを抑えて自分の席に座る。すると隣の席の子が「え、福丸くん?」と小さく声を上げた。そちらをちらりと見る。なぜかぽかんとした表情のまま固まっているクラスメイトの姿がそこにはあった。

やっぱり変だったのかな。

ちょっと髪型を変えただけだし、前髪も整えただけ。それだけなのにどうしてそんな顔をされるのだろう。


やっぱり人は怖い。

何を考えてるか俺には全く分からない。小さい時に俺をからかってきた"あいつら"の気持ちも、ざわざわと何か言っているクラスメイトたちの考えてることも分からない。

「.....」

鞄から筆記用具と教科書を取り出す。取り出す時にまたあの雑誌が見えて思わずため息をついた。

_どうですか?岳さん!案外挑戦してみるのもアリなのでは?

そう言っていた名前のことを思い出した。あの時の彼女に心の中で返答する。

__やっぱり変わるのって無理だ。


「岳!おはよ!」
「仁礼、.....おはよ」

前の席の仁礼光がこちらを向いた。本鈴が鳴る1分前。彼女がギリギリに登校して来るのはまあ日常茶飯事の光景だ。

俺がどんなに素っ気なくしていても気にしない仁礼は、今日もいつもと変わらず元気に声を掛けてきたのでそれに小さく返した。

「.....」
「.....なに?」

いつもは前を向くはずの仁礼はまだこちらを見ている。不思議に思って首を傾げた。

「おまえ、それ似合ってるじゃん」
「.....ありがと」

裏表のないその笑顔で仁礼がそう言った。「へー、切ったんだなー」と言う彼女の言葉に頷いた。

思ったことをそのまま直球に出してくれてるって知っているから、仁礼の言葉に少しだけ今日の憂鬱が軽くなった気がした。


◇◆◇


__人が何を考えているのか分からない。

そんなのは当たり前だ。当たり前だけれど、分からないってとても怖い。

あいつらはにこにこと笑いながらどうして人を傷つけるその言葉が簡単に言えるのだろう。

あの時は楽しそうにしていたくせに彼は何で「実はつまらなかったんだよな」なんて言えるのだろう。


人が苦手だ。

双子の姉である瀧の考えてることは何となく昔から分かるから、それもあって余計に何を考えているのか分からない他人が苦手だった。

ゲームや漫画は登場人物の心情が事細かに書いてあるものもあって、別に人の心を読みたいとは思わないけれど、その思いとか考えが分かるとその登場人物たちの言動がとても輝いて、そして鮮明に見えるのにな。

「.....」

でも同じようにこの世界を生きる人は当たり前に何を考えているか分からないから怖い。その言動も視線も何もかも。彼らのその視線が怖くて前髪を伸ばして1つの薄い壁を作った。向こうから軽率に覗き込めないし、こちらの視線は逃がせる。人との関わりが怖い俺の防御策。


ボーダーに入って少しはコミュ障とかそういうのが治せるのかな?と思っていたが、やはり怖いものは怖い。隊を組むよりは1人の方が楽だ。防衛任務では連携を取らないといけない場面もあるけれど、経験を積めばどうにかなるようになった。

ボーダーにはいわゆる陽キャ属性のやつもそれなりに多くて、勝手に話を進めてくれるから楽だった。俺がどれだけ喋れなくたって彼らは気にはしていないらしいし、気にするようなやつはまず関わりを持ってこない。それくらい割り切ってくれていた方が分かりやすいからいいと思う。


表情に感情が出やすい人の方が関わりやすくて良い。好きでも嫌いでも面倒でもどんな感情でも、それらが目に見えた方がビクビクと内心で怯えることが少なくて済むからだ。ボーダーにはそれが分かりにくい人もいるけれど、分かりやすい人も沢山いる。今まで生きてきた場所の中でボーダーが家の次に安心できる場所になっていた。


ある日、姉の瀧が隊を組みたいと言い出した。

正直嫌だった。見知らぬ他人とどうして組まないと行けないのだろう。B級フリーで十分だというのに。あれこれ言ったが、いつもの如く姉に敵うはずがなくて仕方なく頷く。

__まあどうせ俺を見たら、やっぱり組みたくないですって向こうが言うと思うし別にいいか。


そんなことをあの時は考えていたのに、今では隊を組んでいる。しかも自分が隊長だ。それに関して出水にめちゃくちゃからかわれた。米屋も爆笑していた。「どうせ瀧に押し付けられたんだろ?」と2人は言っていた。俺はそれに頷いてそしてため息をついた。「俺なんかが隊長なんてつとまるのか?」そんなことを考え始めたら止まらないけれど、なってしまったたものは仕方ないと受け入れることにした。


隊を組むことになった一つ下の苗字名前と八色夢依。名前は、ボーダーの色んなところで噂が流れていたし、夢依のこともB級フリーの狙撃手が防衛任務の時に話題に挙げていたから知っていた。

2人は不思議な子たちだった。

いつもならいつまで経っても人と上手く関われないはずの自分が、隊を結成することが決まって割と直ぐに打ち解けられたのだ。そのことには俺だけじゃなくて瀧もびっくりしていた。

4人で一緒に過ごしているうちには、いつだって他人にビクビクしていたはずの自分が、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。

__4人で隊を組んで良かった。

乗り気じゃなかったくせに、今ではそんなことさえ思う。

__俺はわりと単純な人間だから。


「あれ、岳さん1人?」
「うん」
「私、28分寝るから」
「28分?分かった」

なんだその微妙な数字?と作戦室に入ってくるなりそう言った夢依を見る。当たり前のように隅に置かれた布団に入ると彼女は直ぐに眠ってしまった。ゲームをしながらその様子をちらりと見て、そして時計を見て首を傾げる。ちょうど28分後、急にむくりと起き上がると「じゃ、訓練行ってきまーす」と言って作戦室を出ていく。後から名前に聞いた。「あれは夢依の特技だよ」と。いわく「3分15秒寝てって言ったら、本当に3分15秒後に起きれる」とか何とか。「面白いよねー」と笑う名前も中々に面白い人間だ。

名前と2人で飲み物を買いに歩いていると前方から太刀川さんが物凄い勢いでこちらにやって来た。段々と日常になりかけているその「鬼ごっこ」が目の前で始まってしまったのだ。俺を盾にしたかと思ったら、急に飛び退いてバク転したり、太刀川さんの肩に手を置いて飛び越えてみたり、逆に股の間をサッと抜けたり。何かパフォーマンスを見せられているのでは?と思えるほど華麗な身のこなしに唖然とした。だって太刀川さんはどう見てもトリオン体だし、名前はどう見ても生身だったから。せめてもの救いは名前がその日は制服じゃなかったことだ。スカートでやってたらさすがにまずいから。「太刀川さん相手に生身でパルクールしている子がいる」という新しい噂を聞きながら、ぼんやりと眺めていれば風間さんがやってきて説教していた。

「ごめんなさい。もうしません。太刀川さんが追ってこない限り。...って、怖いです!そんな目で見ないでください。たけのこあげますから!」

正座であの風間さん相手にそんなことを言っている彼女。周りから「たけのこちゃん」と言われてるのも頷けるくらい彼女の言葉にはそのワードが頻出する。


そんな個性的な2人が新たに加わった日常は楽しい。防衛任務前にお互いの動きを確認してみたり、ゲームをしたり、勉強をしたり、映画を見たり。

他人と関わるのが苦手だったけれど、前よりも少しだけその苦手意識が減っていた。たまに絡んでくる人たちが「なんか変わった?」と聞いてくることがある。多分少しは変わったと思う。ほんの少しだけ日常が変わっただけなのに、見えているものが随分と違っていた。



「髪切ろうかな」

作戦室で名前と2人でゲームをしながらぽつりと呟く。地図をちゃんと見ていないのか、いつの間にか迷子になって変なところに突っ込んでしまったキャラを操作しながら名前がこちらを向いた。

「どんな髪型にするの?」
「髪型?...いつも通り少し短く切るだけだよ」

1つ歳は違うけれど、名前や夢依と関わるのはタメの方が楽だった。たまに2人は敬語になることもあるけれど、それも少なくなっていて良い仲間として、友人として接することができていると思う。

「前髪は?」
「.....切りたい、とは思ってる。.....けど」

正直覆いかぶさった前髪が邪魔だ。ゲームをする時は特に。でもこの防御がないと不安で仕方ない。だから切りたいけど、切りたくない。

「へー。ちょっと失礼しまーす」
「.....」

コントローラーを置いたかと思えば、名前がこちらに手を伸ばしてくる。俺の前髪をその手でそっとあげて、それから戻した。

「なるほどー」
「え、何?」

何が「なるほどー」なのだろう。ソファーから立ち上がった彼女を気にかけつつ、彼女の置いたコントローラーを手に取って元の順路の方へと戻してやる。

ここ、後から行き方知って来るところなのに何で行けたんだ?

それを疑問に思いながら操作をしていればまた彼女が戻ってくる。手には1冊の雑誌があった。

「なんだそれ?」
「ふふん。良いものです」

にこにこしながら名前はとあるページを捲ると、一緒に持ってきた筆記用具の中から付箋を取り出して付け始めた。

「マッシュ?」
「絶対岳さん似合うと思うんですよ!」

奈良坂とかを彷彿とさせる今流行りのその髪型を見て首を傾げる。彼女がマッシュ好きなのは知っているけれど、「俺に似合う」とはどういうことだ?

「親戚にに美容師の人がいるんで紹介しますよ!どうですか?」
「いや、えっと...」

そのページをこちらに向ける彼女の目はきらきらと輝いている。彼女は"とても不思議"だけれど、嘘がつけないのはこの付き合いの中で分かった。まあ"つけない"というよりは、"つくのが下手"だが。

「どうですか?岳さん!案外挑戦してみるのもアリなのでは?」
「挑戦...」

あまり得意ではないその言葉。なのに名前が言うと案外アリかもな、と思うのは名前や夢依に会ってから日常が劇的に好転したせいかもしれない。

たけのこの某お菓子を頬張る時と同じ瞳でこちらを見つめてくる。こういう素直な感情をぶつけられるのに俺は弱い。

「1回だけな」
「本当ですか!やったー!!」
「うわっ、飛び跳ねるな」
「あ、ごめんなさい」

素直にそう喜んでソファーで飛び跳ねた彼女のその行動に驚く。素直なのも無邪気なのも全然良いのだけれど、お転婆過ぎるのが名前だ。注意をするとシュンとなってしまった。くすりと笑いながら彼女にコントローラーを渡す。受け取った彼女はこちらをちらりと見て、そして笑った。

「大丈夫。岳さんにとっても似合うよ」


◇◆◇


「うわ、がっくんマジじゃん」
「出水」
「くっそ、ついにそのイケメン晒しやがったな」

昼休みになった。

突き刺さる好奇の視線に耐えながら居心地の悪い時間を過ごしていると、教室にやって来た出水がそう声を掛けて来た。その表情はなんか悔しそうだ。

「弁当一緒に食おう」
「米屋は?」
「今日は防衛任務」
「...ふうん」

そういえば三輪も居なかったかもしれない。彼は俺よりも後ろの席だからあまり気にしていなかった。仁礼の席に当たり前のように座った出水はいつものように喋り始めた。

同じポジション、同い年ということもあって彼は昔からこんな俺にわざわざ絡んでくる。絶対俺って面倒臭いタイプなのに変なやつ。そんなことを思いながら関わっていくうちに最初は全然だった会話が今ではそれなりに続くようになった。時々冗談だって言い合うこともある。

「どういう心境の変化なわけ?」
「さあ」

もぐもぐと卵焼きを咀嚼して嚥下するとその問いに適当に返した。出水を見ると、いちごミルクを飲みながらこちらを見ている。

「.....」
「なに?」
「いや、瀧とやっぱ似てるなって思った」
「二卵生ではあるけど双子だしな」

そう返して自分も水筒のお茶を飲んだ。それからぽつりぽつりと会話をしているとクラスメイトから呼ばれた。あまり俺に話しかけてくるやつっていないから急なことに驚く。出水がゲラゲラと笑っている。それを横目にクラスメイトの方を見るとその後ろに見慣れた2人がいた。

「ほら、ほら!やっぱり似合ってるじゃん!」
「ガチじゃん。え、岳さん?」

2年の教室に物怖じすることなく普通に入ってきた2人はテンション高めにそんな会話をしている。


「え、あの可愛い子誰よ?」
「なんで福丸と1年が?」

クラスメイトのそんな囁きが聞こえてきて、思わず顔を顰める。しかしそれを打ち消すテンションで2人はこちらに詰め寄ってくる。


「やばい。マッシュ尊い。ありがとう岳さん。ありがとう!」
「岳さんイケメンなの知ってたけど、やっぱりね。うんうん」
「.....」

こちらを拝み倒す勢いでそう言ってニコニコしている名前と、腕組みをしてひとりで勝手に頷いている夢依。それを見てゲラゲラ笑っている出水の姿も見える。

なんだこれ?

「岳さん、アリでしたね!やっぱり!」
「そうだな。あ、これ返す。ありがとう」

嬉しそうな名前を見て、たまには違うこともやってみるもんだな、と考えながら鞄からその雑誌を出して名前に渡した。彼女はそれを受け取ると、「参考になって良かったです!」と頷いた。

「これはいつぞやのマッシュ特集のやつ」
「髪切る参考になるかなって岳さんに貸してたの」
「ほえー」

2人でその雑誌をパラパラ捲ってそんな会話を始めた。そろそろクラスメイトたちの好奇の視線が痛すぎるのだが、2人は全く気にしていない。気の済むまでそれを眺めている。

「がっくんの隊、楽しそうだなー」
「そうかもな」

太刀川さん経由で名前のことは知っている出水だが、俺たち3人で一緒にいる所は見たことがなかったらしい。物珍しそうに俺たちを見ると、ニヤニヤしている。

名前たちが雑誌から目線を上げると、出水は2人に声を掛けていた。

「よっ、八色と苗字」
「あれ?出水先輩一体いつから」
「八色、それは酷くね?」

出水と夢依は面識があるらしい。出水の存在に本当に今気付いたらしい夢依は目をぱちぱちさせる。それを見て「まじかよ」と出水が呟いた。

「え、どちら様ですか?」
「えっ!?」
「えっ...?」

名前はと言うとまず出水のことが分からないらしい。まあ彼女は壊滅的に人を覚えられないからな。しかし、それを知らない出水は素で声を上げた。それを見て名前が首を傾げる。

「おいおい嘘だろ。おれだぞ?」
「おれおれ詐欺の方?」
「違う違う」
「ふっ」

本気で分かっていない名前の素っ頓狂な答えに出水は首を振り、夢依は名前の横で笑っている。

「ほら、この前太刀川さんを回収に来ただろ?」
「太刀川さんを回収?」
「出水先輩、太刀川隊の人だからね」
「そうなんだ...?」

助けを求めるように夢依を見た名前に、彼女はそう補足する。それでもよく分かっていない名前は「ま、いっか」と呟くと手にあるそれをこちらに渡してきた。

「どうぞ岳さんと、えっと.......先輩。お裾分けです」
「出水な。おれ、出水公平」
「イズミ先輩、どうぞ」

相変わらずたけのこの某お菓子を差し出して彼女は笑う。それから2人は教室の時計を見て、「お弁当食べる時間なくなるんで失礼します」そう言って教室を出ていった。


「名前は壊滅的に人のこと覚えられないよ」
「まじか。おれ、苗字と結構会ってるのにな。あと太刀川さんが名前を出すせいで謎の親近感がある」
「へー」

お部当を食べ終えて、2人でそのお菓子を摘みながらそんな会話をする。今日だけで元から喋れる方ではあった出水と更に仲良くなれた気がして、不思議な気持ちになった。


(岳さん岳さん)
(なに?)
(あの前髪を両目にぶち込んでらっしゃる先輩って誰でしたっけ?)
(え、誰それ?)

*エドヴァルド・ムンク(諾):"ムンクの「叫び」"で有名な画家。

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