罪人


 恵は外で一人待機をしていた。そこらじゅうの花々が芽生えてくる季節だった。石畳に座り、傍らに咲いたたんぽぽを見ていた。心地の良い風が恵の頬を優しく撫でる。
 まだ会って数時間しか経っていないというのに、恵は脳内は泉のことで埋め尽くされていた。自分の中で善人と位置付けられている彼女が、法に則っているとはいえ処罰の対象となるなどあまりにも納得がいかなかったからだ。

 あの後、泉は本当にあの麻婆丼をきれいに平らげ、その奮闘ぷりに五条と恵は自分の箸が止まってしまう程であった。わざわざ髪を結んで、腕まくりをして汗をかきながら挑むその姿は、店員や周囲からの視線もかき集めていて、食べ終わると拍手が巻き起こる始末だ。滴る汗を拭いながら笑っていた泉だったが、今は学長の夜蛾、高専の一年担当の五条ともに面談中であった。



「君はここに何しに来た?」

 夜蛾学長にそう問われ、私は至極当たり前のように答えてしまった。

「呪術師になるために…?」
「なった後の話だ」

 なるほど、と思って学長から視線を逸らす。その視線の先には五条先生がいて、目隠しをしているその顔からは何も情報が読み取れなかった。
 呪術師になった後、と言われると少し言葉に詰まってしまう。呪術師になることは当たり前のことだと、私の人生に組み込まれていることだった。だからなってどうしたいか、そんなことを問われるとすぐに答えられなかった。何故生きるのか、と問われると、何と答えるのが自分の意志なのかが分からなくなるのと同じだった。

 私が質問に答えないでいると、夜蛾学長は静かに私を見下ろして更に問いを重ねた。

「君が呪術師になるきっかけは、約十年前の"呪われた峠"の一件だとお父様から聞いている」
「明確に呪術師を意識したのは、確かにそのときだったと思います」
「それは当時我が校から派遣された夏油傑の影響があるか?」

 昨年のクリスマスイヴの前日。あの日から私はなるべくその名前を、その人物を思い出さないようにしていた。当然父親との会話にあがることは無かったけれど、光との会話でその話題が出ても無理矢理話を逸らしていた。そうすると光は何かを悟ったのか、彼の名前を出すことはなくなった。そうすると、私と光の日常で彼の存在は本当に薄れていった。入学手続きの時、初めて高専関係者と関わった際、それが五条悟という名前だったのを知った時は感情が揺れるかと思ったが、なるべく考えないように意識をしていると、そう危惧するほどのものではなかった。実際、五条先生は入学手続きの際、一切彼の話題を振らなかったからだ。
 だから、面と向かってその名前を出されると、一気に抑えていた感情が暴走した。頭には優しく笑う夏油さんの場面が次々と思い起こされる。

 涙が頬に伝っていると分かって、すぐに指で拭った。そういえば私が泣くと、夏油さんは優しく拭ってくれていたな、と今思い出さなくても良いことを思い出してしまう。

「夏油傑は当時こそ呪術師であったが、その後離反している」

 ずっと疑問を抱いていた。何かがおかしい、とずっと考えていた。でも真実を知ることが全てだと思えなくて、知ろうとしなかったのは私だった。
 本人の口からもちゃんと聞いていたはずだった。夏油さんは私の敵となる存在だと。でもどこかでまだ期待していた。だから他人からその現実を突きつけられることが、こんなにきついとは思わなかった。

「……知っています」
「君は離反後の夏油傑とこの十年間何度か会っていたようだが、何故だ?」
「なぜ、って…」

 会いたいと思ったから会っていた、そんな単純な答えでは駄目なのだろうか。

「会って何をしていた」

 そうか。これは私の入学面談ではなく、私の処遇を問う尋問に近いものなのか。彼らは少なからず私が脅威になり得ると、もしくは夏油さんと未だ繋がっていて情報の漏洩などを危惧しているのだろうか。

「ただ話を…学校であったこととか、光…弟の病状とかを」
「それだけ、か?」
「はい。私は夏油さんが離反していることも、最後に会った時まで聞いていませんでしたから」
「では昨年の百鬼夜行直前に会っていたのは…」
「…百鬼、夜行……?」

 何ですかそれは、全く聞き覚えのない言葉を繰り返すと学長は神妙に眉を顰めた。更に五条先生を見上げると彼は薄らと口角を上げて「マジか」と小さく言った。そして学長に向かって「これはどう考えてもシロじゃないですか」と言い放った。その言葉に学長は心底驚いたような声でなんとも言えない言葉を出した。
 彼らの言動の意図が分からなくて、説明を求めると話してくれたのは学長ではなく、五条先生だった。

「簡潔に言うと、夏油傑は去年のクリスマスに百鬼夜行という大規模な呪霊テロを起こしたんだよね」
「…去年の、クリスマスって…」

 閉じ込めていた記憶が鮮明に甦る。一日早くもらったクリスマスプレゼント。そう、私たちが最後に会っていたのは、去年のクリスマスの前日。要するに、百鬼夜行という大規模テロの前日、ということになる。そのテロの詳細についてが学長から語られると、更に続けたのは五条先生だった。

「で、その前日に夏油傑が宮城県仙台市にいたって連絡があって、僕たちも馳せ参じてたわけ」
「…それは、その…」
「そこに共犯者がいるかもしれない、と踏んだからだよ」

 結局探し出せなかったんだけどね、と軽く言った五条先生に対して、私はその共犯者だと思われていた、ということか。だからこんな尋問のようなことが行われたのか、と思うと同時に私は一つの疑問が浮かんだ。

「あの、…えっと、その百鬼夜行は、どうなったんですか」
「もちろん僕たちの勝ちだよ。夏油傑自体は呪術高専に単身やってきて今の二年たちと戦ったみたいでね。乙骨っていう強い術師がいて…」
「いや、あの…そうじゃなくて」

 頭が回らなくて、私は目上の人間である五条先生の言葉を簡単に遮ってしまった。心臓がドクドクとうるさかった。息が詰まりそうで何度も何度も深呼吸をした。聞きたくないけれど、今は真実を知りたかった。でも知って、絶望するのは怖かった。

「夏油さんは、どうなったんですか?」

 五条先生を見上げる。先生はどこ見ているのか分からない。聞きたくない。聞きたくない。知りたくない。知ってしまったら、私はもう何にも縋ることができない気がする。
 ―――でも、もう引き返せない。

「僕が殺した」

 視界がぐにゃりと歪むようだった。急にキーンと耳鳴りがして、早くなった鼓動を落ち着かせるために深呼吸を何度もする。それでも苦しくて仕方がなくて、何故かと思ったら私は泣いていた。それでもまだどこかで自我を保てていた私は、あの時のように咽び泣くのではなく、ただ止められない涙を流しているだけだった。
 本当は五条先生に憎しみさえ抱いたって良いはずだった。でも夏油さんが語ってくれた五条悟という人間を知っていたから、夏油さんが実際に自分を倒せる人間として教えてくれたのはきっと五条先生のことだと思うから、そう思うと私はこの感情をどう処理すればいいか分からなかった。

「私と光は、夏油さんと七海さんが来てくれなかったら、死んでました。命の恩人なんです。それは変えようのない事実だと思っています」
「全てを知った今、君はどうしたい?」

 学長の声は最初よりいくらか柔らかくなっていた。
 今まで見たたくさんの夏油さんが走馬灯のように駆け巡る。いつも優しく笑ってくれて、優しく頭を撫でてくれる夏油さんが、ずっと脳内にこびりついて離れなかった。

「夏油さんに強い呪術師になってほしい、と言われました。夏油さんを倒せるのは、私か五条先生だと…」

 隣からぼそっと「ひどい奴」と聞こえてきた。

「でも違うんです。私は夏油さんを倒すために呪術師になりたいんじゃない。私は、私…っわたしは…っ」

 両手で目を覆う。手の甲が涙で塗れてしまう。視界が暗くなるとどうしても頭の中には優しく笑う夏油さんがいる。もう二度と会えないのだ、とあの時分かっていたはずなのに、やっぱり私はどこかで縋っていたのだ。奇跡という非現実的な願望に、縋ってしまっていたんだ。だから今、惨憺たる現実を突きつけられ、こんなにも胸が張り裂けそうな気持ちで埋め尽くされている。
 五条先生が言った通り、ひどい人だと思った。贈り物なんてされたら、それを見るたびに思い出してしまう。誰かといる時は大丈夫でも、一人で居る時どうしても寂しくなると、引き出しに眠っていたあのハンカチを見て、一人で涙を流していた。綺麗な思い出ばかりを遺して去っていくなんて、本当にひどい人だ。
 これじゃあ私は貴方を憎めない。
 それでも、私は進まなければいけない。立ち止まってなどいられない。そんなの夏油さんが望まないことも分かってる。だから彼は私に強い呪術師になってほしいだなんて、独り善がりな願望を言ったのだ。

「私は、これ以上私や弟のような犠牲者を出したくありません」

 あの事件の直後からその思いは変わらなかった。母がいなくなるということは、父は今まで以上に大変な思いをする。私が普通の高校に行かずに呪術高専へ入れば少しは金銭的援助もできるし、住み込みの学校だから父の負担が少しでも減ると思った。
 だが何よりの理由は、これだった。

「ヒーローじゃないから全ての人間は救えない。それでも手の届く範囲の人は助けたい。そしてその人たちの心を少しでも救えるのであれば…」

 ―――私にとって夏油さんがそうであったように。

「それが私が呪術師になる理由です」

 涙を拭って学長の顔をしっかりと見つめた。学長は私の言葉を受け止めてくれた。そして「良い答えだ」と言うと五条先生に高専内の案内をするよう伝えていた。そのやりとりから、私は一先ず彼らに認められたらしい。夏油傑側の人間ではないと、脅威ではないと認識されたのだ。

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