大事件
―――初夏。
春の心地良い陽気からだんだんと汗ばむ季節。呪術師にとって繁忙期ともいえるこの時期は任務をこなせどこなせど舞い込んでくる。座学はもちろんだが、実際の任務に出向くことも多くなった。任務の際は当たり前のように俺と佐狐はペアになる。そしてそれは今日も今日とて同じこと。
その日は二級呪霊の討伐任務だった。単独での任務が許されている俺に佐狐が同行する形となる。補助監督の伊地知さんと共に呪霊のいる廃墟ビルに向かい、討伐任務自体は難無く終了した。
「やっぱり伏黒くんの術式は強いね」
「そうか?」
「うん。同じ式神使いとして尊敬するよ」
佐狐の発言はお世辞などではなかった。前々から俺の術式に興味を持ち、そしてその都度「私も負けてはいられない」と自分自身を鼓舞していた。俺は佐狐のそういう前向きなところも良いところだと思う。
伊地知さんに任務の終了の旨を伝えるべく連絡をすると、伊地知さんの方からも伝言があった。
「五条先生も近くであった任務が終わったみたいで、今そっちの方の迎えに行ってるそうだ」
「じゃあ少し待ってなきゃだね」
四階建ての廃墟ビルの屋上は太陽の光と風が心地良く感じられた。真っ青な空を見上げていた佐狐を見て、俺は思わずその横顔に見惚れてしまう。その横顔はあどけなさこそ残るものの、まるで丁寧に施された彫刻のようで俺の本音はもう喉元のすぐそこまで出ていた。
「そういえばこの前はありがとうね」
そんな俺の考えを見透かされそうなほど、真っ直ぐな瞳がこちらを見ていた。そしてにっこりと微笑む佐狐のたった二つの言葉だけで、彼女が何のことを言っているのか分かってしまう自分が嬉しかった。
「いや全然。俺にも弟ができたみたいで楽しかった」
温泉旅行の時言っていた光くんとの電話の件のこと。俺たちが帰ってきた翌日くらいに、佐狐の実家に荷物が届いたらしく、護さんと光くんから連絡があったらしい。そして買ったのが俺だということを伝えると、光くんがぜひお礼が言いたいということで、急遽電話を代わってもらったのだ。
「光も同じこと言ってたよ。お兄ちゃんができたみたいでうれしいって」
「そりゃ良かった」
電話ではとにかく色んな話をした。光くんの今の状況だったり、佐狐のことについてだったり。やっぱり佐狐が東京に行ったことは寂しいみたいだが「姉さんが自分で決めたことなら何も言えない」と言っていたのがとても印象的だった。まるで、光くんは光くんで何か思うところがあるような言い方だったのが引っかかっていたのだ。
「声とかやっぱ似てるな」
「え!?そう?」
「喋り方も似てる気がする」
「そうかな?あんまり意識したことなかったから分かんないや」
そう言って嬉しそうに笑う佐狐につられて俺も頬が緩む。もう何回目か分からない。佐狐と話していると、佐狐が笑うのにつられて一緒になって笑ってしまう。佐狐の笑顔は人に伝染させる魔法のような何かなのだろうか。
そろそろ下で待機していようと、廃ビルの屋上から降りることにした。散らばったガラスや風で舞った土などが歩くたびにじゃりじゃりと靴底を刺激する。当然階段での下りになるわけで足元には細心の注意を払っていた。もし佐狐が体勢を崩しても何とかなるように俺が前を歩いていた。
一階の出入り口から光が差し込んでいるのが分かると同時に暗かった足元も少し歩きやすくなった。
―――と思いきや。
「お、っ!…ってぇ」
光が差し込んで足元が明るくなったから余計に分かった。上げた足を下ろす直前、瓦礫がいくつか積み上がったせいで変な窪みが出来ていたこと。そしてそこに足を下ろしてしまったこと。当然バランスを崩した俺の体はこのままだと頭を直撃すると思い、辛うじて受け身を取ったものの勢いよくこの薄汚い地面に叩きつけられて痛くないわけがなかった。肘から手首にかけてがじんじんと痛む。しかし、そんなことどうだっていい。佐狐が体勢崩したらとか言ってたくせに、真っ先に自分が転ぶとか、しかも好きな女の子の前で。クソ恥ずかしすぎて「大丈夫!?」と声を上げた佐狐に返事ができなかった。
しかし、後になって考えれば、俺がこの時ちゃんと返事をしなかったのが悪かったのだと思う。
「伏黒くん!大丈夫!?すごい音したよ?」
佐狐が大股で瓦礫や硝子の破片に気をつけながらこちらにやってきた。せめて身体を起こそうと体勢を変えていた時である。返事をしない俺にひどく不安に駆られた声が響いた。やけに近くで響いたその声は中途半端なところで途絶えたのだ。
「う、わぁッ」
「おい馬鹿ッ!」
佐狐は俺と全く同じ場所で足を挫いてしまったらしい。俺が仰向けになったときには既に佐狐が宙に舞っていた。咄嗟に出した腕は、佐狐を受け止めようとしたものだった。これは本当だ。しかし佐狐が体勢を崩したその角度が少しまずいと思ったが、とにかく俺がクッション代わりになるしかないと、本当にそう思っていた。
―――だから
「ン!?」
「んむっ…!?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。
ただ眼前に見覚えのあるオリーブ色が広がっている。
ひとまずこの体勢をどうにかしないと、と思い左手を動かすと、今まで感じたことのない柔らかさがあった。何だこれ、俺は一体何を触ってるんだ、と頭が真っ白だった俺は、考えるよりも先に掌でそれを弄っていた。よく考えればそれが佐狐の胸であることくらい簡単に分かることだった。
「んっ、ふし、ぐろくん…っ!」
視界からオリーヴがゆらりゆらりと離れていってからようやく、俺と佐狐は今唇が重なっていたのか、と分かった。状況を飲み込めずパニックになっていた俺だったが、ようやく断片的な状況を掴み理解できるようになってきた。
佐狐は今までに見たことないような表情をしていた。「擽ったいよ」と俺の手首を掴む細い手を見て、俺は自分の手が佐狐の胸をガッツリと掴んでいたことに気付く。それも上着の隙間から手を忍ばせている状態だった。
「は…!?」
「あ、あの伏黒くん」
全身から血の気が引く。俺は今全てを理解した。自分の情けなさに反吐が出るとかの騒ぎではない。
俺はもう一度頭の中でリプレイする。俺が転び、心配した佐狐が声をかけて来てくれたところまでは良かった。しかし、俺が体勢を戻すのと、佐狐が俺と同じところで転んだそのタイミングがまずかったのだ。
俺は好きな人の前で真っ先に転ぶという醜態だけではなく、同じく転んだ佐狐と事故とは言えキスをしてしまい、良かれと思って差し出した腕は彼女の胸元を弄るという、全てが悪い方向に働いてしまった結果に陥ってしまったのだ。
更に悪いことは続く。
「あらぁ?お楽しみ中だった?」
そう、もう出入り口からの光が差し込んでいたのだ。だから当然物音がすれば出入り口にも聞こえるはずだった。
瞬時に俺は手をバッと下げる。佐狐はびっくりしていたが、声の主は腕を組んで俺たちを見下ろしていた。その口元は心底面白いと言わんばかりに歪んでいる。そして彼の後ろから控えめにこちらを見て赤面している伊地知さんが居て、ああこれもう詰んだ、と思った。
「ち、違います、これは…っ」
「ごめんね、伏黒くん!重かったよね!?」
この状況でまさか二人の意味深な視線を掻い潜り俺の心配をしてくる佐狐に俺は「あ?」と思わず強い声が出てしまう。それは本当に怒りとかそんなことではなく、俺自身も状況が最悪だと思っているからこそ余裕がなくなっている証拠だった。
「やっぱり重かったよね、ごめんね!手とか痛かったんじゃない?」
「…ッ馬鹿、違ぇだろ…っ!」
あくまでも俺の心配をしようとさっき佐狐の胸を触っていた俺の手を見る佐狐に、俺は顔面から火を吹くのではないか思うほど熱くなった。そんな顔を見られたくなくて、顔を両手で覆う。
俺はこんなに心配してくれている佐狐のことを―――。
不意に蘇るあの表情。俺が知らずに胸を触ってしまい唇同士が離れた時、垣間見えた佐狐の表情。いつも柔らかい表情の佐狐がほんの少しだけ顔を顰め、悶えるような顔だった。声もいつもより色っぽくて、変に吐息なんか混ざっていたから、なんか変な錯覚を起こしてしまった。
佐狐ってあんな顔するのか。あんな顔、他の奴にもしていたのだろうか。いつも無邪気に笑ってる顔をよく見ていたから、まるで別人のようでびっくりしたのはもちろん、つい見入ってしまった。
俺はあの時、佐狐の女としての部分を、見てしまったのだ。
そう思った時、俺は佐狐を押し退けて、五条先生たちに背を向けるように座った。佐狐はびっくりしたようで俺に声をかけていたが、今は「大丈夫だ」としか言えなかった。
その後佐狐が五条先生と話しているのが背中で分かると、俺は視線を下に落とす。そしてため息を漏らした。
「クソ…ッ、マジでねぇわ…」
背後の会話が少し聞き取れた。先に佐狐を車に乗せることになったようだが、佐狐が俺のことを尋ねると五条先生は「今は少し放置しないと」という言い方をしたので、佐狐は「どういうことですか」と更に訊いていたが、それは伊地知さんが上手くフォローしてくれていた。
人気が無くなった頃にようやく俺の方の籠っていた熱が引いていく。
俺はこれからどんな顔をして佐狐を見ればいいんだ。
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