帰ってくるなり先生は宣言通り執筆作業を始めていた。買ったばかりの画材を使って紙を彩る。何度も何度も見てきた姿。その横顔はどれだけ見つめようと飽きず、それどころか綺麗な顔立ちだなというところから始まり、眼鏡の奥でころころかわる目の表情を察せるようになってからは可愛いなとか真剣だなとか様々なことを感じるようになってきた。
けれど、今回はそのいつも通りの姿に加えて先程の女性からもらったらしい色の作り方が記されたメモと睨めっこをして試行錯誤をしている様子もあった。それだけで……なんだか面白くなかった。
「…………」
「…………」
沈黙も続き、あまりにも暇だから何故こんなにも面白くないと感じるのかを自己分析してみることにした。……とはいえ、深く考える必要もなく原因は明らか。先生が他の女から受け取ったメモを真剣に見つめ、その人のことを考えているのが気に入らないのだ。これが嫉妬というものだろうか。なんて僕らしくない。考えていると言っても、恋煩いとかそういう類のものではなく、色の出し方という意味であるのに過剰反応するなんて。
「…………余裕がない、なあ」
はあ、と深いため息を吐く。らしくないことを考えすぎているからか、頭がぼうっとしてきた。なんだか身体も重たい気がする。先生がこちらを気にしないことをいいことに、勝手にお布団を拝借することにする。ベッドからずるずると引きずり落し、身体に巻き付けて体操座り。なんだか寒くなってきた気がする、膝に顔を埋めてもう一度ため息を吐く。
「せんせい、」
「…………」
小さい小さい声で呼んでみるが、作業に集中している先生の耳には届かない。邪魔をしたいわけじゃないけれど、なんだか寂しさが増してきた。その寂しさに気付くと、構ってもらいたい、触りたいという気持ちが溢れてくる。少しくらいならいいかな、なんて怒られることが分かり切っているのに我慢できず、前のめりになって少し丸まった先生の背に引っ付いてみる。
「……なんだ」
「ちょっと人肌恋しくて。ほら、寒い季節だし」
「そうか」
離れろと引き剥がされると思っていた。さあ、くるぞ。と覚悟してぎゅっと目を瞑るが、なかなかこない。あれ……? と恐る恐る目を開いて先生の顔を覗くと「ほら」と、額にこつっと何かを乗せられた。
「うえ?」
「よく飲んでるだろ」
乗せられたものを受け取り、見てみると紙パックのショコラティー。確かに僕が好きな飲み物だ。教えたことあったっけ、いや、あるはずがない。意識していないけれど、風月ちゃん曰く僕らは職業病なのか付き合い長くてもなかなか自分の情報を渡さないらしいし。だとすると……先生自ら気付いたというわけか。イコール、好きな飲み物だと察せられる程度には先生に見られていたということだ。しかもわざわざ買って用意してくれていた。その事実に嬉しいやら照れ臭いやら。今までにない不思議な気持ちに胸がくすぐられ、ふわふわする。
ふふっと笑いながら先生にひっついてショコラティーを飲んでいると、視界の端に先程まで先生が塗っていた色が目に入った。興味深くて覗き込むと、そこには黄、黒、赤を使われた光沢のある色が広がっていた。淡い、というよりぬらりとした……みたいな。そしてその隣にあるのは女性の字で書かれたメモと著者名が先生以外の名で記載された絵本。
「これ」
「ああ。先程買い物行ったときに押し付けられた」
「あ……さっきの人の絵本なんだ」
ふわふわした気持ちが途端に沈み、指先から冷えていくような感覚に襲われる。ショコラティーで潤した喉もからからと乾き始める。もう一度潤そうとストローに口をつけるが、喉に塊がつっかえたように飲み込みにくい。無理矢理押し込むと逆流してきそうで嫌な感じなんだこれ、浮いたり沈んだり情緒不安定もいいところだ。これら全部が嫉妬という感情で振り回されているというのなら鬱陶しい。
なんだかイライラしてきて、ストローを噛み始める。それでも解消されるわけもなく、気付いたら「……先生って優しいのか甘いのかよく分かんない」などと言い始めていた。
「?」
「前なら作業中にひっついたら怒ったくせに。今は怒らないし、それどころか好きな飲み物用意してくれてるし」
「それは」
「考えてること全然分かんないし、聞いても言葉で教えてくれないから理解できないし」
「……何が言いたい」
優しくしてくれたのは僕のことを受け入れてくれたからかもしれない。隣にいることを許し始めたからかもしれない。そう前向きに捉えればよいものの、今の僕の中には先生にとって好い人ができたから丸くなったのかもという考えが浮かび始めた。そう、つまりこれらは八つ当たりだ。眉間に皺を寄せて、じとりと僕を見下ろす先生の顔を見ればこれ以上はよくないというのが分かる。分かるけれど、止まることはできず。
「少しはちゃんと口で言ってって言ってるんだよ、このボキャ貧!」
「はあ?」
やってしまったということは誰かに指摘されずとも分かる。先生の声はワントーン下がり、皺がより一層濃く刻まれている。これは地雷だ。絵と文字を両立させて初めて成立する絵本作家にボキャ貧なんて侮辱以外のなんでもない。情報屋の僕が無知だと罵られて苛立つようなものだ。
先生が今どんな顔をしているかなんて怖くて見れない。そっと離れて俯いていると、深いため息と共に怒気の孕んだ声で告げられる。
「何に怒ってるか知らないが、そんなに嫌なら来なくていい」
「っ、わかったよ。もう来ないもん!」
あ、嫌われた。もう駄目だ。じわりと目が熱くなってきて、我慢できず部屋を飛び出す。
先生が追ってきてくれるとは微塵にも期待してはいなかったけれど、鍵を閉められた音が聞こえたときには「先生のばかーー!」と叫んだのは仕方がないことだと思う。
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