再会


温泉旅行編―壱―



 ―――四月末。桜の花びらはあっという間に散り去り、木々は緑色を靡かせている。

「大分、到着!」
「わーい!」
「これ本当に任務なんすよね?」
「言ったでしょ、任務兼慰安旅行兼誕生日会!」
「…どうして私まで同席する羽目になったのでしょうか?」

 はしゃぐ佐狐や五条先生の隣で大きくため息を吐いたのは七海さんだった。淡い色のスーツをきっちりと着こなしていながら、その表情は実にくたびれていた。

「だってこういうのは多い方が楽しいでしょ?」

 おそらくただの独り言だったであろう七海さんの言葉に五条先生がわざとらしく返答する。先生は隣にいた佐狐に同意を求めると、彼女はニッコリと笑って「はい!」と嬉しそうだった。その笑顔を見せられると正直に何も言えなくなってしまう。見惚れてしまいそうな無邪気な笑顔だったが、七海さんがぼそりと「本当によく笑う子だ」と呟いたので、俺は十年前佐狐を救ったもう一人の呪術師が七海さんであったことを思い出した。



 事の発端は四月中旬の五条の発言である。

「そういえば泉今月誕生日だよね?―――やるでしょ、誕生日会」

 ちなみにこの時乗り気であったのは五条先生一人のみで、当の本人の佐狐ですら「別にお祝いなんていいですよ」とあしらっていた。しかし五条の強引な誘いに断りきれず渋々了承しているという印象が強かった。

「じゃあ僕と二人で温泉デートでも…」
「待ってください、二人で行くんですか?」
「あれ、どしたの恵。恵も行きたいの?」

 俺としても佐狐の誕生日を祝いたいと思う気持ちくらい持ち合わせているが、五条先生と二人きりで温泉デートというのはちょっと如何なものかと思う。

「まあ半分冗談。四月末に九州に出張が入ったんだけど、授業の一環で二人にも来てもらおうと思って」
「そういうことならそうと先に言ってください」
「で、泉の誕生日も近いからちょっと滞在日数伸ばして任務の後観光でもしようかなーって」

 五条先生にしては珍しく良心的な提案だと思った。佐狐もそういうことなら、と五条先生の提案を快諾していた。

「温泉なんて何年振りかな」

 そう言った佐狐はどうやら懐古しているようだった。昔を懐かしむような表情を見せたが、すぐにその表情は崩れて歪む。まるで嫌なことでも思い出したかのように歪んだ表情を見てしまうと、佐狐がそれに気付いた。
 困ったように笑った佐狐が「楽しみだね」と真相に触れさせてはくれなかったので、俺もそれ以上考えることをやめた。



 スケジュールとしては着いてすぐチェックイン後任務開始、終わり次第観光ということになっているが、数カ所を回る任務のため、おそらく初日は任務で潰れるだろうとのこと。本格的な観光は二日目からということだそうだ。
 一先ず宿泊する旅館に荷物を預ける為足を運ぶ。旅館に向かうタクシーの中で五条先生は宿泊先の旅館の話をしていた。気持ち半分で聞いていたが、要するに五条家がご贔屓にしている老舗旅館だということ。日本中に何軒か系列があるらしいが、五条家はその旅館のどこででも顔が効くらしい。要するにお金持ち自慢だろう。

「それでね、そこの若女将がとっても美人さんなの」
「五条先生にもそういう感覚あるんですね」
「泉ちょっと僕のこと貶してない?」
「佐狐の感覚は普通ですよ」
「二人とも失礼だなー。ちゃんと泉は可愛いと思うし、恵はかっこいいと思ってるよ?」
「はいはい」

 呆れたように返事をすると隣からふふ、と笑い声が聞こえた。後部座席に三人で乗っているせいか、佐狐がいつもより小さく見えた。「狭くないか」と尋ねると「大丈夫、ありがとう」と優しい声が返ってくる。

「七海とかに良いかも。少し年上だけど、七海年上とか好きでしょ?」

 五条先生は助手席に座る七海さんにそう言うと、彼は今まで空気のように貫いてきた無言を解放する。

「私は別にそういうものに興味ありませんから」
「またまたー、七海も良い年なんだから。真面目に考えなよー」
「貴方に言われたくありません」
「僕はほら、五条家だから」

 二人の会話はいつもこんなに温度差があるものなのだろうか。明らかに五条先生を煙たがっている七海さんは「そもそも」と声を出した。

「私は恋愛や結婚なんてものに、夢や幻想は抱かない主義なんです」
「えー、おもんな」

 七海さんはクールな人だと思っていたが、ここまで徹底した人だとは思っていなかった。俺も恋愛や結婚なんてものを前向きに捉えていた訳ではないが、ここまで強い意思を持ってそう断言し切ることには、何かそれに至る決定的な理由があったのかもしれない。

「じゃあ恋愛ゲームだと七海さんは最高難易度ですね」

 佐狐が的外れなこと言ったと思ったが、すぐに便乗した五条先生が「僕は?」と尋ねていた。少し重くなりかけた雰囲気が和んでいく。佐狐のこういうところがすごいな、と思う。瞬時に場の空気を察知して、それとなく話題を切り替えているのだ。自分にどれだけ敵意が向けられていようとも、相手との間に溝を作るのではなく、一歩寄り添ったことを述べたりするのは禪院先輩との一件で知っていた。
 佐狐は俺にないものを持っているのだ。

 着いた旅館は温泉街と呼ばれる場所にあるうちの一つだった。近隣にはいくつもの温泉旅館があって、少し歩くとそこは沢山の店が連なる観光では有名な通りがあった。
 タクシーを降りると既に旅館の玄関前にはスタッフが整列していた。五条家が確かに御三家であることは知っているが、それが一般にも通用しているところがやはりすごいところであろう。俺や佐狐はその出迎えに圧倒されていた。女将と若女将からそれぞれ挨拶があると、俺たちより前にいた五条先生がこれ見よがしに「ね、美人さんでしょ」とこちらを見る。
 しかし、五条先生はすぐにそのふざけた顔を一変させた。

「泉?どうかした?」

 そう言われるまで俺は佐狐がそんな表情をしていることに気付かなかった。ひどく見開かれた瞳は五条先生を通り越して、ある人物をしっかりと捉えている。その視線の先にいた人物は、ついさっき五条先生が美人だと得意げに言っていた人だった。

「…泉…?見覚えがあると思ったら、…泉ちゃんかい?」

 女将は先ほどまでの畏まった言動から急に馴染みのある呼び方で佐狐を呼んだ。佐狐は固まって動けなくなっているようだった。「大丈夫か」と尋ねるも返答はなく、控えめに俺の制服を掴まれた。そして俺の後ろに隠れるように、彼女たちの視界から逃れようとする。他の旅館スタッフもざわつき始めたところで、五条先生の隣にいた七海さんがこちらにやってくる。

「泉さん、大丈夫ですよ」

 そう言って七海さんは二回ほど佐狐の頭を撫でる。あの七海さんがこんな言動をしたことに驚いたのは俺だけではないはずだ。「あの…」と状況の説明を求めようとしたが、佐狐が更に強く制服を握りしめたのでそれ以上尋ねるのは憚られた。
 そして踵を返した七海さんは冷酷にこう言い放つ。

「五条さん、貴方の趣味は随分と悪いようですね」
「え、ちょっと待って、多分僕と恵全く状況掴めてないんだけど」

 五条先生も分かっていないことに少し安堵してしまった。俺だけ仲間外れなのはあまり気分が良いことではないから。

「さっさと手続きを済ませましょう。我々は仕事でこちらに来てるんですから」

 そう言って七海さんは五条先生より前に出て女将たちに「案内してもらえますか」と言った。慌てて案内をし始めたスタッフたちも、あまり状況を理解できていないようだった。

「あんな御立腹な七海、珍しいねぇ」
「そう、…ですね」

 五条先生にそう返答しながら俺は自分の後ろに隠れている佐狐を見る。相変わらず俯いていてその表情は分からなかった。

 状況は掴めなかった。しかし、女将と若女将に反応した佐狐、そして女将の様子から見ると、おそらくあの二人は佐狐の身内ではなかろうか。普通身内に会うと警戒心を解く筈だ。だが、今の佐狐がむしろ警戒心を極限にまで出しているということは即ちあまり良好な関係ではないということだ。
 そうして俺はあの夜、盗み聞きしてしまったことを思い出す。

 呪力を持たない母親、その正体は佐狐と佐狐の弟を呪われた峠に置き去りにした、悪魔のような人。

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