ファーストキス


 俺は、橙色に晒された掌を見つめていた。
 掌には未だにしっかりとあの感触が残っていた。その瞬間、佐狐のあの表情が蘇る。するとすぐに俺の中心が再び熱を帯びる。どうしようもない欲情に駆られながら、俺は昼間の出来事を思い返した。



 まともに皆の顔を見ることができない俺に相も変わらず優しく声をかけたのは佐狐だった。

『大丈夫?痛いところない?』

 自分のことよりも他人のことばかりだな、と思う。罰が悪い俺はそっぽを向いて「ああ」とだけ返事をして車のそばにいる佐狐と五条先生の前を横切って既に運転席で待機している伊地知さんの隣に座った。隣からは驚いた目がこちらを見ているようだったが、俺は誰とも視線を合わせられなかった。
 佐狐たちも乗車すると、車は高専に向かって一直線に走る。車内はほとんど五条先生が喋っているだけで、佐狐や伊地知さんはそれに相槌を打つ程度だった。俺だけが全くその会話に合流せず、ただ流れていく景色を眺めているだけだった。

 情けない。好きな子とアクシデントでキスをしてしまった上に、これも事故とはいえ胸を触ってしまい、挙句欲情するなんて穴があれば潜り込んで一生出てきたくない。しかもそれをバレたくない一心で突き飛ばしてしまい、恥ずかしさのあまりまともに目も合わせられない、謝罪の一つも言えない、こんな情けないことあっていいのだろうか。

 そんなことを考えることはいくらだってできるのに、どんな顔して向き合えば良いか分からずに、当の本人とは目も合わせられず、高専に着くと俺は即行で自室に戻ってしまった。

 部屋で何をするわけでもなく、ただぼうっとしていた。というか何をしても、集中できなかった。当時の出来事がスローモーションで何度も何度も脳内で上映される。そしてその度に欲に負けそうになる自分がいた。


 窓の外はあっという間に橙色に染まっていた。もうそんなに時間が経っていたのか。ぼうっとする思考と視界は、おそらく寝落ちしてしまっていたせいだろう。

 そして冒頭に至る。

 流石にこんな夕方から一人で慰める気分にもなれず、スマホを適当に眺めていた。そのうち熱も治り、スマホの時事ネタに目を滑らせていた時である。
 ドアの向こうから「恵ー?いるでしょー?ちょっと出てきてー」という声がした。五条先生の声だと分かると面倒臭いし狸寝入りしようかと思ったが、ドアの向こうで五条先生がもう一人と話している声がしたので、起き上がり一応服装と寝癖のチェックをしてドアを開けた。

「あ、もしかして寝てた?」
「はい、まあ…」
「今日の任務の報告書、ちゃんと提出しなよ?」
「分かってます。用はそれだけですか?」
「いや、実はね」

 五条先生がそこまで話すと彼の後ろからひょっこりと顔を覗かせた佐狐がいた。ほんのりと赤らんだ顔がこちらを見ている。いやいると分かってはいたが、実物を見ると心臓がギュッとなるのは心臓に悪い。あれ、なんか日本語がおかしくないか。

「伏黒くん、寝起き顔だ」

 そう言って悪戯に笑う佐狐に俺はまたしても恥ずかしいと思う反面、こんなことで笑ってくれる佐狐に気持ちが止まらなかった。すると五条先生がゴホンとわざとらしく咳払いをして「本題に入るよ?」と口元を緩ませていた。

「実は急で一件任務が入ったんだけど」
「五条先生とですか?」
「いや今回も恵と泉で行ってもらおうと思ってる」
「…そう、ですか」

 二人での任務は、嬉しいはずだった。いや任務で二人きりであることを喜ぶのは違うと思うが、単純に佐狐との時間が増えるということに変わりはない。だが、今日のことを考えてしまう。任務に必要ない余計なことを考えてしまうのだ。

「ちなみに遠方任務だから数日間泊まり込みね」
「遠方?どこですか?」
「宮城県仙台市」
「仙台市…」

 繰り返して佐狐を見ると、佐狐はやはり目をキラキラさせていた。

「私の地元に近いところなんだって!移動は任せてね」
「いや任務自体も頼む」
「あ…そだね」

 ふにゃりと笑った佐狐に俺も思わず頬が緩む。しかし目の前に五条先生がいることを思い出して、すぐに顔が強張るのが分かった。恐る恐る五条先生を見上げると、目隠しをしていても顔のニヤつきを抑えられていないことが充分に分かった。

「その任務の詳細話すからちょっといい?」

 だがあくまでも教師として接する五条先生に今は感謝だ。

 共同スペースで任務の詳細な説明を受けることとなり三人で移動した。

 仙台市内にあると思われる特級呪物の回収。それが今回の任務であった。この特級呪物は呪いの王と称される両面宿儺の一つであるらしい。特級呪物の場所や近辺の地形についての情報など既に開示されているものを教えてもらい、任務の概要は把握できた。本来であれば俺単独でも問題ない任務だが、佐狐が同市内出身で土地勘があることから二人で任務に当てられたらしい。

「杉沢第三高校…」
「泉の地元だから学校名も知ってるよね?」
「はい、多分幼馴染が行ってる学校です」
「へえ、幼馴染か。ちなみにその子は"こっち側"じゃないよね?」
「はい違います」
「じゃあ必要最低限のことは喋らないでね。まあ基本的にはその学校に潜入はするけど、他の生徒との接触は控えてもらうから…」

 五条先生が説明をしている時、申し訳ないが俺は別のことを考えていた。まだ温泉旅行に行く前のこと。確かあれは真希さんたちと話していた時だ。佐狐が電話をしていた時に幼馴染の男の名前を呼んでいた。確かユウジという名前だったはずだ。
 こんな巡り合わせあるだろうか。佐狐の幼馴染が通う高校に特級呪物があるだなんて。まあ五条先生の言う通り在校生との接触は無いため、その幼馴染とやらの顔を拝むこともないだろうが。いやしかし佐狐の方は久しぶりだろうから挨拶くらいするだろうか。潜入中でなくとも、任務の前後での時間はいくらでもあるだろうし。

 脳内では佐狐が顔も知らない幼馴染のユウジという奴と会って話すところが鮮明に描かれる。
 なんだろうか。ひどく胸がもやもやとしている。

「じゃあ明日から行ってもらうから、二人とも今日中に準備しておいてね」
「はい」

 他の生徒と接触はしないように、とは言っても幼馴染ということであれば連絡くらい取るだろう。この間だって電話していたのだ。普段からそういう連絡を取り合える仲だということだろう。幼馴染ってそういうものなのだろうか。
 その幼馴染ともこんな風に少し頬を染めて、はにかみながら話すものなんだろうか。

 五条先生と佐狐はまだ何か話しているが俺の思考はそこから少しずれる。あの赤らんだ顔を見てしまうと、どうしたって俺の脳内は昼間のことで埋め尽くされた。流石にこんなところで反応をさせまいと必死だったが、掌に残った感触は何を触っても拭えなかった。

「恵?聞いてるー?」

 この時の俺は本当にどうかしていたのだろう。やはり昼間の混乱から抜け出せていないようだ。五条先生の問いかけを充分に聞いてなどいなかった俺が悪い。

「…柔らかかったな」
 
 テーブルの上に曝け出されていた自分の掌を何度か動かす。それはまるで掌に収まるものの感触を確かめるような仕草だったろう。
 俺はやけに静かになった目の前の二人に、ようやくふわふわしていた意識を取り戻す。そして今己が取った行動を理解した瞬間、顔を上げるとそこにはさっきとは比べ物にならない程顔を真っ赤にした佐狐がいた。
 こんなに恥ずかしがる佐狐って、結構珍しいのではないだろうか。…いや、そうじゃねえだろ。

「伏黒くん!?」
「い、いや…これはその…」
「恵、それは流石の僕でもフォローできないよ」
「いや…あの、マジで…」

 まるで林檎のように真っ赤に熟れた佐狐はそのままガタンと椅子から立ち上がる。あ、これは本当にマズイかもしれないと、謝罪を入れようとするも、それは彼女が口を開いたことにより阻まれてしまった。

「私だって恥ずかしかったんだから!」
「……え」
「事故とはいえあんなことになっちゃったの…!」

 なんかすごく語弊があるようにも感じられるが、五条先生には見られてしまっていた訳だし訂正するのはやめておこう。というより、正直こんなに可愛いことしている佐狐をもっと見ていたかった。そんなこと言ったらもっと怒るだろうか。

「ふ、伏黒くんは、なんか旅行の時も女性慣れしてる感じあったから、初めてじゃないかもしれないけど、私、全部初めてだったんだから!」

 …ん?

「でもそんなの伏黒くんには関係ないから、一生懸命いつも通りにやってたのに!ひどいよ、伏黒くん!」

 思っていたよりも論点がズレていると感じたのは俺だけではなかったようだ。佐狐の隣に座っていた五条先生は佐狐にバレないように肩を揺らしている。
 そして初めてだったんか、とホッとしている自分がいた。いや、ホッとしている場合ではなくないか。

「伏黒くんのバカ!」

 俺が弁明する間も無く佐狐はそのまま走って行ってしまった。これはマズイと思いつつ、どんな顔して追いかければ良いかも分からず立ち上がったはいいものの、俺はその場に立ち尽くしてしまう。

「ブッハッハッ!恵、もうちょっとデリカシー持とうよ」
「アンタに言われたくはないです…」
「いやあ、でも僕が恵と同じ状況になっても、無限あるからあんなことにならないし」

 確かに。ぐうの音も出ず、俺はその場で深いため息を漏らす。「それよりさ」と五条先生は先ほどとは打って変わり真面目なトーンになった。

「恵も初めてだよね?」

 そう言われまたしても俺はぐうの音も出ない。そう俺も初めてだったんだ。あんな風に泣いている女性を抱き寄せるのも、慰めるのも、キスをするのも。そして、誰かを好きになること自体、全てが初めてだったんだ。
 俺は佐狐のことを好きだから良いのだ。だが、佐狐はどうだ。まだ夏油傑に未練を持っている佐狐からすると、ファーストキスがただの同級生の俺だというのはあまりにも可哀想なのではないだろうか。
 思わずその場に崩れるように再び腰掛ける。本当になんてことをしてしまったんだ、と後悔していた。


 その後、顔を真っ赤にした佐狐に遭遇した禪院先輩が般若のような形相でやって来て、その後ろには何やら面白そうなことになってるなと言わんばかりの顔つきでパンダ先輩と狗巻先輩がついてきたのであった。

第二章「最愛」完


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