聖域
温泉旅行編―弐―
あの後、客室に荷物を置いてすぐに任務に出かけた俺たちはこの近くにある池と森に彷徨う呪霊討伐任務にあたった。恐らく一級呪霊と思われる呪霊であったが、主な戦闘は俺と佐狐、そしてヤバくなった時に七海さんが助けに入るということで、五条先生は監督として見ることになった。
佐狐は離れの客室に着くなり、部屋に感動しきってあちこちを見て回ったり、写真を撮ったりと先ほどまでの様子が嘘のようだった。五条先生が別の宿を取り直しても構わないことを伝えるも、佐狐は「大丈夫です」と笑うだけだった。恐らく事情が分かっている七海さんも無言を貫いていたため、俺と五条先生は核心をつくことができなかった。
「おい佐狐!後ろ!」
「……えっ?」
一級呪霊の討伐任務には運の悪いことに下級呪霊も集まってきていた。その討伐任務中にぼうっと突っ立っていていた佐狐のもとに呪霊が一体突進していった。背後から向かっていたため、気付かなかったのか声を荒げると、何とも間抜けな声が返ってくる。おそらく完全に別のことを考えていたのだろう。玉犬をそれぞれそちらに向かわせるが、直感的に間に合わないと思ってしまった。他に何か方法は無いか、と逡巡していると佐狐のもとに白いスーツを着た影が現れる。
「泉さん、今は任務中です。切り替えてください」
玉犬よりも先に七海さんが間に合い佐狐は無事であった。覇気のない「ごめんなさい」という言葉がどうにも悲痛に感じた。いつもの佐狐ならあんな雑魚呪霊の気配、すぐに察知出来たはずだ。それが出来なかったのは、やはり先程の女将と若女将たちとのことがずっと心に引っかかっているからだろうか。
討伐自体は七海さんと俺で終わらせた。すぐ近くには池があり、佐狐はその池の淵に立っていた。池には鳥居が立っており見る時間帯によれば幻想的な空間になるだろう。
その風景を佐狐は何かを持ってずっと眺めていた。
「おい……」
佐狐が手に持っていたものが分かると、俺はもうすぐそこまで出かかっていた佐狐の名前を呼ぶ声を留めてしまった。その手には先日、彼女が落としてしまった大切な人からの貰い物である白いハンカチがあったのだ。
更に俺がこれ以上声をかけられなくなってしまったのは、その横顔があまりにも綺麗で見惚れてしまっていたのと、宝石のような瞳から雫がゆっくりと零れ落ちてしまったからである。綺麗な口元が小さく動くと、彼女は確かにこう言った。
「夏油さん…」
その名前が呟かれると再び雫が零れ落ちる。落ちた雫が白いハンカチに染みをつくる。
俺たちが関わっていない事情だから佐狐は何も言ってくれないんだろう。多分俺たちが知らないからではなく、迷惑をかけたくないから、とお前は言うんだろうな。だから今お前は、当時の命の恩人である七海さんでも担任の五条先生でもクラスメイトの俺でもなく、お前が大切だと思い悪人であっても側に居たいと願った夏油傑がいてくれたら、と思っているんだろう。
「佐狐」
だから今俺が名前を呼んだって―――。
佐狐がゆっくりとこちらを向く。その拍子に涙が数滴散りばめられた。
「…伏黒くん、さっきはごめんね」
どうしよう、と相談してくれるのではなく、そうやって笑って誤魔化すのだ。
その聖域に誰も寄せ付けたくないかのように、一生懸命に結界を張って、曝け出してしまわないように、細心の注意を払って何もかもを心の奥底に眠らせているのだろう。
そんな頑なな姿を見せられると、俺だって土足で踏み込む勇気なんてない。
「大丈夫だったか」
お前がまるで泣いてなんかいないという顔をするから、だったら俺もそれに合わせるしかないだろう。敢えてそこには触れずに任務のことにだけ焦点を当てる。
「うん、ごめんね。迷惑かけちゃったね」
「俺は別に。そういうのは七海さんに言えよ」
「うん、そうだね」
全く気持ちのこもっていない言葉、それに不釣り合いの笑顔。見ていてこちらの心が苦しくなる。それでも佐狐が笑うから、俺はそれ以上言葉が出なかった。
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任務が終わる頃には既に空は茜色に染まっていた。夕焼けに照らされた街並みがやけに目に染みる。
佐狐は七海さんにお礼を述べていて、その後はいつもと変わらない笑顔を絶やさなかった。七海さんも五条先生も思うところはあるようだったが、誰も深くは尋ねなかった。
旅館に戻るともう夕食の時間だった。本当に初日は任務で潰れてしまったらしい。部屋は仕切りのある寝室が一部屋に居間があり、縁側の向こうに露天風呂がある造りだった。そもそもいくら保護者的立ち位置だとしても、男三人と佐狐一人という組み合わせで一部屋というのはどうなのだろうか。本人は全く気にしているようには見えず、むしろ家族旅行みたいだと言っていた。
夕食は部屋に運ばれてくるらしいが、任務終わりということもあり先に風呂を済ませることとなった。正直男は三人まとめてでも大丈夫なので、五条先生が佐狐に先に入ってくるように伝えた。
「せっかく客室に露天風呂あるのにみんなバラバラに入るんですか?」
一緒に入るのがさも当たり前かのような質問に俺は思わず「は?」と声が出ていた。これには流石に畳に転がってテレビを見ていた五条先生も、座って読書をしていた七海さんも、首を傾げる佐狐を見たまま何も言えずにいた。数秒沈黙が続くが、すぐに五条先生が笑い出す。
「泉それマジで言ってる?」
「…だって家族風呂みたいなものじゃないですか」
「そりゃ寮生活とかしてたら家族も同然だけどさ」
あまり話が通じていないような気がするのは俺だけだろうか。すると五条先生がため息をついて「要するに」と続ける。
「僕も七海も恵も、歴とした男なわけ。特に僕なんかは一応教師だから。生徒と一緒に入浴はまずいでしょ?」
「…それはそうですね」
「ちなみに私も立場的には五条さんと同じ理由でアウトですよ」
「そうですか…」
「ということで入るなら恵と…」
「アンタ頭おかしいんじゃないですか!?」
あまりにもアホすぎる提案にこれ見よがしに伸びていた五条先生の足を蹴る。
「伏黒くん、そんなに嫌がらなくても…」
何でそうなる、嫌なわけねえだろ、と出かかった言葉をなんとか食い止める。いや嫌なことはないが、色々と問題がありそうだから結局のところダメだ。
だがこのままでは揶揄われていることを分かっていない佐狐があまりにも不憫なので、俺が補足を付け足す。
「修学旅行は男女別で入浴しただろ、それと同じ理由だ」
「あー、なるほど!」
そういうことか、と納得してくれた佐狐だが、本当に俺の言いたいことは伝わっているだろうか。じゃあちゃっちゃと入ってきますね、と入浴セットを持って浴室に向かう佐狐を見送ると、俺は思いっきり突っ伏してしまう。
「泉結構天然ちゃんだよね」
「天然というより貞操観念がぶっ飛んでいる気がしますけど」
「そこらへんもあんまり考えてなさそうだよね」
各々の意見を耳だけで受け止めていると、五条先生が起き上がったのか衣服の擦れる音がした。
「恵も大変だねぇ」
顔を上げるのは嫌だったから、突っ伏したままだった。
「…………。」
正直、調子が狂う。そういえば初めて会った時から佐狐には調子を狂わされてばかりだった気がする。よく笑うだけなのかと思いきや、初対面で辛いものが大好物だと言って激辛のものを食べたり、泣いたかと思えば笑っていたり。
さっきだって泣いていたかと思えば、一生懸命笑ってみせたり。
「ねえねえ、恵。もしかして泉と一緒にお風呂入るの想像したりした?」
「……黙れ」
「五条さん、流石にやめてあげてください」
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