病室はむせ返るような白で埋め尽くされていた。手術が終わった光はずっと眠ったまま白い布団に囲まれていた。泉はずっと光を覗き込んだまま、微動だにしなかった。夏油と七海はそんな泉を黙って見守っていた。

 光の手術が終わる少し前に、母・令美がようやく駆け付けた。護は一際大きな声で「今までどこにいた!?」と怒鳴った。その時、泉は咄嗟に隣に座っていた夏油の制服の袖を力強く握って離さなかった。その姿に夏油は、泉は父親の怒鳴り声に驚いたのではなく、何食わぬ顔で現れた令美に対して恐怖を抱いたのだと分かった。

 護と令美はそのまま医師からの説明を受けるということで未だ戻って来なかった。かれこれもう30分は経とうとしている。泉はその間ずっと光から目を離さなかった。

「ねえ、泉ちゃん」
「なに」

 夏油の問いかけに泉はやはり光を見たまま短く応答する。

「何であんなところにいたんだい?」

 夏油の踏み切った質問には、七海も固唾を飲んだ。その時、泉はようやく光から視線を逸らし、その大きなオリーヴ色の瞳に夏油を映し出した。

「おかあさんが、すぐにもどってくるって言ったから」

 そう言った泉の瞳に再び涙が溜まってくる。泉の言葉に夏油も七海も絶句だった。夏油は自身の立てた最悪の仮定の通りだったと痛感する。
 ぽろぽろと流れ始めたその涙を、夏油の指が優しく拭う。そのまま優しく頭を撫でてやると、泉は泣きたいけれど、泣いてはいけないと必死に我慢している様子だった。

 病室の扉が開くと、中に入ってきたのは俯いたままの護だけであった。七海が「奥様は?」と尋ねると、護はたった一言「知らないな」と言った。その返答は彼らの予想の斜め上であった。

「おとうさん?」

 椅子から降りた泉は護に近付く。すると護は大きな体を泉の身長に合わせるように屈んで、我が子を優しく包み込む。

「泉、本当にごめんな。怖かったな」
「…おとうさん。おかあさんは?」

 泉の質問に護は一粒の雫を真っ白な床に落とした。

「今日からはお父さんと泉と光の三人暮らしだ」
「………っ!」

 この年齢の子にしてはあまりにも勘が鋭すぎるのではないだろうか。夏油たちでようやく理解できたその意味に、泉が気付いたのかは分からなかったが、彼女は一目散に病室を飛び出した。護は呼び止めるが、代わりに夏油と七海が泉の後を追う。

 泉は小さな体を目一杯動かして母親を探した。もう夜になるため、人気は殆どなく巡回する看護師から「走らないでください」と注意を受けたが、泉も夏油たちも構わず走った。
 そしてようやく待合室のソファに一人佇む令美を発見すると、泉は「おかあさん!」と声を出して駆け寄った。令美はこちらに来る自分の娘を、とんでもないものを見るような目付きで睨み付けると、泉が伸ばした手を簡単に払った。

「触らないで」
「…え」

 どういうことか分からなかった泉は、その場に立ち尽くす。そこに追いついた夏油らが到着した。令美は夏油と七海がいるにも関わらず、声を張り上げた。

「気持ち悪いのよ!私に見えないものが見えてるあなたたちが怖い」
「お、かあ、さん…?」
「やめて!アンタなんか私の子どもじゃない。アンタも光も、私の子じゃない。近寄らないで」
「……おかあ、さ…」
「近寄らないでって言ってるでしょ!?」

 壮絶な会話のラリーは令美が泉を突き飛ばしたことで終わる。床に後ろから倒れ尻餅をついた泉は、まるでこの世のものではないものを見るような目付きをしている母親を、母親だった人を見上げていた。すぐに「泉ちゃん」と夏油が割って入るが、泉の意識は令美だけに注がれていた。
 そのまま令美が病院のエントランスへ向かう。泉は慌ててその後ろ姿を見て声を振り絞った。だが、それでも止まってくれない令美に、夏油の手から離れ、必死に追いかける。

「おかあさん、まって!おかあさん!」
「……ッ」
「ちゃんとまってなくて、ごめんなさい!こんどからきちんということ、きくから!」

 そう言って必死に母親を追いかける泉が、夏油らの目にはあまりにも残酷に映った。夏油たちくらいになると、ああなった人間を取り戻すことはできない。もう元通りにはならない、と諦めてしまうところだが、まだ不条理を知らない泉は、諦めという言葉を知らなかった。
 全く泉を振り返らない令美に対し、夏油は殺意さえ芽生えていた。七海もまたあまりにも酷い行いに、他人であるにも関わらず感情移入してしまっていた。だが泉だけはまだ、母親を信じていた。

「おかあさん、もう置いていかないでぇ…っ」

 エントランスに響いたのは泉の悲痛な叫びと泣き声だった。令美は一度たりとも泉の方を振り返らず、暗闇の方は歩いていく。
 その背中をどこまでも見つめていた泉だったが、ついに見えなくなるとその場に泣き崩れる。呪霊に襲われている時でさえ、声を抑えて必死に気張っていた少女が夏油たちの目も憚らず、わんわんと泣いた。

 あまりにも酷すぎる仕打ちに夏油の心は張り裂けそうだった。今日会ったばかりの、全然知らない子ではあったが、彼女は年齢の割に賢くて、強い子だと分かった。だからこそ、そんな子にここまでの仕打ちをする必要があるだろうか。どんな事情があったにせよ、この行いは泉の一生のトラウマとなるだろう。そう思った夏油は、昨年の天内理子の一件を思い出す。死んだ理子の遺体を見て、笑顔で拍手をし続ける非術師たちが頭の中を埋め尽くした。
 夏油は泣きじゃくる泉を無意識に抱き寄せていた。そして護がしていたように優しく背中を撫でた。泣きじゃくっていた泉はやがて落ち着いてくる。すると夏油はゆっくりと自分から泉を剥がして、しっかりとその目を見た。潤んだオリーヴ色の瞳に自分の顔が映っているのを確認すると、夏油は優しく笑う。

「泉ちゃん、大丈夫。私達は君の味方だ」

 そう言うと泉は再び泣き始めた。今度は泉の方から夏油に抱きつく。まるで母親に甘えるように夏油に自らしがみ付き、彼の制服を濡らすことも憚らず、年相応の子どものように泣いていた。




 佐狐護は元々呪術師だった。都立の呪術高専を卒業した後、数年は呪術師として活動をしていたが、ある時出会った令美に運命を感じ、意気投合した二人はそのまま勢いで付き合いを始め、婚約までもあっという間だった。しかし、結婚の際に令美の両親から申し入れがあった。令美は非呪術師の家系で親族は誰一人として呪霊は見えない。それ故に護の仕事がとても世間とかけ離れていると感じた両親は、呪術師を辞めることを条件に結婚を了承した。当時、特段呪術師にこだわりを持っておらず、ただ令美を護れるのであれば、と快諾した。

「今となってはそれが間違いだったと痛感するよ」

 その後穏便だった結婚生活ではやがて一人女の子を授かり、翌年にはもう一人を授かった。この辺りから歯車が狂い始めたのだ。
 産まれた子にはどちらも呪力が備わっていた。令美には見えないものが見えると言う子どもたちが、令美には恐怖でしかなくなり、彼女は現実逃避をするように家族への愛情を別の人間に向けた。

「他所で別の男を作ったんだと。相手には結婚を隠していたそうだ。自分に子どもがいるとなると、向こうに行くにしても、俺との離婚の弊害になると思った。だが自分の手で殺める勇気はなかった。だからあの呪われた峠に置き去りにしてきたそうだ」
「…そんな、独善的な理由で…?」

 白い部屋で護の悲痛な語りが終わると、七海はそう言って眉を潜めた。
 あの後、泉は疲れ果てて夏油の腕の中で眠ってしまった。泉も念のため入院の指示が出ていたようで、二人部屋である光の病室の空っぽだった方のベッドには健やかに眠る泉がいた。

 夏油はそんな泉の額を優しく撫でる。規則的な寝息は、自身の負の感情を中和させていったが、少なくとも令美への感情は消えていなかった。

「だから猿は嫌いだ」

 ちょうど護や七海に背を向けていた夏油の言葉は、彼らには届いていなかったらしい。七海が「何か言いました?」と尋ねると、夏油は声色を変えた。

「これからどうするつもりなんですか?」

 護に尋ねると、彼は草臥れたスーツを着崩して「呪術師に戻るさ」と言った。

「泉や光が、これ以上辛い目に遭わないように、親としての責務を果たす」

 護は病院に駆けつけた時よりも更に憔悴しきっていた。
 果たして、呪術師の道に戻るという意思が、本当に正しいのか、夏油は泉の寝顔を見るとすぐにその答えが出せなかった。




 その日、夏油と七海は仙台市内のホテルに一泊することとなっていた。呪われた峠の呪霊は討伐しているが、その近辺にも呪霊の広がりが認められていたため、任務自体が数日間と決められていたのだ。
 病院からホテルに帰るその道は、とても静かなものだった。元々お喋りではない七海だったが、今日は殊更静かだった。
 もう時刻は22時を回ろうとしていた。ホテル近くのコンビニで適当な食事を買って、公園を傍目に二人は無言のまま歩き続けた。

「元々、恋愛だの結婚だのに、夢や幻想を抱いていたわけではありませんが」

 普段自分から話を持ちかけることのない七海が、珍しく暗闇に溶けた静寂を切り裂いた。夏油は彼の言葉の続きを待つ。

「少なくとも、家庭を持つことに猜疑的になりそうです」

 その言葉に夏油の脳内には、泉が泣きながら母親に縋るあの心臓を踏み躙られるような光景を思い起こされた。

「そうだな」

 おそらく七海の脳内にも泉の言動が繰り返し繰り返し再生されている。立ち止まった七海を置いていくように、夏油は言い放った。

「だから嫌いなんだ」

 彼の脳内にはあの忌々しい拍手の喝采が鳴り響いていた。遺体を抱える五条悟は、どこか吹っ切れたような表情をしていて、彼は悟の表情を見た時に、そして悟の背後で馬鹿みたいに拍手を続ける猿共に、吐き気を催した。
 そして今日、また同じ感情を抱いた。悟と天内理子が泉に、そして拍手喝采をする愚かな猿は令美にすり替わった。

「猿共は」

 夏油の口から直接誰かの耳にその言葉が入るのは、これが初めてだったのではないだろうか。七海は普段の夏油から想像のつかない憎悪に塗れたその言葉を、ただただ聞き流すことしかできなかった。

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