父親


 虎杖悠仁は俺が思っていたよりも数倍も良い奴だった。
 それは今日初めて会った俺自身もそう実感したし、五条先生の手によって倒れた虎杖を支える先生自身も言っていた。そして何より護さんが眉間に皺を寄せて、悔しそうに歯を食いしばっていたその様子がそのことを物語っていた。護さんは誰にも聞こえないくらいの声で小さく呟く。

「悠仁くんはこっち側じゃないのに…」

 護さんのその声がやたらと歪に俺の耳にだけ届いていた。



 尋ねた結果特級呪物は現在虎杖が所持しているのではなく、彼の先輩たちが持っているとのことだった。そしてその呪物の札を剥がすと聞いたので俺たちは慌てて学校へ向かった。
 しかし学校では既に呪物による呪霊が暴れており、護さんが対応していたので、俺もそこに加わった。そして待っていろと言っていたにも関わらず、乱入してきた虎杖のおかげで危機を回避できたものの、彼は戦闘の最中、俺や護さんの制止を振り払い両面宿儺の指を食ったのだ。
 結果、受肉した両面宿儺だったが、彼は虎杖の肉体に受肉しつつも、虎杖自身の意識もあった。肉体の主導権は恐らく虎杖の方にあるらしい。そしてその頃五条先生が現れ、状況の説明をしたのち、本当に主導権が虎杖悠仁にあるかどうかを確かめた後、彼を気絶させた。
 
 そして冒頭に至る。

 カツカツと歩み寄ってきたのは、虎杖を支える五条先生ではなかった。視界に入ってきたしっかりとした骨格の掌には少し傷が付いていた。「立てるか」と簡素な声が降ってくる。護さんは何とも言い難い表情をしていたが、その顔は俺を見てはいなかった。

 彼を父親のように見てしまう自分がいた。それが顕著に現れたのは、佐狐の術式についての説明をしてくれたあの日。
 だがそれは俺の思い上がりで、彼は俺の父親でもなんでもなくて、娘の同級生という風にしか捉えられていないのだろう。その視線は虎杖に注がれていた。それは俺が今まで感じたことのない父性に溢れた眼差しだった。護さんにとっては虎杖悠仁もまた自分の息子同然なのだ。
 俺は護さんの手を視界から外した。

「大丈夫です、一人で立てます」

 俺の父親じゃない。勘違いしてはいけない。そう自分を奮い立たせるために。

 五条先生の腕の中で意識を失っている虎杖悠仁は確かに良い奴だった。間違いなく善の人間。なのに俺は彼に対して例えようのない感情を抱いている。その感情にちゃんとした名前があろうとなかろうと、どうでもいい。
 言い表すとしたら、俺は俺が欲しいものを持っている虎杖悠仁がただただ羨ましかったのだ。



「悠仁くん、今回の件は完全に俺の力不足だった。本当にすまない」
「いやいやいやおじさん頭上げて!俺割とへっちゃらだしさ!ほら元々体も強ぇし!」

 虎杖悠仁は死刑執行が決まったがそこに無期限の猶予がついた。宿儺の指に耐えられる器となり得る人間など今まで誰一人として想像してこなかった。そこで五条が現存する全ての宿儺の指を取り込ませてから処刑を、と提言したためこのような取り扱いとなったのだ。
 そのことを全て踏まえた上で、護は遺骨を骨壷に収め終えた悠仁を見るなり頭を下げた。

「つーかあん時聞く余裕なかったんだけど、おじさんって呪術師なの?」
「ああ、そうだ」
「サラリーマンは?やってねえの?」
「今はやっていない。昔はサラリーマンというか営業を少ししていただけだ」
「マジか。じゃあちょっと待って、泉は?あいつもおじさんや伏黒と同じことしてんの?」

 二人の会話からするにやはり日常的に関わりがあった人間同士のやりとりであることが窺えた。そのことが恵の心臓をチクチクと突いていた。

「そっかー。まああいつ昔から幽霊見えるとか言ってたもんなぁ」

 幼馴染が実は呪術師という道を歩んでいたことに驚いていたものの、然程の衝撃は受けていなかった悠仁に、護は更に続けた。

「ただ泉に呪術師をさせるつもりはない。ある程度の知識をつけさせたくて学校には通わせてるだけで…」
「護さん、それマジで言ってます?」

 そこに入ってきたのは五条だった。少し驚いた様子の声色に、恵もそのやりとりを見入ってしまう。

「当たり前だ。呪術師なんて陰鬱で凄惨な道、誰が子どもたちに背負わせたいと思う」

 護がそんな風に思っていたとは知らなかった恵は、言葉が出なかった。恵は呪術師になるべくして高専にいる。彼が呪術師になるのは姉のためでもあった。皆それぞれ色んな理由があって呪術師を目指している。そして恵は泉が何故呪術師を目指すのかを知ってしまっている。

「実際陰鬱で凄惨ですけど。悠仁はこれからその道に進むんですし、彼らの前でそういうことは…」
「でも佐狐は頑張ってますよ」

 恵は自分が今何をしたのか理解するのにこの中で一番遅かった。皆の目が恵を捉えていることを見て、ようやくやらかしたと思ったのだ。

「え、何何?伏黒って泉と仲良いの?じゃあ東京も高専も超安心じゃん」

 この微妙な空気を打ち消したのは虎杖悠仁だった。こんな場所に似つかわしくない笑顔を浮かべていた。

「泉って超良い奴だから、その泉が信頼してる奴いるなら安心できるな!」

 少し趣旨とずれているようにも感じた悠仁の発言だったが、恵はその言葉が嬉しくて仕方がなかった。恵の発言から、自分よりも明らかに長い時間を共にしてきたであろう幼馴染の悠仁に、恵が泉から信頼されていると解釈してもらえたのだ。

「まあ高専自体は楽しいとこだから、人数は少ないけど」
「俺のことって、まだ泉には伝わってない?」
「うん、まだ言ってないよ」
「じゃあ高専に行くまで黙ってよ。サプライズしてやろうっと」

 悠仁はそう言って護の方を向き「おじさんも言っちゃダメだよ」と歯を見せた。護はやはり何とも言えない表情でいた。

「大きなお世話かもしれないですけど」

 五条は改めて咳払いをすると、護に話しかけた。

「佐狐家は呪術界との関わりを絶っていたとはいえ歴史のある名家です。今後のことについてはしっかりと話し合うべきかと。一族の方針や現当主の護さんの意志をハッキリと示すことも大事なんですよ」
「……五条家の人間に言われると、嫌味に聞こえるな」
「うちはもう僕が生まれた時点で諸々が決まっちゃってますから。でも佐狐家は違う。ちゃんと話し合ってください。そして泉の意見も聞いてあげてください」
「…泉の意見?」
「あの子温和で穏やかに見えるけど、内心ではしっかり物事を考えられる強い子ですよ。担任の僕が言うんですから間違いありません」
「…そうか」

 護は元来よりとても不器用な人間だった。人との向き合い方などには滅法弱く、それこそ恋愛なんて苦手なタイプの人間だった。この不器用さは家族になっても、父親になっても変わらなかった。妻がいなくなり、一人で子どもたちを養っていかなければならない状況になると尚更、泉や光にどんな風に接していけばいいか分からなくなった。ただ子どもたちにこれ以上辛い思いをさせまいと必死になっていた結果、コミュニケーションという一番大切なことを忘れかけていたのだ。

「今度、きちんと話し合ってみよう」

 そうは言ったものの、やはり護は前向きにはなれなかった。娘をどうしてもこの世界に踏み込ませたくなかった。今ならまだ引き返せる。まだ学生のうちなら何とかなる。そう思いながらも五条の助言も受け取ったのだ。

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