大嫌い


 校内の案内を一通り終える頃にはもう夕方が近くなっていた。窓の向こうの空がオレンジ色に染まってきた頃、長い廊下を歩いていた三人は五条の言葉に耳を傾ける。

「二年が共同スペースにいるっぽいから、簡単に挨拶しとこうか」
「うわあ、緊張するな…」
「ああ、ちなみに」

 泉と恵を率いるように歩いていた五条は振り返って泉の方を見る。見るとはいっても目隠しをしているため、視線がどこを向いているか正確には分からないが。

「泉のことをよく思ってない人間もいるから気をつけてね」
「…え、そうなんですか」
「そもそも御三家の中には佐狐家をあまりよく思ってない人間もいる。更に君はあの夏油傑に救われた子だ」
「………。」

 泉は夏油傑という名前が出ただけで心臓を鷲掴みされたような感覚に陥るが、今はそのことよりも自分が今置かれている状況の方が気になった。

「御三家の方が五条先生以外にもここにいらっしゃるんですか?」
「うん。泉の隣にいる奴とか」
「…えっ?ふし、え?でも伏黒、くんだよね?」

 勢いよく顔を向ける泉に少し驚いた恵だったが、自分の話をされているというのに澄ました顔であった。

「まあ家庭の事情的な」
「恵のパパとんでもないロクでなしだったんだけど、元は禪院家のボンボンなのよ」
「ぜ、禪院家…!すごい!そうだったんだね、伏黒くん!エリートだ!」
「えー、僕もエリートだよ、泉」
「もちろん分かってます」
「あの、話逸れてません?」

 恵の軌道修正により五条はふざけるのをやめて話を元に戻そうとするが、その際に泉が「じゃあ」と先に口を挟む。

「私もしかして五条先生と伏黒くんから良く思われてないですか?」

 まだ目尻が赤い泉が二人を見てそう言った。その顔はとても困ったような、悲しいような表情で、犬であれば間違いなく耳が垂れ下がり、尻尾もしょんぼりとしている様がぴったりである。

「まっさかー。僕はそもそも御三家の古臭い考え方大嫌いなタイプだし。護さんのことも尊敬してるよ」
「そうなんですね、良かったあ」
「恵はどう思ってんの?」
「は、?」

 まさか急ハンドルでこちらに振られると思っていなかった恵は、思わず短い声を漏らしてしまう。

「ほら恵、ちゃんと言わなきゃダメだよ?」
「伏黒くん、私も自分の家のこと詳しく知ったのは最近で、どう思われてるかなんて知らなかったから…」
「俺は別に…」
「だから伏黒くんも無理しないでね、嫌いなら嫌いで…」

 自分のことでいっぱいいっぱいになっているのか、泉は恵の言葉もよく聞こえていなかったようだ。まるで恵の方が慰められている感じがして、恵ははあとため息を吐く。

「俺は佐狐のことを良く思ってないことはない」
「ん、うん?なんか難しい言い方するね」
「要するに恵は泉のこと大好きってことだよ」
「やめてください」
「あれ違った?」

 ふざけている五条にうっすらと青筋が見えている恵であったが、クスクスと聞こえた微かな笑い声に二人はその声の方を見る。嬉しそうに破顔している泉を見て恵は先程泣いていた彼女が今は笑ってくれていることに安堵した。
 ―――その束の間。

「随分と長かったなぁ。観光かなんかと勘違いしてんのか?」

 三人の和やかな雰囲気を一瞬で引き締めるような棘のある声と言い方に、泉も顔が強張ってしまう。
 ちょうど共同スペースに差し掛かっていたようで、声はそのテーブルの一角に座っていた女子のものだった。同じテーブルに小柄な男子とパンダがおり、泉は情報量の多さに言葉を失ってしまう。しかしその声の主を特定すると、泉はその女子から目が離せなくなった。感じたことのないプレッシャーは、自分に対する明らかな敵意だった。

「律儀に待っててくれたの?悪いねえ」
「そりゃ待つでしょ。可愛い後輩が入ってくるとなれば、そりゃもう。な、棘」
「しゃけ」

 五条に対しそう返したのは呪術高専二年のパンダであるパンダと、同じく二年の狗巻棘であった。彼らについて簡単な説明を五条がすると、テーブルの一番奥に座っていたもう一人の二年生は茶番だとでも言わんばかりに鼻で笑った。

「私は違ぇからな。何が可愛い後輩だ」

 眼鏡の奥に揺らめく鋭い眼光に、泉は一瞬たじろいてしまったが、その目元にどこか既視感を覚えていた。何も言えないでいる泉に対し、彼女は立ち上がってパンダと棘を押し退け、泉の目の前までやってくる。自分より幾分大きな彼女を見上げる泉は、この状況でもその瞳をしっかりと開いて目の前の彼女を捉えていた。

「夏油傑に助けられたんだって?」

 その言葉に泉は昼頃に学長たちとの面談の時の話を思い出した。五条が夏油傑の話をしていた際、彼は確か百鬼夜行で高専に侵入した夏油傑は今の二年生たちと交戦した、と話していた。

「はい」
「気に食わねえな。私らのことはコテンパンにしてくれたってのに」
「なあ真希、やめろって。それとこれとは別問題だろ?」
「おかか」

 険悪なムードになりつつあるが五条は黙って見ていた。そして恵は隣の泉の様子を伺うように見ていた。いつの間にか俯けてしまった顔からは何も分からなかった。これ以上は泉が可哀想だと思う恵も真希を止めようとするが、先に口を開いたのは泉の方だった。

「パンダさんや狗巻先輩たちも夏油さんと戦ったんですよね」
「まあな…つっても一瞬だったけどな。ちなみに二年にもう一人乙骨憂太って奴がいるんだけど、そいつが結構張り合ったらしくてな。今はいねえんだけど」
「しゃけ」
「でも皆さん生きてるんですよね」
「あ?」

 俯けていた顔を上げた泉は、何かを覚悟したかのような顔つきだった。真希は眉間に皺を寄せて、泉の言葉の説明を待った。

「呪術師だから、殺されなかったんですよ、きっと」

 泉の言葉に一同が口を閉ざしてしまう。まるでその言い方が、とても悲しく響いたからだ。また夏油傑のことをこの場の誰よりも知っている五条は、泉の発言の通りだと認識していた。夏油傑は未来ある呪術師を殺さないと分かっていたから、あの場にパンダと棘を送り込んだのだから。

「一つ訊いていいか?」
「はい」

 真希は先ほどと顔つきが変わった泉を見下ろして尋ねた。

「お前、非術師は嫌いか?」

 その言葉に泉の脳内に蘇ったのは十年前のあの峠で置き去りにし、その後何度も泣いて縋っても自分たちを見捨てていった母親だった。久しく蘇ったのはこの記憶に、負の感情に泉の背後に目視できるほどの負のオーラが全員に見えた。

「はい、大っ嫌いです」

 よそ行きの笑みを浮かべた泉がそう答えると、黒いモヤモヤしたものは泉の中に吸い込まれるように消えていった。それが負の感情だったのは全員が分かったとしても、何を起因としたものなのかは誰一人として分からず、場は何とも言えない空気となった。
 恵はこの中で少し違う観点から今の状況を見ていた。穏やかで優しい泉の口から「嫌い」だと、しかも強調されていたし、明らかに何か特定のことを思っての感情だったことが、少し意外だった。

「それじゃあその乙骨さんからも、良く思われないでしょうね」

 この微妙な空気を切り裂いたのは泉だった。先ほどの強い負の感情もなく、淡々と語るその口調は恵が今日初めて会った時から感じ得た泉本来の雰囲気だった。

「憂太めっちゃいい奴だから、そんなこと思わねえって」
「しゃけ!」

 それに対しすぐにパンダが空気を読んで和ませてくれる。おそらく棘も同じ気持ちであることに違いない。そしてパンダは真希の肩に手を置いて「すっかり紹介し忘れてたけど」と言って続ける。

「この怖ーい先輩は禪院真希っていうんだ、こんな奴だけど仲良くしてやってくれよ」
「うるせえな、どこが怖いんだよ」
「ツナ」
「…禪院…?あ!通りで!目元が綺麗で伏黒くんと似てるな、って思ってたんです」

 おそらく恵と真希に飛んできたブーメランに両者は思わずフリーズしてしまう。
 五条が手をパンッと叩き話を無理矢理収束させた。それによりこの場はお開きとなる。二年生とは特訓などでこれからお世話になることがあるということで、改めて頭を下げた泉だった。



 泉はこの時思っていた。
 もう忘れなければいけないのだ、と。
 呪術高専でやっていくに当たって、もう彼を思い出すようなことはあってはならない。夏油傑という人間のことも、彼に抱いた憧れも、恋慕も、綺麗な記憶の全てを忘れるのだ。忘れなくちゃいけない。忘れるんだ。忘れなくちゃいけない。忘れなくちゃ……

 そう思っていた泉の頭の中では夏油傑が彼女の大好きな優しい笑顔をつくっていた。

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