紫苑


温泉旅行編―参―


「あれ泉浴衣着ないの?」

 佐狐は入浴を終えるとラフな部屋着で戻ってきた。五条先生の指摘通り浴衣は着ていないらしい。

「浴衣の着方、よく分からなくて」

 前は家族にしてもらってたから、と続けて消えいるような声で呟いた。この時佐狐が敢えて「家族」という言い方をした時に覚えた違和感は、のちに驚く展開になることの前触れだったのかもしれない。俺たちも風呂を済ませ、あとは夜ご飯を待つのみであった。佐狐以外全員浴衣だったので、佐狐は「なんか私だけ仲間外れ」と残念そうだった。
 四人でまったりテレビを見ていると旅館のスタッフがやって来る。

 そのスタッフが先程の若女将だったことに気付くと、一気に場の空気が変わる。

「今からお料理をお持ちしますが、よろしかったでしょうか?」

 先程体裁を崩した女将と違い、あくまでも旅館の一スタッフとしての応対をしていた若女将。さっきはキツい言い方をしていた七海さんも、彼女の態度に今回は一言も言葉を発さなかった。そして佐狐はほんの少し俯いていた。

「お願いします」
「承知いたしました」

 五条先生は普段通りに若女将とやりとりを交わしたていた。若女将は佐狐の方をじっと見ていたので、俺の方まで緊張が走る。佐狐は目を逸らしていたので「あの」と個別に声がかかるまでその視線に気付いていなかったらしい。驚いたオリーヴ色に若女将の顔が綺麗に写っていた。

「もしかして女性用の浴衣、ありませんでしたか?」

 思いもよらぬ質問に佐狐は小さく「え」と声を出す。そして「えっと、いや」と口籠っているとここぞとばかりに五条先生が「一人じゃ着れないみたいで」と場を和ませるように言った。すると若女将は「そうでしたか」と言って何かを考えているらしく口を窄めていた。俺はその時、全く同じ仕草をする人物を思い出した。
 嗚呼、やっぱりこの二人は、紛れもない親子だ。
 言われてみると顔の表情、特に目元がそっくりである。考え事をしている丸いオリーヴ色の瞳は、やがて優しく逆さまの三日月を描く。

「もしよろしければ、お手伝いさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 優しい微笑みは本当に佐狐そっくりだった。その発言にびっくりした佐狐は再び声を漏らしていたが、五条先生が「良いじゃん、お願いしたら?」と後押しする。ついでに「僕も七海も恵も、泉の浴衣姿楽しみにしてたんだよ」と逃げ場を無くさせるようなことを言うので、佐狐はお願いせざるを得なかった。

「別に私は泉さんの着たいものを着れば良いと思いますよ」
「俺もです」
「つれない君たちは黙ってなさいよ」

 若女将は一度他のスタッフに料理の配膳を頼んでから、再び戻ってきた。そして佐狐と共に別室に消えたのだ。これで本当に良かったのだろうか、と思っていたところ七海さんがため息を吐く。

「泉さんに嫌われても知りませんよ」
「だって僕まだ何が起こってるかよく分かってないんだもん」
「詳しく分からなくても、なんとなく雰囲気で把握できませんか?」
「堅苦しいな、二人とも」

 そんな会話をしている間にも豪華な料理が人数分綺麗に配膳されていく。

「今回はせっかくの旅行だよ?任務でもあったけど、それはもう終わったし、残りの旅行兼泉の誕生日会、きっちり楽しまなきゃ損でしょ?」
「それ楽しんでるの五条先生だけじゃないんですか?」
「恵だって泉と混浴楽しかったでしょ?」
「してねえわ!マジでふざけないでください」
「はあ……。伏黒くん、大変ですね本当に。同情します」


 五条先生がアホなことを抜かすので思わず大きな声を出してしまい、仲居さんを驚かせてしまった。謝ると仲居さんは愛想の良い笑みで返してくれた。ため息を吐くと、別室につながる襖が控えめに開かれる。

「………お待たせしました」

 おずおずと出てくる佐狐に対し、若女将は「随分楽しそうでしたね」と俺たちの方を見た。さっきの会話向こうまで聞こえてねえよな、と内心ドギマギしたが、それよりも何よりも佐狐の浴衣姿があまりにも扇情的で心臓がとにかく煩かった。白い生地に淡い藤色と桃色の花が散りばめられた浴衣、髪も簡単にまとめ上げられ普段隠されている頸が丸見えだった。どちらかというと可愛らしい印象の佐狐が、今はとても色っぽく見えてしまう。
 ほらやっぱりお前は俺の調子を狂わせる。

 ちょうど配膳が終わったタイミングだったので、若女将は仲居さんと共に頭を下げて部屋から出て行こうとしていた。しかし、未だ着席していなかった佐狐が、若女将を「あの」と同じように呼び止めた。若女将が佐狐の方を向くと、佐狐は彼女と目を合わせることはなかったものの、その口は確かに「ありがとう」と伝えていた。
 若女将はたったその五文字、しかも自分をきちんと見ていないにも関わらず発されたその五文字に、瞳を潤ませていた。しかし目に溜まった涙を拭うと「とてもお似合いですよ」と他人行儀な返答をした後一礼して退室した。



 気を取り直して夕食をいただく。どの料理も美味しいくて、次から次へと箸が伸びる。着実に空腹を満たしてくれる料理に大満足していたところだった。

「あれ伏黒くん、パプリカ嫌いなの?」

 隣の佐狐からそう尋ねられ、俺はあからさまに大皿の端に避けられている赤と黄色のパプリカを見つめる。

「ああ、好きじゃない」
「伏黒くんも好き嫌いあるんだね。食べてあげようか?」
「いや別に。つかこれ箸つけてるし」
「? 気にしないよ?私パプリカ好きなんだよね」

 俺の意見など全く気にせずあっという間にパプリカを捉えてパクリと口に入れてしまった。呆然としている俺に対し「やっぱりぶっ飛んでますよ」「いや恵だから気にしなかったんだよ」と対面の大人たちが言っていたが正直思考停止していた。

「じゃあ代わりに椎茸食べる?」
「…嫌いなのか?」
「うん、実は」

 戯けて笑う佐狐を見ていると俺まで思わず笑ってしまった。椎茸苦手なのか、とそんな小さなことであるが俺は佐狐のことが知れて嬉しかった。
 小鉢に残されていた椎茸を箸で掴んで食べる。俺は椎茸好きだけどな、と思うが、ブーメランになるのでこれは言わないでおこう。

 その時、お茶に伸ばした俺の手が、食器を取ろうとした佐狐の手にぶつかってしまい、お茶が少し俺の手元に掛かってしまった。

「ごめん、大丈夫?熱くなかった?」
「平気だ。自分で拭くから大丈夫だって」

 佐狐の手が優しく俺の手を包む。柔らかくてほんの少しだけひんやりとしていた。細い指先と白い肌に、同じ歳なのにこれだけの差があるものなのか、とついつい見てしまう。ただ目の前でニヤニヤしている男の視線がうざったくて、この状況を早く切り抜けたいのも確かだった。俺の話など聞く耳を持たず拭いてくれる佐狐に、俺は自身の手を拭くものを見て思わず声を出す。

「それ大事なやつじゃねえのか」
「今はそれどころじゃないよ」

 佐狐が俺の手を拭いていたのは、例の大切な人からもらったというハンカチだった。先程それを手に夏油傑の名前を口にしていた、そのハンカチだった。そんな大切なものを、下手したら汚してしまうかもしれないのに、本当に良いのだろうか。そう思う反面、そんな大切なものよりも、俺の方を気にかけてくれたことが嬉しかった。

「そのハンカチ、泉さんが着ている浴衣とお揃いのように見えますね」
「本当だ。なんか大人っぽい柄だね」

 七海さんの指摘で五条先生も俺もようやく気付く。佐狐も今気付いたようで「本当だ」と言っていた。

「これ何の花?」
「確か紫苑ていう花だったと思います。花に詳しい人が言っていました」

 佐狐がこのハンカチは貰い物であることを誰からのものかを伏せて二人に説明していた。すると七海さんがある憶測を口にする。

「贈り物というものには意味があったりするものです。実際、ハンカチは別れを意味しています。ですが、これはその意味よりも、どちらかというと花の方に意味を込めていたようにも感じますね」

 花の方に意味を込めたとなると、花言葉とかそういうもののことだろうか。そういうことにはめっきり疎いせいで、そんな洒落たこと思いも付かなかった。そもそもハンカチを贈ることが別れを意味することすら知らなかったのだ。やっぱ七海さんは物知りだな、とこの時の俺は呑気に聞き流していた。

 だがおそらくこれが、俺の心を突き動かす要因になったのだ。

prev list next