聖夜前日
最寄駅の近くにある公園は、駅の裏側ということもあって意外にも人気は少なかった。公園の中央には年季の入った屋根が造られており、その下にあるベンチに座っている人を見つけて、私は思わず口角が上がるのが分かった。
「夏油さん!」
私の声にベンチに座っていた夏油さんは読んでいた本を閉じて鞄に仕舞う。チャコールグレーの畔網のニットに黒いPコートを羽織っていた。背が高くてスタイルが良いから何でも似合うな、と思って見ていると夏油さんが私の大好きな優しい笑顔を作ってくれる。
「こら、外じゃ名前はダメだって言ったろ?」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ。泉が態とじゃないのは分かってるから」
そう言って優しく頭を撫でてくれた夏油さんに私はまたしても頬を緩めてしまう。
夏油さんはあの事件の後から何かと理由をつけて私たちのもとへ来てくれていた。しかし、あの年の9月くらいのことだったろうか。とても悲しそうな笑みを浮かべて「ごめんね」と謝ったのだ。理由は話してくれなかったが、夏油さんは私たちにお願いをしてきた。一つは私と光が夏油さんと会っていたことを他言しないこと。私と光は快く了解して、光のもとを去って二人きりになったときのことである。
夏油さんが何か言いづらそうにしていたから、私はそれを聞きたくなくて、こちらからも一つお願いごとをした。
たまにでいいから、また会いに来てほしい。多分今までのようにはいかないだろうから、本当に夏油さんが来れるタイミングで構わない。たった一分でも構わない。ひと目見れたら、私は何だってがんばれる気がするから。だから―――。
確かそういう内容のことを、まだ拙い言葉で一生懸命に伝えた気がする。今思えばすごく恥ずかしいことを言っているな、という自覚はあるのだが、お陰でこうして年に数回、会えることになったのだから、勇気を出して言ってよかった、と思えた。
ただし、会うにあたって一つ条件があると言われた。さっきの他言しないことはもちろんのこと、会っている最中に自分の名前「夏油傑」を呼ばないこと。これが条件だと言われていた。
当時は良く意味が分からず、でもまた会えるんだ、という喜びの方が大きくて承知していた。
しかしだんだんと歳を重ねるにつれ、私も色んなことを理解してくる。すると私には一つの疑問が生まれた。
どうして夏油さんはそんなに自分の存在を隠したがろうとするのか。
分からなくて、誰かに聞きたかった。お父さんは呪術師として仕事をしているから聞けば何かが分かるかと思ったけれど、それは夏油さんとの約束を破ることになるから、誰にも聞けなかった。
でも夏油さんとこうやってたまに会って、人気の少ないところでただ色んなことを話すだけのこの時間が、私にはどんなことよりも楽しくて幸せだった。
だから、真相を追及するつもりなんて、本当に考えてもいなかった。
「へっくし」
「ああ、ごめん、寒いよね」
夏油さんは私がくしゃみをすると傍らに置いていたチェック柄のマフラーを広げて、私に巻いてくれた。ふわふわと巻かれるマフラーに、私はどこを見ていいか分からなくなった。そしてほのかに感じた夏油さんと同じ香りに、私は心臓がドクンドクンと煩くなっていく。
「泉は高校どうするの?」
「呪術高専に行きます!」
「本当に行くの?めちゃくちゃ大変だよ?学長は脳筋だし、柄の悪い先生いるし」
「一緒に仕事できるなら、何だって我慢できます」
その言葉に嘘偽りなど無かった。本心だった。夏油さんは私の言葉を聞くと屈託のない笑みを浮かべていた。
「うん、そうか。じゃあ一つアドバイス」
「はい」
「五条悟って男には気を付けるんだよ」
「五条、悟…?」
「あれは最強だからねえ。先生なんて人を導くようなことする奴じゃないと思ってたんだけど」
「その五条さんって人とは、仲が良かったんですか?」
何となく夏油さんの言い方から、その五条悟という人物と関わっていたのが、過去の話のように思えた。だから私も何となく過去のこととして聞いてしまった。
「そうだね。たった一人の親友、かな」
そう言って夏油さんは酷く寂しそうに笑った。私はその表情が見たくなくて、何か話題を変えようと必死に頭を回転させるが、何も思いつかないのだ。どうしよう、と思っていたところ、先に口を開いたのは夏油さんの方だった。
「でもまあ困ったことがあったら彼を頼るといい。噂じゃ生徒思いの良い先生だそうだよ」
何となく分かっていた違和感。それを聞いてはいけないことも分かっていた。理解していたはずだった。そのはずなのに、私の口は反射的に「あの」と導火線に火を灯してしまう。
「なんだい?」
あまりにも普通な様子で首を傾げた夏油さんに、私は一縷の望みをかけていた。
「今も、呪術師、なんですよね?」
その言葉に主語がなかったのは、彼との約束を守るためだった。
呪術師は都立呪術高専を卒業後も、そこを起点として全国各地へ出張任務を行う。お父さんはひとり親家庭で光の入院や私がまだ義務教育中だということもあり、イレギュラーで現住居を中心とした任務や活動を行なっていた。だがそれでも年に数回程度、呪術高専に足を運んでいた。
たった一人の親友だというくらいの人ならば、高専に在籍していたときにも顔見知りのはず。そのまま卒業してその親友と呼ばれた五条さんは先生を務めながら活動しているというのなら、同じ卒業生の夏油さんも同じように活動しているはずじゃないのか。
今までの夏油さんの言動を脳内で繰り返していた時。私は不意に心臓を掴まれるような感覚に陥った。
―――そもそも夏油さんがこっちに来ていたのって、お父さんが東京に出張に行っている日が多かった気がする。
私がそれに気付いた時、心底気付かなければ良かった、と後悔した。夏油さんは私の先ほどの質問にとても悲しく笑うばかりで答えてはくれなかった。
「あ、えっと、さっきのは忘れてください。私実は…」
「泉は賢いからなぁ」
「いやそんなことないです。それよりも聞いてください、私この前授業で…」
散らばっていたピースの一つ一つが綺麗にはまっていく感覚だった。ずっと見て見ぬ振りをしてきて、これからもそうしていくつもりだった。真実を知るよりも、私は夏油さんと過ごせる時間の方が何倍も幸せだったから。それが例え悪いことであったとしても。
なのに、夏油さんは私の話を遮って頭を撫でた。どこまでも穏やかに笑う夏油さんに、私はこの夢のような時間の終わりを悟った。いつの間にか結んでいた髪を下ろすようになった夏油さんだったが、今思えばその頃から何かが変わっていたのかもしれない。
「ごめんね。私はあの時交わした約束を、もう随分前に破ってしまったんだ」
「…え」
「私は非術師が嫌いなんだ。だから呪術師としてどう在るべきか分からなくなってしまった」
「…い…、ら?」
「ん?」
「いつから?」
何となく感じていた違和感がなくなってしまった。それは目の前にいるこの夏油傑という人間が、世間一般に知られる呪術師という存在ではないということを脳が認識してしまったから。
「君たちと出会った年の夏くらい、かな?」
「…そう、ですか」
それは夏油さんが記憶の中で悲しそうに笑って「ごめんね」と謝った時期と一致していた。嗚呼、やっぱりあの頃から全てが180度変わっていたのだ。分かってはいたけど、知らないふりをしてきた。でももうそれもできない。夢の終わりは本当にあっという間だった。
「泉は自分の信じた道を進むんだよ」
「私は…っ」
「あの時、君はお父さんや光くんのために、呪術師になることを選んだね」
「そう、…だけど」
「私は泉のそういう真っ直ぐなところ、本当にすごいなって思うんだ」
きっともう夏油さんに会うことはできない。本能でそう察知してしまった。だからこそ、夏油さんの顔をしっかりと見て、ちゃんと話を聞きたいのに、涙が邪魔をしてしまう。涙やら鼻水やらを拭っていると、夏油さんが優しく頬に手を添えてくれた。温かい手を、私は思わず握ってしまう。
「君が進もうとしている道は、たくさん辛いことが待っていると思う。でも一人じゃない。君にはきっと今以上に強い繋がりをもった仲間ができるはずだ」
「…っ夏油さんは…?」
「私は…残念ながらその仲間ではないかな」
「…ッ、うそつき…」
思わず出た本音に夏油さんは「本当だね」と眉を下げて笑った。どこまでも余裕たっぷりのその表情は、きっと私がどれだけ夏油さんと過ごす時間を大事にしていたかなんて、きっと知らないんだろう。
「私は、夏油さんと一緒に、いられるなら…」
その先を言えなかったのは、私の唇に夏油さんの人差し指が優しく触れたから。この言葉の続きを言わせないようにしているみたいだ。
「ダメだよ」
「な、んで…」
「私は君に呪術師としてあってほしいから」
「…なん、ですか、それ…」
「私はこう見えてわがままなんだよ」
「…それで、いつか夏油さんは私の敵になるんですか」
「そうだろうね」
意外にもあっけらかんと答えた夏油さんに少し気が抜けてしまい、私も思わず泣きながら笑ってしまった。「サイコパスですね」と言うと「今更〜」と陽気な声が返ってきた。
「泉は根性あるし頑固だから」
「ひどい」
「一応褒めてるよ。だから強い術師になると思うんだ」
「………。」
「だから強くなって、私を
助けてくれ。私を倒せるのは、君かアイツしかいないだろうから」
「…アイツって…」
もしかして、と考えていたところで夏油さんは鞄の中を漁った。そして淡いピンク色の薄いラッピング袋を取り出して、私に手渡してくれた。
「少し早いけど、クリスマスプレゼント」
「…なんで、」
こんなことするの。声にならなかった心の叫びは、代わりに涙となって零れ落ちる。
「私のことは忘れることをおすすめする」
夏油さんはそう言ったが、私はそんなの受け入れられなかった。
「こんなの、ずるいよ…」
こんなことされたら、忘れてくれなんて言われても忘れられないじゃないか。促されて開けたラッピングの中身は、白地に小花が散りばめられたハンカチだった。すると夏油さんはそのハンカチを手に取って、私の涙を拭った。
「ごめんね。私はこういう人間なんだ」
「……ッ、」
「じゃあ、そろそろ行くね」
「だめ!まって!」
必死に夏油さんの腕を握りしめると、彼は少し悲しそうに笑った。
このまま夏油さんのもとについて行ってしまうのも、いいんじゃないかと思ってしまった。だって、私は夏油さんに命を救われた。その夏油さんのためにこの命を捧げることに、何の抵抗もなかったのだ。
「私も、一緒に…」
そこまで言って私はほんの少し前の会話を思い出す。
『私は君に呪術師としてあってほしいから』
そんなことを言われると、それ以上が言えなかった。いつの間にか縋り付いていた夏油さんの腕を握る手の力が弱まってしまう。それを良いことにするりと私の手からすり抜けた夏油さんは立ち上がってしまった。
引き止めるならもう今しかない。でもそんなことできるはずがない。どうすればいいか分からなくて、ただ大好きな夏油さんを見上げることしかできなかった。
「じゃあね、泉」
そう言って私の全てを包み込むように頭を撫でてくれた夏油さんは笑っていた。
私は久しぶりにあの時と同じ気持ちが蘇った。大好きだった人に突然置いていかれるあの絶望感。もうどう足掻いても、取り返しのつかない現実をただ突きつけられ、呆然と受け入れることしかできないこの虚しさ。
散らつく雪すら邪魔だと思うほど、夏油さんの後ろ姿が見えなくなるまで瞬きも忘れていた。背が高くて、黒い髪が綺麗で似合っていて、いつも洋服がおしゃれで、随分昔から私の憧れだった。笑った顔は底抜けに優しくて、その顔が大好きだった。穏やかな声も、丁寧な言葉遣いも、私を呼ぶ柔らかい口調も、全てが大好きで、いつの間にか私の中でただの憧れという気持ちには収まらなくなっていた。
一度も振り返ることもないその姿が見えなくなると、私は場も弁えずに声を上げて泣いてしまった。
分かっていた。いつかこんな日が来ることを。それでも、もしかしたらこんな日が来ないこともあり得るんじゃないか、と期待していた。私がこのままうまく立ち回れば、真実を知らないままでいられると、思ってしまっていた。
でも現実は残酷で、そんなことあり得ないと、何度も私に絶望を突き付ける。
中学三年の冬。クリスマスを目前に控えた雪の日。
これが私の初恋の末路だった。
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