紙の上で筆が踊る。先を淡い色で染めた筆を握る、ごつごつした男性的な手をじっと眺めては僕も優しく撫でてもらいたいなあと欲が出る。構ってほしいことを口に出してしまいそうだったので視線をずらす。
いつもはおろされている僕より短い髪は適当に結ばれており、先生の身体が動く度に毛先だけがぴょこっと揺れている。なんだあれ、可愛い、つつきたい。でも髪を結ぶほど真剣に取り組んでいるのだから、邪魔をしたら怒られるんだろうなあと思ったら身動きがとれない。気が散るから出ていけと言われてしまったら、眼鏡をかけている先生という貴重な姿が見れなくなるわけだしね。
「……くま、」
眼鏡姿は可愛いよりも知的さが増してかっこいいんだよなあ。耳に複数ついたピアスとのギャップがまたたまらない。なんて緩む頬を押さえながら観察していたら、先生の目元に薄らと隈が浮いていることに気付いた。この集中っぷりから締め切りが近いのだろう、ここ数日はろくに寝ていないのかもしれない。ちらりとカレンダーに目を向ける。そして気付く。
あ。僕、先生の家に転がり込むようになってから1年になろうとしている、と。
「せーんせ」
「…………」
「追い込み時期なのは察したけど、僕が来てから何時間経ってると思うのさ。少しの休憩もとらず、煮詰めすぎちゃうと質も下がっちゃうよ」
今描いているページを終えたからか、それとも悩み始めたのか。どちらなのかは分からないけれど、淀みなく進んでいた筆が止まった。このタイミングだ、と僕はすかさず先生の背中にひっついてじゃれる。1年前からするも考えもしなかった行動だ。
あの頃は先生の絵本が好きと伝えたら邪魔をしないなら近くで見てもいいと言われたものの、少しでも邪魔をするようならそれはそれは怖い顔で睨まれたものだし。当時、先生へ対する恋心というものを自覚したときはあの目に嫌悪感が宿る可能性が高いと恐れて、こんなことできるわけもなかったのだから。
「ほら、ちょっと休憩しよ?長時間の座り作業は早死のもとなんだって」
「…………」
「ページを描き終えて筆が止まったならキリもいいってことだし、詰まり始めて筆が止まったのなら気分転換しよ?」
先生の背中にぐりぐりと頭を押し付けた後、「いちファンとしては先生の新作ができあがるのは嬉しいけれど、友人としては無理な働き方をしてるのを見て心配だよ」と上目遣いを潤ませ、甘えた声をあげる。あざと可愛い? それは自覚してるし、狙ってやってるさ! ……先生への効果は期待できないんだけどね。
が、そんな僕の仕草よりも「ファンとして」「友人として」「心配」などと言ったワードに弱い先生はため息を1つ吐いて仕事机から離れた。その行動を待っていた僕はというと、先生が離れようとしたのを見て立ち上がり、鞄に入れていた水筒を取り出す。
「先生、あんまり眠れてないんでしょー。とりあえずこれ飲んで飲んでー」
「……なんだ、これは」
「ハーブティーだよ。カモミールは安眠サポートにも使われてるやつでねー」
とはいえ、ハーブティーを一杯飲んだからと即効性があるわけではなく、飲み続けることでそういう体質に改善していくものなのだけれど……先生は説明に納得して真に受けたらすぐに効果がでてきそうだしね、プラシーボ効果というやつで。だからつらつらとそれらしいことを話しながら、水筒の蓋をカップ代わりにコポコポとハーブティーを注ぐ。ふわりと漂う香りともくもくと立ち上がる湯気が心地よい。
そうしてカップを先生に手渡せば、くんくんと匂いを嗅ぐ仕草をしてから一口、二口と口に含んだ。
「温かいな」
「冷たいものも美味しいけれど、リラックスするならあったかいやつの方がいいんだよー」
「そうなのか」
ふむと興味深そうな声を零しながらちみちみと飲む姿を見て、レントラーなだけに猫舌なのだろうかと眺める。睫毛で影を作り、カップに口をつける姿は絵になるなあなんて惚れ直しそう。
その姿をしばらく観察し、目に焼き付けてから「先生、手貸してー」と手の平を上にした状態で差し出すよう要求する。ごつっとした男らしい手なのに、これで繊細な絵を生み出すんだからずるいなあ。などと出かかった言葉を飲み込み、両手の親指でふにふにと先生の手の平を押し始める。
「ここ、押して痛かったら肩が凝っててー、ここだと首なんだってー」
「っ、」
「座って作業することが多いから、先生はいっぱい凝っていそうだよね」
軽く全体を押して、先生の反応を確認。それからポーチにいれてあるハンドクリームを取り出し、先生の手全体に馴染ませるように塗ってから特に反応の大きかったところを丁寧にほぐし始める。
「ハーブティー飲んだし、血行も良くしたから眠りやすいと思うよ」
「……いろいろなものに詳しいな」
「そりゃあ。少しでも先生に休んでもらいたくて調べたからねー」
本職が情報屋なだけにあらゆるつてを使ってお手軽かつ効果的なものを調べましたとこも。ネヴィには仕事でもそれぐらい本気になってくれたらと言われたけれど、仕事で本気出しても得られるのはお金だけだしね。それなら先生に触れる口実も作れるような情報を得ることに本気を出したいというもの。
「先生。これ終わったらちょっと横になってみよう? 時間が気になるならアラームセットしておくし、僕も起こすから。ね?」
「…………少しだけだからな」
こういう反応を見る度に1年前と比べたら関係は良いものになったんだろうな、なんて実感する。以前なら余計なことをするなと睨まれ、追い出されていたに違いない。なのに今は触っても怒らないし、というか執筆中にひっついたのに睨まれなかった! そのうえこの後横になってくれるというのだから……寝顔を撮るチャンスなのでは? と自分に都合の良い解釈が膨らんでいき、頬が緩んでくる。
「でも、そういいながらお前の方が先に寝落ちしそうだな」
「否定はできない」
でもそれは先生の傍が心地よすぎるのがいけないと思うんだなあ。
などと、口にすれば自分が先生に対してどれだけ惚れこんでいるのかを再確認して悶えるだけになるので、他のことを考えるために視線を先生の本棚に移して話題を変え、しばらく実のない談笑を続けるのであった。
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