意志


 翌日、泉は太陽の日差しがたっぷりと入る病室で、朝からずっと光を覗き込んでいた。看護師が朝食を持ってきても自分から食べようとはせず、強く促されてようやく自分のベッドに戻り食べ始めた。しかし食べ終わるとすぐにまた光のもとへ行く。昼もそれを繰り返し、全く起きる気配の無い光を見つめていた泉は、部屋に入ってきた人物にも気付かない程、光に没頭していた。

「泉ちゃん」

 父親でも看護師でもない声に、勢いよく振り返ると、そこには昨夜自身の命を救ってくれた恩人たちの姿があった。「こ、こんにちは!」と戸惑いながらも昨日よりはいくらか元気な声に、夏油と七海はほんの少し安堵する。
 すると泉は座っていた椅子から一生懸命に小さな手足を使って降りると、夏油と七海の横を通り抜け、窓際に立て掛けられていた来客用のパイプ椅子のもとまで駆け寄った。そしてそれに手を伸ばしかけた時、七海は彼女がそれに触る前に泉の小さな肩に手を置く。

「危ないですよ」
「…でも、せっかく来てくれたから…」

 止められてしまい、少ししょんぼりとする顔を見た七海は少し言い方がきつかったか、と後悔する。相手は自分の同級生や一つ二つ年下の後輩などではなく、まだ小学生にもなっていない子どもなのだ。体格差のせいでもあるが、まるで虐めているように見下ろしてしまっている気がして七海が困っていると、穏やかな短い笑いが聞こえた。

「私たちはこのままで大丈夫だよ。だから泉ちゃんはこっちにおいで。光くん見ててあげな」

 助け舟を出してくれた夏油に救われた七海は、気まずそうに夏油を見ると、彼は昨夜のあの発言なんてまるで無かったかのようにいつもの夏油傑であった。
 泉が椅子に座るのを手伝ってあげた夏油は、彼女の少し照れたような緊張したような表情で「ありがとう、ございます」と小さく言った。そして再び視線を光に戻す。その様子から体の怪我自体は擦り傷程度で済んでいたようで、然程深刻なものではないらしい。それは不幸中の幸いだった。
 すると泉は何か思い出したかのように、夏油と七海を見た。

「あの、おとうさんなら、今しごとに…」
「ああ、私達はお父さんに用があって来たんじゃないよ」
「ならどうしてここに?」

 頭をこくりと傾げる仕草がとても愛らしく彼らの瞳に映る。どこか慈愛のような気持ちが芽生えそうな彼女の頬にはやはりまだガーゼが施されたままであり、それを認識した途端に彼らの心にどろりとどす黒い何かが流れ込んだ。

「君たちの様子を見に来たんだ」
「わたしたちの?」
「そうだよ」

 夏油は屈んで椅子に座る泉との視線を合わせると、自分の掌にすっぽりと収まってしまいそうな泉の頭を優しく撫でた。すると、ほんのりと瞳を潤ませた泉は、そのまま心中を語った。

「わたしと光は昔からゆうれいが見えていて、おとうさんもそうだった。でもおかあさんは違った。これからおとうさんはゆうれいを倒しておかあさんみたいに見えない人たちをたすけるしごとをするって言ってた」

 夏油と七海は神経を研ぎ澄ませて彼女の言葉を聞いた。一言一句聞き逃さぬよう、とても大切に。

「おにいさんたちも、同じしごとをしているの?」

 もう今にも溢れそうな雫が目の際に溜まっている。その言葉に答えたのは夏油だった。

「そうだよ」
「…わたしもいつか、おとうさんやおにいさんたちみたいになる」
「君がわざわざそんなことしなくても…」

 泉の言葉に間髪入れずに言ったのは意外にも七海だった。しかし、七海も咄嗟に出たことで、自分自身が一番驚いていたのだ。

「おとうさんはこれからおかあさんがしていたことも一人でしていくようになる。きっと今まで以上にたいへんだから、少しでもおとうさんの力になりたい。それにわたしが弱かったから、光のこともまもれなかった。だから、強くならなきゃ」

 それは就学前の子どもの言葉にしては、あまりにも重かった。本来、このくらいの年齢の子は言葉の意味をきちんと理解していないかもしれないが、泉は違った。自身が実際に経験したからこそ、自分が言った言葉をしっかりと理解した上で言っているのだ。それが夏油と七海には分かってしまった。だからこそ、泉の言葉に目を見開くばかりで、彼女に返す言葉が見つけられなかった。

 何も君がそんな風に思わなくても。夏油がそう言おうと思った時だった。

「いつか一緒におしごとしようね」

 先にそう言ったのは泉だった。夏油と七海はまたしても言葉を失う。何故なら笑顔を作りながらそう言い泉は、溜まっていた涙を零したから。一生懸命にその雫を拭う泉に、ついに夏油は顔を俯けてしまう。
 今、夏油たちがどんな言葉を投げかけても、泉は自分の言った言葉を撤回も訂正もしないだろう。彼女はそれが自分の進むべき道だと信じて疑っていないし、むしろそのうちそういう運命だったのだ、と自分に言い聞かせるのかもしれない。もしかすると彼女は進むべき道に迷いが生じた時に、自分を韜晦してまでもこの言葉を呪文のように唱えるのかもしれない。
 そう思うと、夏油たちは物理的に彼女を救えたものの、精神的には全く救えていなかったのだと痛感させられた。

 これは、たった5歳の少女に背負わせるには、あまりにも重くあまりにも凄惨な運命だった。



 あれからもう十年が経った。
 私は今年で中学三年生となり、来年からは東京の都立呪術高等専門学校への進学を決めていた。当時からその意志を変えることはなく、今まで何度も父親からは反対されてきた。そして幼馴染の虎杖悠仁からも同様に父親の反対を押し切ってまで行かなくても、と珍しく後ろ向きな発言をされたものだった。

 それでも私が呪術師を目指すのには、かねてよりの思いがあったからだ。

 当時まだ5歳だった私は、読み書きが満足にできる状態ではなかった。だが、いずれ一緒に働くことになるのなら彼らの名前はしっかりと記憶しておかねば、と思い、それぞれの名前を紙に書いてもらっていた。
 
 ―――夏油傑、七海建人。
 
 それが私の命の恩人たちの名前だった。
 硬筆の見本のような綺麗で滑らかな字体で書かれたその文字は、夏油さんが二人分の名前を書いてくれた。とても綺麗な漢字の上にはそれぞれふりがなまで丁寧にうたれていた。もう月日が経ってくたくたになったそのメモ紙を絶対に失くすまいと手帳にいつも挟んでいた。

 実はあの一件の後も夏油さんはよく私たちのところに顔を出してくれていた。わざわざ東京から時間とお金をかけて会いに来てくれては、私や光のことをよく笑顔にさせてくれたものだった。
 光は現在も入院中である。あの一件後、数日間は意識が回復せず、もうこのまま意識が戻らないことも覚悟してくれ、と主治医に言われたが、その後見事に復活してくれたのだ。だが、後遺症が残ってしまい、入院治療は必須だった。その為、私や父親、伯母が毎日交代でお見舞いに行っていた。

 季節はすっかり冬になり、街中はそこかしこにツリーやイルミネーションで彩られていた。道ゆく人は皆友人や家族、恋人など誰かと一緒に歩いているばかりで、この年にもなれば恋人とデートなんて憧れるものだ。ちょうど同じ年くらいの学生のカップルが目の前を歩いていて仲睦まじそうに手を繋いでいたが、それを見て恨めしく思わなかったのは、私もほんの少しだけ淡い期待を抱いてしまっていたからかもしれない。

 12月23日。仙台市内では雪が散らついて、目前に控えたクリスマスの訪れを待ち望んでいるようだった。

 待ち合わせ場所まであと5分かからないくらいのところだった。私は向かいから勢いよく歩いてくる人を避けようと半歩左に寄る。だが半歩寄ったその後ろを歩いていた人とぶつかってしまった。思わず「わっ」と声が出てしまう。転ぶまではいかなかったものの、少し体制を崩してしまったが、背後からも同じような声が聞こえていた。後ろを気にしなかった私が悪かったと思い、すぐに振り返って「ごめんなさい」と謝る。ぶつかったのは背の高い同じ年くらいの少年で、切れ長の瞳とツンツンと跳ねた黒い髪が印象的な人だった。

「いやこっちも悪かった」

 鋭い視線でこちらを見ていた彼は、その眼光とは裏腹に律儀な人のようだ。すると「あれ、めーぐみー?はぐれたのかなー?」と一際目立つ声が聞こえると、彼は少し面倒臭そうにため息を吐いていた。私は思わず笑ってしまうと、めぐみと呼ばれた少年は眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしていた。「別にはぐれてません」と間延びした声の相手に返答した彼に小さく会釈をして、彼とはそこでお別れをして私は再び目的地を目指した。

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