はじまり_A

「はぁ、」
 今更だけどなんで後を追いかけて話しかけなかったんだろう。理由も分からず零れていた涙をやっと抑えて、ここが何処かもわからないままふらふらと広い学内を彷徨う。握り過ぎてぐしゃぐしゃになってしまったマップを確認しようと広げると、突然ぶわりと強く風が吹いてマップが飛んでいってしまった。風に吹かれるそれを拾おうと追いかけるも、棟の壁にぶつかった後ぱさりと細い水路に落ちてしまった。水路を覗くと水に乗って薄い紙が流されていって、もう手元に戻すことはできないと悟る。飛んでいくなら飛んでいくで、せめてここが何処なのか確認し終わってから飛んでいって欲しかった。スマホで地図を出せば分かるだろうけど、なんだかそれをする気にもなれずとぼとぼ歩く。多分こっちであってるはず。
 さっきはまさか魈さんと会えるなんて思ってもいなくて混乱してマイナスなことばかり考えて動けなかったけど、冷静に考えれば魈さんの記憶があるにしろないにしろ、強引にでも知り合っておくべきだった。だってこんなに広い学内で、学科が同じでも卒業まで一回も話さない人もいるはず。すごく勿体無いことをした。彼女がいるならいるでもしかしたら別れた後でもいける……かもしれなかったし。……それでもできれば彼女はいないで欲しいけど。彼女いるのかな、いいなあ。あんなに優しい人中々いないし、自分がそうだったからすごく彼女を大事にする人なのも分かる。そんなの絶対別れないじゃん。
 マイナスな感情に支配されて動けなかったことを後悔しているのに、また心が重くなっている自分にさっきから何度目か分からないため息を溢す。そういえば、前世で魈さんと一緒に暮らす前もこんな感じでよくネガティブになってたなあ。魈さんと一緒になってからは、時間が流れるのが早過ぎて悩んでいるだけで何年も経ってしまうことに気付いてから少しはマシになったけど。……今思えば、魈さんと一緒に暮らせたの、ほんとに少しの間だった。
 もっと最初からぐいぐい行けばもう少しは長くいられたかも。だってまさか仙人と結婚することになるなんて、あの時は思ってもいなかったから。最期の方なんて、目も見えないし耳も聞こえないしで魈さんが近くにいるかどうかすらよく分からないままだったから、今度また一緒になれるんだったらぐいぐい行かなきゃ。
 口から出そうになったため息を飲み込んで、がんばれ私! と一人決意を固める。気持ちが落ち着いたところでそろそろ一周し終わるだろうと思っていたのに全く知らない場所に出ていることに気付いた。あれ、ここどこ、こんな所マップに載ってたっけ? 辺りを見回しながら、少し入り組んだ所に人がいるのが見えて道を案内してもらおうと声を掛ける。
「あの〜」
「ん? あれ、こんなとこ来るなんてどうしたの? 新入生かな〜?」
「ぁ、えと……」
「当たり? ならもう入るサークルとか決めた?」
 一人かと思っていたが建物の影になって見えなかったところからもう一人男の人が出てきて、二人の大柄な男性に囲まれる。やば、話しかけちゃいけないタイプの人だった。ええと、と言い淀んでいると片方が隣にきて馴れ馴れしく肩を抱かれる。
 無遠慮に触られたことにびくりと反応してしまった身体に男の人が下品に笑って背中を冷や汗が伝う。ど、どうしよう逃げたい。体に力を入れて距離を取ろうとするもぐっと肩に置いた手に力を入れられて隣の男の人にすり寄らされてしまう。
「あ、すいません、大丈夫なので……」
「でも女の子が一人でいちゃ心配だよ? 家まで送っていってあげよっか? 道に迷ったんだよね」
「ち、ちがっ」
 道に迷ったのは本当だが冗談でもこんな人たちに家を知られたくない。送ってもらったら最後、上がり込まれて乱暴されるに決まっている。それぐらい分かる。大丈夫なんで、離してください、と震える声で言っても「え〜?」と笑いながら言われて聞き入れてもらえない。
 それどころか服の上から腰をなぞられてひっと声が出る。本格的に怖くなってどうしようどうしようと回らない頭でどうにかこの状況を抜け出そうと考えていると、背後から地を這うような低い声と現代ではありえないような強い殺気が肌を刺した。

「こんな所で何をしている」
 相手を威圧する強い声に怖気付いた二人がぱっと私から手を離す。
 遠い記憶の中と全く同じ声に驚いて後ろを振り返ると、昔と変わらない煌々と光る金色の目がこちらを真っ直ぐ捉えていた。
「ぁ、!」
 その人と目があった瞬間、今まで抑えてきていたものがぼろぼろと零れて頭が真っ白になる。え、魈さん、なんで。さっき出ていったはずじゃ? というか、魈さんだ。魈さんがいる、なんにも変わってない。ちょっと背が低いけど、そうやって気迫がすごいからあんまり背が低いって感じないところも、相手を威圧するときは腕組みせずに立ってるところも、男の人二人が何か喋ってるけど目を閉じて全く煽られてないところも、ぜんぶ魈さんだ。
 二人は散々煽り終わったのか場が一瞬静かになった瞬間、魈さんがゆっくり息を吐いて「言いたいことはそれだけか」と昔と変わらない金色の瞳をスッと細める。そのままこちらへ近づこうと魈さんが足を一歩出すと私の隣にいた二人が体勢を崩しながら逃げていった。私はというと、ぼろぼろ涙がおさまらないまま魈さんを見つめて立ちすくんでしまっている。
「しょ、うさ……!」
「……泣くな」
 魈さんは二人が去っていったのを見送ると、バツが悪そうにこちらに近づいて私の目元を撫でる。「お前が泣いては助けた意味がないだろう」と眉を下げる魈さんが、私をあの時のまま扱ってくれるから覚えててくれたんだってぐちゃぐちゃの頭でも分かって余計涙が止まらなくなっている。魈さん、魈さん! と嬉しくて名前を連呼してしまう私の手からハンカチを奪って、目元を優しく拭ってくれる魈さん。ほんとに魈さんだ……!
 逢いたかったです、と魈さんにされるがままで言えば「あぁ」と優しく返ってきてここが学内だということも忘れて思わず魈さんに勢いよく抱きついてしまう。魈さんは少し驚いて身体を強ばらせて、はしたない事をしてしまったと離れようとするとぎゅうと魈さんからも抱きしめられて胸が熱くなる。
「…………永く一人にさせて悪かった」
「だ、いじょうぶ、です……! 逢えたので、」
「そうか」
 悪かった、と魈さんが独り言みたいにぽつりと呟くから、魈さんもおんなじ気持ちだったのかもしれないと思えばぎゅっと心臓が縮こまる。そっと身体を離されて、やっと止まった涙を労るように目元を拭われて遅れて顔が赤くなる。外でこんなことして恥ずかしいと今更羞恥心が湧いてきて、でも魈さんに触れられるのがすごく嬉しくて断れずに赤い顔のままどうしようと固まっていると魈さんが昔と変わらない金色の瞳をやんわりと細めて、その久しぶりに見た優しい顔つきに目頭が熱くなった。
「お前、この後の予定はあるか」
「い、いや! ないです、魈さんと一緒に居たいです……!」
「なら……お前も来い。我一人では今のあいつは手に負えん」
 流れるような動きで当たり前のように私の手をとって歩き出す魈さん。どれだけの時間が経ったかは私には分からないが、繋いだ手の感触もぴったりお互いの手のひらが密着する感覚も全部が昔のままで、これが現実か信じられないほど心が揺れる。魈さんの広い背中を見ながらこっそり自分の頬をつねってみるとしっかり痛い。自分がこの世に生まれた意味を見つけたみたいでただ魈さんと一緒にいるだけなのに嬉しくなる。道が分からないから魈さんの半歩後ろをついていくように歩いていると、繋いでいない方の手で春っぽい薄めのパーカーのポケットからスマホを取り出してため息を吐く魈さん。似合うなあ。多分、抑え目にしているんだろうなという色味も魈さんらしくてつい頬が緩む。
 ピタリと足を止めて面倒くさそうに暗い画面のスマホを触る魈さんの手元をこっそりと盗み見れば、ついさっき見たばかりの高そうなハープのアイコンが魈さんの返事を待たずに吹き出しをどんどん送ってきている。
「あれ、魈さんウェンティと知り合いなんですか?」
「……お前の方がよく知っているだろう」
「え、今日初めて会いました」
「お前、……覚えていないのか」
 意外そうな顔をして魈さんがこちらを振り向く。覚えていないのか、って……。私は魈さんのことしか覚えていなくて……と魈さんの顔色を伺いながら言うと、少しだけ視線を彷徨わせた後に「そうか」と返ってきた。この魈さんの反応をみるに、私前世ではウェンティと友達だったのかも。それなら初対面であれだけ会話が盛り上がったのも納得がいく。ウェンティは私のこと覚えてたのかな、なんだか悪いことしちゃったかも。あ、でもまた友達になろうとしてくれたのは嬉しい。笛の音色も聴かせてくれるみたいだし。ぼんやりそんな事を考えていると、きゅっと握られた手に力が入ってまた魈さんが歩き出す。
 今度は迷わないようにときょろきょろしながら魈さんに引っ張られるまま歩いていると、「迷うなら一人で歩くな」とさっき男の人に絡まれていたことの注意を受けて、なぜか私が迷っていたことがバレていて思わず黙ってしまった。

backnext