危険な誘惑
「え、そんな…………」
絶望により、私はその場でしゃがみこんだ。
「大変申し訳御座いません…!」
電話の先では声を震わせ、懸命に謝罪する若い女の子。
「…分かりました…。」
何度目かもわからない謝罪の言葉を最後まで聞かずにぷつりと電話を切り、深いため息。
今日はクリスマス。
昨日は(休んだ者たちの代理で)仕事が立て込み、残業してしまったが、今日は早く上がれたため、2か月も前から予約しておいたイタリアの伝統的なクリスマスケーキ、
「パネットーネ」と「パンドーロ」を受け取りに行き、そして美味しいワインでも買って自宅マンションの屋上でおひとり様クリスマスを楽しもうとしていたのだ。
しかし計画は崩れた。
ケーキの予約が出来ていなかったのだ。
いや、正確には予約は入っていた。しかし取り置きの分を作っていなかったのだ。
材料がもうない為、今から作ることが出来ないと言う事らしい。
こうなってしまってはもう、高いワインを買っても、
素敵な夜景を見ても仕方ない。
とりあえず帰ろう、そう思い立ちあがったところ、ぽつりと頬に触れる雫。
それから瞬く間に振り出す雨。
「も〜、雨降るなんて言ってなかったのに!」
急いで近くの建物の屋根下に入る。
ケーキは無いし、雨は降るし、最悪なクリスマスだな。
きっと今日の星座占いでは最下位だったのだろう。
朝の電車で30秒遅れたことで乗り換えができなかったことや、
会社の廊下で躓いたことなど、全ての事に哀しくなってくる。
悶々と考え込んでいた時、ふと人の気配がした。
「ボンジョルノ」
男性はニコリとほほ笑むと空を仰いだ。
「いや…参ったね。
こんなに降るとは思わなかったから傘、持ってきてないんだ。」
君も?と再び此方を向いた。
いつの間に居たのだろうか?気配すら感じなかった。
「深刻そうに考えていたので声をかけそびれてしまってね、
驚かせて悪い」
「えっ」
心を見透かされたようでドキリとする。
なおも彼はにこにこと楽しそうに笑っている。
「君、この辺で働いているのかい?」
自分でもわかるくらい顔をしかめた私に悪びれなく謝った。
「君をよく見かけるんだ。オレもこの辺りは仕事で良く来る」
「あ、あぁ…そうでしたか…」
「ところで、君はとても落ち込んでいたように見えたが…?」
探るような眼でこちらを見た彼に素直に答える。
「予約していたケーキが作られてなかったんです。
それに雨は降るし、最悪のクリスマスです」
それは本当に残念だ、と大げさに言う。
「俺も今日はツイていない。
雨は降る、部下がやらかす、おまけにいつものピザ屋は休みだった」
「それは、お気の毒さま」
私も好きなお店がお休みだった時は本当に落ち込むよ、と同情する。
これではまるで運の悪さの競い合いと慰め合いだ。
「しかし、俺はラッキーだ」
落ち込んでいる素振りから急に表情を変え此方を見る。
「君に会えたからさ」
「………」
これが噂に聞いていたイタリア人の息を吐くように出る甘い言葉か?
反応できずに固まる私をみた彼は盛大に笑った。
「いや、ね。実は予約していたレストランにこれから行くところなんだ。
一緒に行くはずだった奴は急用で来られなくなってしまってね」
危うく2人分のコース料理を食べるはめになるところだった、
とジョークを飛ばす。
「一緒に来るか?」
穏やかな雰囲気とは裏腹に、何処となく有無を言わせない彼に頷く。
気さくで良い人だと思う、
でもなぜだか付いて行ってはイケない気がする。
そんな狭間に揺られながら、
小やみの雨に遠のく彼の背中を追うのであった。
end...