理解不能


 心臓が何者かに握りつぶされるような感覚を味わった。心にどろりどろりと鉛のように流れ込んだ感情を、この時の俺はまだ知らなかった。

 いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。



「おーい、伏黒くん!伏黒くん!」

 その声に気付いた時には佐狐が俺の顔を覗き込んでいた。外での特訓中、俺は少し座って休憩をしていて、佐狐は焔狐を出して訓練をしていたはずだったが、いつの間にか俺の方に来ていたらしい。
 俺はもう何日も前のことだというのに、未だに気を抜くとあのことばかりを考えてしまっていることを痛感させられた。

「伏黒くん具合悪い?」
「いや大丈夫だ」
「そう?だったらいいけど、最近元気ないなって思って」

 佐狐は結構鋭い洞察力を持っていると思う。あまり表にそういうのを出さないようにしてきたつもりだったが、いとも簡単に見抜く佐狐に本当のことを言えるはずもなく、どうしたものかと考えていた。
 すると急に頭上が急に暗くなったので、見上げると一面に黄金色が広がった。一瞬何が起こったか分からなくて瞬きを繰り返したが、すぐに視界に端正な顔の狐が入ってきたので、これが焔狐なのだと分かった。焔狐は俺に顔を擦り寄せて、その姿はまるで撫でて欲しいと言っているようにも思えた。その顔を優しく触れると、九つある尻尾がゆらゆらと揺れる。
 ちなみに佐狐は術式を発動させると、先日護さんが手の甲に記した文字が浮かび上がるらしい。発動中はずっと浮かんでおり、解くと同時にその文字も跡形もなく消える。これはおそらく佐狐家に伝わる特別な手法によるものだったのだろう。俺たちからは普通に指で文字を書いているだけに見えていたが。

「焔ちゃんが私以外に懐くの珍しいんだよ」
「そう、なのか…」
「アニマルパワーお裾分けするね」
「俺の術式も動物だけどな」
「あ……」

 そうだったね、と笑う佐狐だったが、この会話の間も俺はずっと焔狐を撫でていた。少しでも手を休めると、まだ止めるな、と催促するように鼻で突いてくるのが可愛らしかった。俺の玉犬たちも確かに可愛いが、他人の式神の動物に触れることが結構新鮮でおそらく俺は今頬が緩んでいる。

「確かにアニマルパワーだな」

 そう言うと佐狐は俺の言葉の意味を理解したようで俺よりも更に柔らかく笑っていた。今は何故か、その顔を見ると胸が締め付けられるような感覚だった。
 こういう現象に陥ったのは、あの日、盗み聞きなんてした俺への罰なのだろうか。



 あの夜、俺は喉が渇いて冷蔵庫を見たが生憎飲み物の在庫を切らしていた。自販機で何か買おうかと思い、夜の校舎を歩く。元々薄暗く感じる校舎は夜になるとお化け屋敷のような異様な雰囲気に変わっていた。黙々と歩くこと数分、目的地の自販機が見えたところで、俺はそこに二人分の人影を目視した。最初は誰かいるな、程度のものだったが、近付いてその二人が誰なのかを認識すると、俺は何故か二人から見えないように隠れてしまった。
 佐狐は禪院先輩のことを明らかに気にしていた。当の禪院先輩は全く気にしてなさそうだったが、俺としても初めて会ったあの時の様子から彼女らが上手くやっていけるかどうか心配だったし、実際護さんも「相性が悪い」と言っていた。だが五条先生は「大丈夫じゃない?泉は他人想いだし、真希もああ見えてちゃんと優しいよ?」と言ってはいたが。先生があの場で割って入らなかったのは、そこに理由があったそうだ。

 聞いてはいけないと思いつつ、ここで引き返して彼女らに見つかるのも変だと思い、不可抗力で話を聞き流していた。しゃがみこんで、暗い空を見上げる。星がちらほらと見えた。

 佐狐が禪院先輩に謝罪をすると、やはり先輩は何のことか分かっていなかった。彼女はそういう人のようで、あれだけ佐狐に敵意を向けていたにも関わらず、おそらく初対面の時の彼女の人間性に触れ既に敵意は削がれていたのだろう。しかし次に佐狐が何故あんなこと尋ねたのかを確かめると、禪院先輩はこう言った。

「夏油傑も同じようなことを言っていたんだ」

 再び出た夏油傑という名前は、数日前までは俺に百鬼夜行の首謀者という印象しか与えなかった。それが佐狐がやって来たことにより、彼女を呪霊から救った英雄に変わった。少なくとも、佐狐にとっては後者の印象の方が格段に強かったのではないだろうか。
 禪院先輩がどうして呪力がないにも関わらず、ここにいるのか、その理由までも俺は聞いてしまったわけだが、禪院ではない俺が術式を受け継いでいることを先輩はどう思っているのだろうか。まあこのことは今はいい。佐狐と先輩はどうやら和解したようで、話し声から佐狐は泣いてしまっているらしい。よく泣く奴だな、と思わず頬を緩ませてしまったが、この後に語られた佐狐の過去に俺はその頬を引き攣らせてしまう。

「私の母親は呪力を持ってなかったんです。それまで優しかった母親はある日突然、私と弟を呪われた峠に置き去りにしたんです」

 何故彼女の母親がそんなことをしたのか分からなかった。俺は会ったこともないその母親に対し怒りを覚えたと同時に、思い出す。初めて会った時、佐狐が連れていた少年のこと。自分だって道が分からず迷子であったのに、その手を差し伸べたのは今も入院している当時の弟と重ねてしまったのではないだろうか。まあ佐狐の性格上、そうでなくとも同じことをしていただろうが。そしてその少年が無事母親と再会できた時に見せた、あの寂しそうな表情は、自身らを置き去りにした母親への複雑な感情の現れだったのだろうか。

「夏油さんは助けてくれた後も私のところに何度か来てくれていて、私ずっと違和感があったのに、見て見ぬ振りしてて」

 心臓がドクドクとやけにうるさかった。何度も会っていた、という事実がそうさせているのだろうか。今度は会ったことのない夏油傑という人間が、心底罪な人間だということを知った。だって、佐狐は彼の名を呼ぶ時、あんなにも優しい声を出すんだ。

「いつも優しく笑ってくれるから、私、いつの間にか、好きに、なっちゃって…。夏油さんが、悪いことしてても、それでも側にいたいって思うくらい、好きだったんです」

 そうか、そうだったのか。

 心臓が痛かった。ドクンドクンと脈打つ度の鈍い痛みを覚えた。
 馬鹿みたいですよね、と続ける佐狐に禪院先輩は肯定していた。俺はそれからの彼女たちの会話を覚えていなかった。

 佐狐は知っていたんだ。自分の命の恩人である夏油傑が呪詛師であったことを。分かっていて見て見ぬふりをしてきた。その理由は、彼がどれだけの人間を殺した最悪の呪詛師であったとしても、関係ないと思えるくらいに彼のことが好きだったからだ。

 今まで特定の誰かを心の底から愛するなんてことなかった。そもそも愛だの恋だのに興味なんて無かったのだ。

 寮の方へ向かっていく禪院先輩たちに気付かれないように俯いていた。しかし視線を感じそちらを見ると、俺を見ていたのは禪院先輩だった。佐狐は気付いていないようだった。禪院先輩は俺と少し目を合わせると、すぐに逸らして佐狐にバラすわけでもなく寮に戻って行った。

 俺は恋愛なんてものに、興味なんてなかった。だから佐狐の気持ちが、佐狐が夏油傑を罪人だと分かっていても尚好きだと言う理由が分からなかった。
 そして、俺のこの心臓が悲鳴を上げるように痛むこの理由も分からなかった。

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