融解


 例の一件は泉の希望により五条や悠仁には伝えないようとのことだった。恵も了承し何食わぬ顔で二人と合流したものの、早々に悠仁から「泉、目元赤いけどどったの?」と尋ねられる。すぐにあたふたしてしまった泉を見兼ねて、恵はふわりと口元を緩めた。

「迷子になって泣いてた」
「ちょっ!伏黒くん!?」
「何だよ、子どもか!」
「悠仁もまだ子どもじゃん」

 悠仁とそんなやりとりをしつつも泉は内心助かったと胸を撫で下ろしていた。ちらりと見上げた視線に恵の瞳が飛び込むと、彼はいつもの様子だったので泉は感謝の意を込めて口元を緩めた。
 ちなみにこの二人のやりとりを見ていた五条は、おそらく何かあったな、と見抜いていた。そして泉や恵たちの呪力とは違う呪力を微かに感じ取っていたため、それが関与しているのではないだろうか、とまで推測していた。しかし、二人から何も言ってこないのであれば、大事ではないだろうから、敢えてこの時は深く聞き出さなかった。

 そうして一行はようやくもう一人の一年生との面会を果たす。

「釘崎野薔薇。喜べ男子、紅一点よ」

 野薔薇が簡素な自己紹介をすると、悠仁と恵と簡単に自己紹介をする。しかし彼らはそれが終わると、すぐ背後にいた泉をちらりと見たが、彼女のことは野薔薇からはちょうど死角になって隠れてしまっている。

「ちょっと何よ、なんか隠してんの?」
「いや、実は女子もう一人いるんだけど」
「え?いないじゃない」
「俺らの後ろ」

 そう言って悠仁が少し身を捩ると、その隙間から泉がひっそりと佇んでいるのが野薔薇にも分かった。「なんで隠れてんのよ」と少しムスッとした表情で泉を見る。

「…い…ぁい」
「泉、あの…さっきから何言ってんの?」

 悠仁がそう言うのも無理はない。泉は両手を自身の胸元に当て、そして何度も何度もこう呟いていた。

「ぱァいッ!」
「え?」
「は?」

 一際大きな声はようやく五条と野薔薇の耳にも入る。何故か泉は切実そうな顔でそんなことを口にしたので野薔薇は「アンタ大丈夫?」と悪態をついた。

「野薔薇ちゃんは普段から一体何を食べてるんですか?何を食べたら、そんな…立派な…」

 じりじりと野薔薇との距離を詰める泉に若干引いていた野薔薇だったが、彼女の言葉の意図を理解するとその胸元に視線を向ける。確かに華奢で薄い胸板を見てそういうことか、と泉の肩に手を乗せる。

「後でじっくり教えてあげる」
「本当にっ!?」
「ええ、もちろん。あと自己紹介くらいしてくれないかしら?」
「あっ、ごめん!私は佐狐泉です。実は悠仁とは幼馴染なんだ」
「え、ちょっと待って。佐狐って、あの佐狐家の?」
「あれ野薔薇知ってんの?」
「名前くらいは聞いたことあるわよ、東北じゃ有名だもの」
「へえ〜」
「へえ、ってアンタ自身のことでしょ?」

 他人事のような態度の泉に思わず頬を摘んでしまった野薔薇。しかし泉はそれでもへらへらと笑いながら「私もよく分かってなくて」と言った。その発言に手を離すと、泉が情けなく笑った姿だけが残った。

 野薔薇はそんな彼女を見て、顔も声も何もかも違うはずなのに、彼女の心に深く強く残っている女性のことを思い出す。

「泉ってそんな有名なんか?」

 置いてけぼりだった悠仁が口を挟む。

「佐狐自身というより、佐狐の家がな」
「簡単に言うと御三家まではいかないけど、そんな感じの由緒正しい伝統ある名家なんだよね」
「へえ、そうなんか。俺ずっと一緒にいたのに、何も知らなかったわ」
「それは私もだよ。お父さん、あんまりそういうの教えてくれなかったから」

 悠仁に対しそう答えて少し寂しそうな表情をしたのは、ここにいる全員が確かに見受けた。そしてその内野薔薇以外の三人が、先日護が零した本音を聞いていたため、互いの気持ちのすれ違いに何とも言えない気持ちになる。
 特に五条はこの件についてアドバイスをしていたために、今の泉の言い方からおそらくそのアドバイスはまだ護に響いていないのだろう。だが家族の間のことに関しては、あまり外部からあれこれ刺激するのも良くない。今はまだ見守っていた方がいいだろう、と判断して五条はさりげなく話題をこの後の目的地のことへと変えた。



 目的地である六本木。虎杖と釘崎はかなり期待して浮かれていたようだったが、五条先生があんなにあっさりと彼らの期待に応えるわけがない。
 着いた先は廃墟ビル。そして呪霊の気配を夥しく醸し出すそれに虎杖と釘崎は猛抗議していた。五条先生はあくまでも釘崎の力量を計る目的で釘崎と虎杖を呪霊の祓除任務に当たらせた。俺たちは何かあったときのために待機という形で、近くに三人並んで腰を掛ける。

 話の内容は虎杖のことについてだった。

「悠仁はさ」

 五条先生はそう言うと自分の頭を指で突く。そして「イカれてんだよね」と続けて虎杖のことを話していた。その最中明らかに表情の曇った佐狐がついには五条先生の顔を見ることをやめ、その視線は地面に落とされる。

「悠仁は昔からとても優しかったんです」

 唐突に話し始めた佐狐に対して五条先生は彼女のペースに合わせて相槌を打っていた。
 佐狐は小さく縮こまるように膝を抱えて座っていた。脛のあたりで結ばれた手と手は何度も何度も組み替えされていた。

「あんな見た目だけど本当に優しくて、明るくて人気者で。本当に根っからの善人なんです」
「それは僕らもなんとなく分かってるよ」
「でもキレると結構怖くて。力も強いしあの見た目だから喧嘩もよくふっかけられるんです。悠仁が相手にしなくても、向こうから手出されることも多くて」
「まあ目立つだろうね」
「怪我とかすることも多くてその度に私が手当して。もう傷作るのやめてって言っても『俺はヘーキだから』って笑うし」

 私が平気じゃないって話なんですけど、と儚い笑顔で戯けてみせた佐狐だったが、その手は強くもう片方の手を強く握りしめていた。

「でもこっち側・・・・じゃなかったのにな」

 相変わらず強く握り締められた手が微かに動くと、地面に落とされていた視線が天を仰ぐ。

「悠仁のお爺ちゃんのこともショックだったけど、悠仁を巻き込むことになってしまったことが何よりショックです」
「…悪い、それは俺の力不足だ…」

 たまらず謝罪をすると佐狐はこちらを向いて「違う違う。伏黒くんのせいじゃないよ」と本心からそう言ってくれていた。

「私が体調崩したりなんかしてなければ、悠仁がこんなことにならなかったかもしれない」

 その言葉を聞いて俺はゾッとしてしまった。佐狐は一体どこまで自分の責任にして背負いこむつもりなのだろうか。俺はこの言葉を聞いてきっと佐狐は弟の光くんのことすらも、自分のせいだと思い込んでいるんじゃないか、と思ってしまった。全て直接的な原因が佐狐にあったわけではない。それなのに彼女は恰も自分が加害者かのように常に自分に責任を背負い込ませていた。
 その生き方に一体何の意味があるのか、俺には分からなかった。だから彼女の言葉に俺は何も返せなかった。

「中学の時、私特別仲の良い友達がいなくて、グループに属すわけでもなく浅く広く愛想良くしてたんです」

 それは俺が想像していた彼女の学生像とは180度かけ離れたものだった。

「それは意外だね。人付き合い上手なのに」
「人が、少し怖くて…」

 佐狐はそれから少し自分の話をしてくれた。初めて知る彼女の一面に、俺も五条先生も正直驚いてしまった。

 それは、あまりにも衝撃的すぎる話だったのだ。

prev list next