英雄


 翌日、もう一人の一年生がやってくるということで泉たちはその人物を迎えに行くことになっていた。五条とは原宿で落ち合うことになっていたが、彼女らはやはり何故原宿集合なのかが分からなかった。
 少し早めに着いた泉たちは駅を出てすぐの分かりやすい場所で五条を待つ。昼間でも人の往来が多かった。泉はお手洗いに行ってくると言って、恵と悠仁のもとを離れた直後のことである。

「一人で行ったけど大丈夫かな、あいつ」

 さも当然のように泉のことを気にかけた悠仁に、全く同じことを考えていた恵は心にもやっと霞んだ感情が生まれた。

 そして泉とほとんど入れ違いで五条がやってくる。彼は悠仁と制服のことを会話すると、次に泉の不在を尋ねた。

「今便所」
「え?大丈夫かな?泉、前東京駅に来たとき迷子になってなかった?」
「…確かに」
「え?そうなの?じゃあ迎え行った方がいい?」

 俺行ってくるよ、と軽やかに腰をかけていた柵から離れた悠仁だった。先を越されたと思った恵は仏頂面で黙っていたが、そんな彼の様子を見た五条は口をにんまりとさせていた。

「いや悠仁は要観察だから、僕と一緒にいなきゃダメ。代わりに恵が行ってきてくれない?」

 そう言われると「あ、そっか。じゃあ伏黒頼むわ」と歯を見せた悠仁に、恵は少し心が痛んだ。やはり悠仁は超が付くほど良い奴だと痛感したからだ。そして何より自身の心の中を見透かしたような五条の言動が腹立たしかった。
 何をこんなにイライラしているのだろうか、とため息を吐きながら恵は足速にトイレの方向を目指していた。一歩進めば人とすれ違い、避けて歩くのが面倒になってきた頃。微かに女性の声が聞こえた。それも少し恐怖が滲み出た声色が、どこから聞こえているのかをいち早く捉えると、恵は人を避けることも忘れて人混みを掻き分けた。



 トイレを済ませて伏黒くんたちのもとまで戻ろうとしたときであった。たくさんの人が目の前を通り過ぎ、往来しているのを呆然た眺めながら思った。

 伏黒くんたちがいるのってどっちだっけ。

 悠仁にこの都会の駅のことが分かるはずないと思い、伏黒くんに連絡をしてみようかと、トイレの出入り口を出てすぐのところでスマホを扱っていた時だった。明るかった画面が急に翳ってしまう。何事だ、と思って勢いよく顔を上げると、それは全然知らない男の人だった。その人は愛想の良い顔をつくっていたが、私はほんの少しだけ怖いな、と思ってしまい咄嗟にスマホを閉じてしまった。

「なあ、君今一人?」
「え、あ…ちょっと道、迷っちゃって」

 独特な訛りはおそらく関西弁だろう。長身の男の人はやはりにんまりと笑ったまま私を見下ろしていた。とりあえず伏黒くんたち待たせてるわけだし、この人とは早く別れて行かないと、と言い聞かせ「すみません、人待たせてるので」と男の人の視界からすり抜けようと動くも、思い切り肩を掴まれて難なく元通りの位置に戻されてしまった。

「え、?」
「実は僕も道迷ったんよね」
「…は…っ?」
「そんな顔せんといてや。本当に迷ってんねんけど、でも君と会えたから結果オーライやわ」
「? あの、えっと…?」
「ああなんや君、察し悪いな。鈍感なんや。かわええなァ」
「あの、私、本当に、行かないと」

 これはまずいと明確に脳が信号を出している。それは指先に顕著に現れていた。手先が冷え切り指が震えている。怖い。怖い。怖い。どうしよう。そう思って周りを見ても、みんな私のことなんて気にもとめずに足早に通り過ぎるばかり。少しこちらを気にかけてくれる人もいたけれど、見て見ぬフリだった。先ほどよりも顔を近づけてきた男の人が、怖くて直視できなかった。どうしよう、とばかり考えて目の前の人間の話なんて耳にも入らない。

 こういう時、いつも悠仁が助けにきてくれていたのにな、と思い出す。

「僕、君のこと気に入ってもうてん。どっかカフェでも行こうや」

 私の意見など全く聞き入れずに、ぐいっと腕を引っ張られる。「手首細っ!」と戯けたりするあたり本当に悪い人ではないのかもしれないが、にしても強引すぎるし、やはり恐怖感は拭えなかった。

「待っ、あの、困ります!私、人待たせてるって…」
「ちょっとコーヒー飲むくらいええやん?そんな時間かからんて」
「そうじゃ、なくって…、っ」
「あ、後で連絡先教えてな」
「……や、だっ…」

 話が全く通じてないことに恐怖感がどんどん増した。強引に手を引っ張る男の人に、私はある時の記憶が蘇った。あの時、私は悠仁が助けに来てくれなければ、とその先を考えると吐き気が催す。
 ガラスのコップに注がれた水が溢れ出す。今まさにまたあの恐怖が蘇ったのだ。

「なあ、そういえば名前なんて言うん?」

 悪気ないその一言も、強引な行動のせいで恐怖心を煽ってしまう。ましてや相手は全く知らない人。あの時のように顔も名前も所属も全て分かっていた相手ですら怖かったのに、こんな面識もない相手に強引なことをされたら怖くて仕方がなかった。

「おい」

 低い声が降ってきたかと思うと、強引な男の人から引き剥がされるように、私はその声の主の腕の中にすっぽりと収まっていた。視界の両端に見えた黒い制服や袖から伸びた綺麗な骨格の手を見て、それが誰だかすぐに分かった。

「嫌がってんだろ」

 いつもより静かででもその声色には怒りを認めているような、そんな声だった。見上げた彼はやはり伏黒くんだったのだが、その表情は初めて見るもので、それはあの時助けに来てくれた時の悠仁の顔とそっくりだった。俗っぽく言うとブチ切れた顔。
 男の人は伏黒くんの存在感に圧倒されたのか、急に掌を翻したようにさっきまでの強引さが消えた。

「ごめんごめん、本当に人待たせてたんやね。それは迷惑かけたわ」
「………。」

 伏黒くんは少しだけ私を自身の方に引き寄せてくれた。そして今まで見たことのない凶悪な目付きで、目の前の男性を睨みつけている。

「堪忍してや。可愛かったからちょっと声かけただけやん?二人ともちょっと大袈裟ちゃうの?」
「あ?」

 男の人は両手を宙に広げてひらひらと動かし降参の合図を示した。その飄々とした言動、人のパーソナルスペースに土足で入り込んでくる強引さ。私は知り合いの中にそんな人物がいたことを思い出した。しかしそれは目の前のこの人ではない。だが、確かあの人も関西弁を使っていた気がする。

「さっさと消えろ」

 伏黒くんがきつい言い方でそう言ったが、目の前の人間には擦り傷程度にも思っていなかったようだ。全く懲りた様子もなく、生返事をして私たちの元から去っていく。次の瞬間にはあっという間に雑踏の中に溶け込んだ。

 私は一気に硬直していた身体中が緩和するのが分かった。そうすると巻き付いていた伏黒くんの腕がパッと離れる。

「悪い。勢い余った」

 さっきまでの口調と怖い顔はどこへやら。いつもの優しい伏黒くんに戻ると、彼は私の様子を窺った。
 さっきまであんなに怖い顔をして、威嚇していたようには思えなかった。それにしても声も言動も狂犬そのものだったのに、私を抱き寄せる腕がとても優しく感じてしまった。

 だからとても安心してしまった。

「おい、佐狐!?」

 伏黒くんが目を大きく見開いて驚いた顔をしている。頬を生温い雫が伝った。伏黒くんが驚いているのは、きっとこれが原因だ。

「ごめんね。ちょっと怖かったから、伏黒くんが来てくれて、安心しちゃって」

 薬指の腹で目尻の涙の粒を拭う。言葉ではちょっとと表現したが、本当はとても怖かった。拭いても拭いても溢れてくる涙を一生懸命指で追いかけると、その一つを伏黒くんの指が掬ってくれる。
 不思議と伏黒くんに触れられることに、恐怖心も警戒心もなかった。

「大丈夫、俺がついてる」

 その言葉を聞いた時私はあの日、あの峠で呪霊に襲われた後に向かった病院でのワンシーンのことが何故かフラッシュバックした。あれはもう10年も前の出来事なのに、強烈なインパクトを残して私の中に眠っていた。

 母親に置いていかれた私を追いかけてきてくれていた夏油さんと七海さん。赤の他人の子どもだというのに、彼らの視線はとても優しかった。あの言葉は、母親の背中を夢中で追いかける私に、優しく響いたのだ。

『泉ちゃん、大丈夫。私達は君の味方だ』

 あの時と同じ感覚になった。伏黒くんが言ってくれた言葉や優しさが体の芯まで伝わった。
 あの時私は夏油さんのその一言に安心しきって、腕の中に躊躇なく飛び込んだ。泣き喚いても迷惑そうな素振りなど一切見せず、ただ私が泣き疲れるまでずっと背中をさすってくれていた。

 あの心地良さと安心感を伏黒くんにも感じてしまった。

「ありがとう、伏黒くん」

 綺麗な指先が何度か私の雫を掬うとそのうち涙は零れなくなった。
 そう言って笑ってみせると伏黒は何故か指一本動かなくなって固まってしまう。顔も急に真顔になるし、一体どうしたんだろうか、と覗き込むと、急にふいっと他所を向いて「あんま見んな」と言って私の顔から手を離した。いつもの調子に戻れたかな、と思って再び笑う。

「でもあんな怖い言い方したらダメだよ」
「………。」
「伏黒くんのあんな怖いところ初めて見た」
「…佐狐にはあんな態度になんねえよ」

 おそらく伏黒くんは強い態度をとってしまったことで、私が驚くなり怖がるならしてしまったのではないか、と思っているのだろうか。

「うん。分かってるよ。それにヒーローみたいでかっこよかったよ」
「……は、」
「でも暴力振るってたら完全にアウトだからね」
「………おう」











「見てたで。惨敗オツカレー」
「惨敗ちゃうやろ。邪魔が入らんかったら余裕やったやん」
「邪魔て。あれ伏黒恵くんやろ。一年で二級術師なんやて」
「クソ生意気な」
「まんまとやられて退散してきてよう言うわ」
「けど泉ちゃん可愛いやん。遊び慣れてないんやろな、って感じ。清純派やな。僕ああいう子嫌いやないで」
「お前のお眼鏡にかなったところでなんも嬉しないわ。あと馴れ馴れしく呼ばんといてな」
「何や、もうヤキモチ妬いてんの?らしくないやん」
「らしくないことないやん。俺自分のモンに変な虫つくのむっちゃ嫌やねん」
「変な虫て、僕のことも含めとらん?お前かてノリノリで僕に行かせたやん。こんなことになるんやったら、僕も高専行っとけばよかったな」
「いや実際怠いで。あーでも真依ちゃんおるのは救いやな。男はアイドルオタクとか変なのばっかで話にならへん」
「てかあの二人デキてんとちゃうの?何も知らずに可哀想やな」

 そう言ったのは先ほど泉に声をかけた男だった。会話をしていたもう一人の男は、彼の発言にニヤリと口元を歪ませる。

「ホンマ可哀想やな」

 男は口元を覆っていた真っ黒なマスクを外す。するとそ先程作られたニヒルな口元が現れた。男はかなり遠くに見える小さくなった泉と恵の背中を捉えたまま、その怪しい口元を動かす。

「早うちゃんと挨拶せんとな」

 男は真っ黒な衣服に身を包んでいた。側から見ればロングコートを着ているようにも見えるが、それがコートではないということが分かるのは、首元についているボタンの意味が分かる人間のみであろう。

「あと伏黒くんにもちょっと言い聞かせんと」
「おー怖々」
「怖くあらへんがな。あの子、二級言ったって、所詮は禪院家の成り損ないやん」

 泉たちの背中がついに見えなくなると、男はさらに続ける。

「躾のなってない野良には、ちゃんと誰かが躾んと」

 そう言って男は再び口元に歪な弧を描いた。

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