初恋


温泉旅行―肆―


 夜11時―――。三つの布団は五条先生、俺、七海さんの並びの川の字で寝ることとなった。正直五条先生の隣は嫌だったが、七海さんが断固として真ん中は嫌だと言い張ったので仕方なく俺が真ん中で寝ることになったのである。佐狐はもう一つある部屋の方で寝るようになっていた。
 そろそろ寝るよー、と五条先生が言ったのでトイレに行っておこうと部屋から出る。済ませて戻ってくると居間が夜なのに明るかった。月光が差し込んでいたからだった。電気を点けなくてもこんなに明るいのか、と思ってぼうっとそちらを見ると、閉まった障子の向こうに影があった。トイレに行くときには全く気付かなかったその影が、人の形をしていたので、それが佐狐なのだと分かった。
 行ってもいいものだろうか、声をかけてもいいだろうか。そんなことを考えてしまう自分がいた。いつからそんなことを考えるようになってしまったのだろうか。

 しかし、そうやってうだうだしていた俺だが、その影が小さく震えていたことに気付くと考えるよりも先にその障子を開けていた。




「あ、…え、伏黒くん?」

 縁側に座っていた佐狐はやはりたっぷりと目に涙を溜めてこちらを見上げていた。俺は泣いていたということに加えて上から見下ろすとちょうど緩くなった浴衣の合わせ目から普段見えない部分が見えてしまって、思わず視線を逸らしながら口を開く。

「悪い、驚かせたか」
「いやッ、全然…」

 しかし視線をゆっくり戻すと佐狐は目尻の涙を拭きながら視線を落とした。すると今度は晒された頸が目に入り、どちらにしても今の状況では目に毒だと思い「隣、いいか」と断って佐狐の隣に座る。

「ごめんね、もしかして起こした?」
「いやまだ寝てなかったし」
「そっか…」

 いつもより歯切れの悪い会話が何故だろうかと考えたが、それは多分いつもは佐狐の方から色々話してくれるからだ、と気付いた。そう思うと前にもこういう状況あったな、とコイツと会った初日のことを思い出す。学長との面談の後、泣いていた佐狐に俺は何一つ気の利いた言葉をかけてやれなかった。

「何で泣いてんだ?」
「……別に、泣いてなんか、」
「そんだけ泣いておいて、そんな嘘は通用しねえよ」

 こちらを向いた佐狐の頬を濡らす雫を一粒掬う。ほんの少し驚いた佐狐が目を瞑ったが、抵抗することはなかった。そして漸く観念した佐狐が泣きながら笑う。

「ここの旅館の女将さんと若女将さん、私のお婆ちゃんとお母さんなんだよ」
「…なんとなく雰囲気似てるな、と思ってた」
「びっくりしちゃった…。私実はお母さんとはもう何年も会ってなくて」

 俺はその時居た堪れなくなって、佐狐の話を遮ってしまう。

「…悪い。この前、禪院先輩と話してるの、聞いたんだ」
「え、そうだったの?」
「いや盗み聞きするつもりはなかったんだけど、出るタイミング間違えたというか…その、悪い…」
「ううん、全然良いよ」

 じゃあ粗方知ってるね、と佐狐は自分の身の上話を簡単に話してくれた。

「ずっとお母さんのことは憎んでて。あの時呪霊が見える私たちを気持ち悪いって言って捨てた母親をずっと許せなかった。だからもし会うことがあれば、絶対に文句言ってやろうと思ってたの」

 こんなに優しい佐狐が怒っていた。それだけ佐狐の母親は、罪深いことをしていたのだ。そしてそれを救った夏油傑という人間は、それは佐狐たちにとって神にも等しい存在になるだろう、と俺でも思う。

「でもいざ面と向かうと、何も言えなくて」
「………。」

 鼻水を啜る音がした。膝の上で小さな拳が強く握られている。

「実はあの事件がある前に家族で温泉旅行来たことがあってね。その時もお母さんが着付けしてくれたの。だからさっき浴衣着せてもらった時も、そういうの思い出しちゃって…。言いたいことたくさんあったのに、何にも言えなくて…」

 情けないよね、と笑った佐狐の顔は涙ばっかりだった。

「あんなに憎かったのに、許せなかったのに、優しくしてもらった時の記憶が消えないの」

 ずっと分からなかったことがある。佐狐が呪術師にとって裏切り者とされている夏油傑を、好きだというその理由が分からなかった。だが、今その理由が分かった気がする。
 佐狐には夏油傑に優しくしてもらった記憶しかないからだ。

「さっき七海さんがハンカチのこと話してたよね」
「ああ、あのハンカチか」
「うん。私が大切な人から貰ったっていう…」

 正直もうそのハンカチが夏油傑から貰ったものだとは分かっていた。だが敢えて何も言わないでいた。

「あのハンカチね、夏油さんから貰ったの」

 だけど知ってる、とは言えなかった。
 だが、佐狐の口から真実を聞かされたと分かると、また心臓が何者かに掴まれたような感覚に陥った。

「夏油さんって、他の呪術師の人たちからしたら、最悪の呪詛師だろうけど、私には違くてね」

 今にも泣きそうな声を出している佐狐に、俺まで釣られて目が潤んでしまう。

「私にとって夏油さんは七海さんと一緒に私と弟を救ってくれた呪術師で、ずっと憧れてて、大好きで……」

 この前も聞いたのに、また聞かされるのか、と思った。ただ面倒とかそういうことではなく、またあの言いようのない気持ちを味合わなければならないのか、という意味だ。
 佐狐は言いながら再び泣いていた。佐狐という人間は本当によく笑い、よく泣く奴だと思った。

「でも呪術師になるならそういうの全部忘れなきゃと思って。実際真希さんたちは酷い目に遭わされてる、五条先生だって七海さんだって裏切られて、みんな嫌な思いや悲しい思いを背負ってるのに、そういうことを何も知らなかった私が『でも夏油さんはこんなに良い人だったんです』って言うのはおかしいと思って…」
「………。」

 顔を俯けて泣く佐狐の背中を摩る。か弱くて今にも抱えた凄惨で悲しい過去に押し潰されそうだった。

「百鬼夜行の前日、私夏油さんと会っててね」
「ああ」
「あの時このまま夏油さんについて行こうかとも思って」

 嗚咽がどんどん酷くなっていく。これはおそらく五条先生たちにも聞こえてるんじゃないだろうか。

「でも夏油さんが『呪術師になって』って言ったから…っ、ついて行けなくて…ッ」
「そうだったのか…」

 じゃあコイツは夏油傑がそう言わずについて来い、と言っていれば迷わずついて行ったのか?

「それからずっと忘れようとして、ずっと頑張ってきた。思い出さないようにしてきたけど、どうしても上手くいかなくて…っ。百鬼夜行のことも面談の時に知って…、私本当に何にも知らなかったんだって、悲しくなって…ッ」

 相変わらず泣きじゃくる佐狐の背中を摩り続けた。すると少しずつ落ち着いてきた佐狐はスマホを触り始める。

「さっき七海さんが花に意味を込めていたのかも、って言ってたからもしかして、と思って、紫苑の花言葉を調べたの」

 先ほどより随分と落ち着いた声だった。そう言って佐狐は俺にそのスマホを見せる。画面には紫苑の花の説明が書かれていて、俺はその花言葉という項目に着目した。
 
 紫苑の花言葉――追憶、君を忘れない、遠方にある人を思う―――。

「これは…」
「こんなのずるいよね」

 再び泣き崩れた佐狐を見て、恐らく佐狐はこれを見て泣いていたのだろう、と思った。

「忘れなきゃと思って、こっちは一生懸命になってるっていうのに、自分は忘れないなんて、そんなの、そんなの…っ」

 このままじゃ佐狐は本当に壊れてしまうんじゃないか、と不安になった。きっと今まで誰にも言ってこなかったはずだ。一人で抱え込み、そして俺たちのような関係のない人間には、愛想を振りまいていたのだろう。そう思うとこれまで見せてくれていた佐狐の笑顔は全部作りものでそこにずっと悲しみや辛さなどの負の感情を隠していたのかもしれない。それはあまりにも残酷すぎやしないだろうか。

「私、もうどうしたらいいか分からないよ…ッ」

 投げやりに言い放った佐狐の肩を俺は思わず抱き寄せていた。構わず泣き続ける佐狐に俺の頭の中で色んな記憶が巡っている。

 五条先生からは訳ありだと言われていた。護さんは「側から見れば明るい子だけど、言わないだけで抱え込んでる子」だと言っていた。七海さんも「よく笑う子だ」と言っていたけど、彼は多分彼女の凄惨な過去を知る唯一の高専関係者だからこそ、あんな辛そうに言っていたのだ。
 みんなの中での佐狐泉という少女が、今俺の腕の中で崩壊していた。いつも笑顔を絶やさない佐狐が泣きじゃくっている。きっとみんな佐狐のこんな姿知らない。

 この腕の中で構わずに泣き続ける佐狐に、俺は一体何ができるだろうか。
 震える華奢な体を抱き寄せる自分の手に力が籠る。俺は佐狐に一体何ができるだろうか。俺にできることはあるのだろうか。

 そう考えた時、俺は佐狐の話を聞いた当初から思っていたことがあった。

「別に無理に忘れなくていいんじゃねえか?」
「……え?」

 涙を拭いながらこちらを見上げる佐狐は実に素っ頓狂な声を出した。

「母親のことも、夏油傑のことも、お前が覚えてる記憶は全て事実なんだから、忘れる必要はねえだろ」
「でも、お母さんのことはともかく、夏油さんは、呪詛師で裏切り者なんだよ?」
「それがなんだよ。俺はもしお前が俺たちのこと裏切ったとしても、多分それまで一緒に過ごした思い出は忘れねえと思う」

 そう言って、俺今めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってねえか、と思うと顔に熱が集まるのが分かった。見られたくなくてそっぽを向くと、さっきまで鼻を啜っていた佐狐がクスクスと笑う。

「伏黒くんは優しいね」

 長い睫毛が涙に濡れていた。しかしそこにある笑顔は、今まで隠していた悲しみや辛さなどが少しは薄れてきたんじゃないかと思う。

「別に」
「顔赤いよ?」
「赤くねえよ」
「でも私伏黒くんのこと裏切ったりしないから安心してね」
「あれは例え話だろ」
「うん、そうだね。………ところで伏黒くん」

 恥ずかしさも相まって咄嗟に「あ?」と返してしまったが、佐狐が少し頬を赤らめていたので、俺は思わず目を見開いてしまう。

「ずっと、こうしてるのは、ちょっと恥ずかしいかな」

 そう言われて俺はようやく佐狐を抱き寄せていたままだったと気付く。反射的に肩に回していた手を離して「悪い!」と全力で謝った。

「嫌だったわけじゃないよ?むしろ誰かに慰めてもらうのとか、あんまり無かったから嬉しくて、なんか恥ずかしくてね」

 でもありがとう、とはにかみながら言う佐狐に俺の顔はずっと熱が籠ったままだった。

「そうかよ」
「よし!なんか泣いたらスッキリした!明日は観光楽しもうね!」
「ああ。どうしてもキツくなったり、辛くなったら、また俺に泣きついていいぞ」
「…伏黒くん!」

 どこか吹っ切れたような佐狐はありがとうと表情で訴えている。目元は濡れているのに、コロコロと変わる表情に俺は思わず笑ってしまった。

 今まで特定の誰かを心の底から愛するなんてことなかった。そもそも愛だの恋だのに興味なんて無かったのだ。

「ねえ伏黒くん、今日は月が綺麗だね」

 その言葉はきっと文字通りの意味だろう。
 夜空に堂々と浮かんでいる月を眺める佐狐は素直で真っ直ぐな人間だから、夏油傑のような変に回りくどい伝え方なんてしない。

 花言葉は知らなくても、夏目漱石の逸話の話なら知っている。

 月を見上げる佐狐の横顔を見つめた。
 今だから言えるが、初めて会った時俺は佐狐のことを可愛いなと思っていた。これは紛れもない本心だ。
 その気持ちは今も変わらず、それよりもどんどん大きくなっていく一方だったようだ。ずっと自分の気持ちに気付いていたものの認めたくなかったのは、禪院先輩に言われた通り、死んだ人間には敵わないと知っていたからだ。

 だが、もう自分に嘘をつくのはやめよう。

「今ならきっと手が届くかもな」

 俺の初めての恋は、亡くなった初恋相手に今も尚想いを寄せているひとだった。

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