夏油傑


 2017年12月24日―――百鬼夜行当日。

 我が命があと僅かなものだと悟った私は、不意にこれまでの人世を振り返った。
 きっと私の死を受け止めきれない美々子と菜々子が泣き喚く姿が容易に想像がつく。

 そして私はつい昨日、たくさん泣かせてしまった少女のことを思い出していた。


 最初は本当に義務感からだった。任務の延長で泉たちの面倒を見ていた。だけど母親とのあの場面を目の当たりにして、私には泉や光をまるで本当の妹弟と思ってしまうような感情が生まれてしまった。

 彼女たちが笑ってくれているのなら、それで良かった。
 あんなに泣いていた泉が、私の顔を見てよく笑うようになっていって、少しは彼女の心が救えたのだろうか、と考えた。
 しかし、あの年の9月、とある村の任務で、私はついに道を外れた。共に過ごした仲間たちと決別し、泉たちとももう会わないつもりでいた。だからあの日「ごめんね」と謝って、私と会っていたことを口外しないと約束させた。そして泉にもう会えない旨を伝えようと思ったが、彼女は年の割に聡くて感が鋭かった。私が言葉に詰まっていると、たどたどしい言葉で、しっかりと私に想いを告げてくれた。

 私は、意外にもそんな彼女の言葉に嬉しく思ってしまった。

 私は心の奥底で必要とされたかったのかもしれない。美々子や菜々子が慕ってくれるように、猿共が恐怖から私に従うのではなく、純粋に夏油傑という人間を慕ってくれたその純真な心がたまらなく愛おしかった。

 それから私は泉たちの父親が東京へ出張に行くタイミングで彼女たちのもとへ向かった。ただ会って話を聞いたりするだけであったが、彼女たちはまるで面白い漫才を見ているかのように、ケタケタと笑ってくれていた。居心地が良すぎたからこそ、私は会うたびに彼女たちへの罪悪感が募っていった。

 この子たちは今話しているこの夏油傑という人間が、自分たちを救ってくれた呪術師ではなく、呪詛師だと知っても、同じように笑ってくれるのだろうか。


 そうして迎えた昨日。百鬼夜行前日。
 私は心を鬼にして、彼女との別れを決意した。

 賢い泉はきっと私の今までの言動に疑問を抱いていただろう。それでもこの十年間、呪術師たちに所在が洩れずに活動して来れたのは、彼女たちが私との約束を破らなかったから。その健気さを私はあの日しっかり目に焼き付けていたはずだった。自身の怪我より弟のことを気にするような子だった。母親に見捨てられても、まだどうにかなると諦めずに必死に追いかけるような子だった。これから成長していくにつれ将来の夢を思い描くだろうに、父親と弟のためにその眩しい将来を省みない子だった。
 私は泉がどれだけ真っ直ぐな子か知っていた。だから彼女にはとても強い呪術師になって欲しかった。

「何か言い残すことはあるか」

 全てを終わらせた悟は私に向かってそう言った。私はその言葉に再び思考を揺るがせる。
 昨日、彼女に別れを言ったあと、ずっと泣いていた彼女は、私があのベンチから見えなくなると慟哭していた。見張りとして来させていた美々子と菜々子から「いいの?」「あの子はこっちじゃないの?」と聞かれたが私は「あの子は違う」と答えるしかなかった。その時、ほんの少し、自分の声が震えていることに気付き、嗚呼私は今悲しいのか、と知った。

「来年高専に私の知り合いが入学すると思う」
「佐狐泉、父親の佐狐護から聞いてる」
「なんだ、知っていたのか」

 そう言うと悟ははあとため息を吐く。そして頭を下げると「全部知ってた」と言った。
 曰く父親には当然ながら私の離反が知れていた。そして私が人目を盗んで泉たちに会いに行っていることにも気付いていたらしい。だが、泉たちに何か悪さをすることもなく、ただ泉がいつもその日を待ち遠しそうにしているから、彼女が幸せならそれでいい、と父親も黙っていたらしい。

「あのさ、そういう不要な優しさは、その子を余計に苦しめると思うよ?」
「だろうね。私は結局、彼女を救えたという確信が欲しかったのかもしれないな」
「自己満で優しくする男とか、絶対無理だわ。本当その子カワイソー」

 きっと真実を知った時、泉は私を恨むかもしれない。それでも構わない。私が見てきた十年間、彼女はとても幸せそうに笑ってくれていた。たとえこの先彼女が怨嗟の声をあげようとも、その十年分の笑顔さえあれば私は恨まれたって構わなかった。

「困ることがあれば君を頼るように言ってある」
「そこは自分じゃないんかい」
「誰がなんと言おうと非術師さるどもは嫌いだ。でも別に高専の連中まで憎かったわけじゃない」

 私は短かった自分の学生時代を思い返した。悟と二人で最強だと言っていたこと。他愛もない会話で笑って過ごせたこと。私たちの手で実際に救えた命、救えなかった命。色んなことが頭を埋め尽くした。

「ただこの世界では私は心の底から笑えなかった」

 そうだった。だが、泉や光たちの前では、その仮面を一瞬だけでも外せていたのかもしれない。それは彼女たちと呪術師としてでも、呪詛師としてでも接していなかったから。
 私はあの時、ただの夏油傑だったのだ。

「彼女には立派な呪術師になってほしいんだ」

 そうだ。この言葉に嘘偽りなどなかった。それを彼女に直接伝えられたところで、私に心残りなどもうなかった。

「傑」

 悟が私の名前を呼んだ。それはそれは学生の頃に戻ったかのような人懐こい呼び方で。

「――――――――――――」

 悟はそう言う。思わず気の抜けた顔をしてしまった。ついには笑ってしまう。

「最期くらい呪いの言葉を吐けよ」

 その言葉を最期に私は悟によって命を絶たれる。
 意識を失うその最期の瞬間、浮かんだのは学生時代の記憶、美々子や菜々子たち、そして笑顔の泉だった。


 ―――拝啓 白日の君へ

 渡した贈り物は、単なるクリスマスプレゼントとして選んだものではない。紫苑柄のハンカチは私から君への意思を込めているといっても過言ではなかった。それが君にとって残酷であったとしても、どうか受け入れてほしい。


 君の幸福を祈って、最悪の呪詛師より

 ―――さようなら、泉。



第一章「春の呪い」完



prev list next