紙一重での善と悪

崩れ落ちたのは予想外にもこちらのコノハではなく、コトアのエネコロロだった。

タイプ相性としてはこちらが勝ってもおかしくないが、レベルは圧倒的に向こうのほうが上。指示だって的確で、気を抜いたらこちらが負けることは確実だった。
だというのに、なぜか俺はコトアに勝ってしまっている。大人しくエネコロロをボールに戻したそいつは次のポケモンを出す様子はない。

相手が出してきたのはルカリオ、ユニラン、そしてエネコロロの三匹。こちらも使ったのはライラ、エポナ、コノハの三匹だ。接戦だったとはいえ、三匹はまだギリギリ戦える状態である。
強くなっただけなのかもしれない。しかし、どこか違和感が残るのは確かだ。

「流石だね」と特に強い感情の起伏を見せることもなく、淡々とした様子で口にする人間は、どこか…そう、まだ余裕があるのだ。とても全力で戦っていたようには思えない。
こちらは指示を出すのにも全力を尽くしたのに、やはりコトアは俺よりも強い。それでこの結果ということは、

「…何、考えてるんだよ」

俺の言葉には無反応だが、誰にだってわかってしまう。こいつはさっきのバトルで"手を抜いた"。

こいつの考えていることは俺には理解できない。手を抜いたことといい、リオルを置いていったことといい、アクア団に所属している理由といい。どこかしら矛盾が生じてしまう。
アクア団として俺を倒すのなら、その実力を遺憾無く発揮すればいいだけなのだ。なのに手を抜いて、俺を生かした。

リオルに関してだってそうだ。リオルとウマが合わないなら、さっさと野生に帰してやればいい。わざわざボールを持ったまま置いていく理由はない。
しかもこいつはポケモンの墓を作ってお参りに行くくらいにポケモンを気遣っている。ほんの少ししか会話は交わしていないが、なんの理由もなくそんなことをするようなやつには見えなかった。

抽象的な問いかけに対し、コトアは静かに口を開く。

「本当は――」

その続きを聞くことは叶わなかった。

トクサネで感じたような強い揺れが俺たちを襲い、力を入れていた体のバランスが崩れる。
思わぬことに対処できなかった俺は地面と熱いキスを交わす。岩の壁が擦れて不穏な音を立てる中、地面にぶつけた鼻に意識を向けていた俺に向けて何かを投げられた。どこか見覚えのあるそれは、誰かのカバン。

「―――」

小さく何かを呟かれたのを見た瞬間、コトアの後ろから巨大な波が押し寄せ、その姿を水の中に消していく。俺も小さいとは言えない波に飲まれ、流れてきた水を飲み込んでしまった。
流されそうなところをなんとか耐え切り、咳き込み霞む視界で周りの状況を確認すれば、それが決して自然に起きた波でないことを知った。

俺と同じように流れに耐え切ったのだろう、フラダリさんとマツブサ、そしてアオギリ。マツブサは悔しそうに歯噛みし、アオギリはその手に持っていたはずの藍色の珠をどこかに消している。
そして、水の中にいたはずのカイオーガは見る影もなく。

「…しょーねん?」

俺の前にいたはずのコトアも消えていた。


「ふははははは!ついに…ついにッ!やったぞおおおおおおおおッ!」

呆然とする俺の向こうでアオギリが雄叫びを上げる。

「まだ完全なるカイキではないのにこのパワー…!
これで世界は始まりに戻る!新たなる第一歩を歩みだすのだ!」

処理が追いつかない頭に響く言葉を理解したくないと本能が拒絶する。信じたくない、信じられるはずがない。だってそんな、それじゃ、

だが、現実は非情だった。
目の前に広がる光景がその答えを見せつけている。いくら俺が信じたくないと言っていても、この状況は変わらないし、否が応でもその事実を理解せざるを得ない。

「あー…藍色の珠は持って行かれちまったが、始まりに戻すには必要なもの、ってか」
「貴様、なんということを…!」

声を上げたフラダリさんのことなど意に介した様子も見せず、アオギリは何もいなくなった湖を見つめる。
カイオーガは復活し、コトアが最初の被害者になった。たったそれだけの事実が俺を強く揺さぶる。俺が止めなければいけなかったのに。

やっぱり俺はあいつみたいにはなれない。カイオーガを止めるだとか、そんなことがしたいわけじゃなかったけれど、それでも違いはまざまざと見せつけられてしまうのだ。

あいつはきっとここで立ち上がれるんだろう。
でも俺は違う。先に続く道が見えなくては、こうして現実を受け止めることすらできない。…己の非を認める勇気もない、ただの子供だ。

と、またも張り詰める空気を裂くようにして響いた音があたりを支配する。誰かの通信機器が鳴っているようで、どこかで耳にしたようなメロディに意識を持って行かれた。
原因の通信機器を取り出したのはアオギリだった。

「…外にいる団員からの連絡か」

最早勝者の余裕を見せている男は、笑みさえ浮かべてその電話に出る。そして何度か頷いて間もなく表情を変えた。

「なんだと…?予想以上の…!?」
「!」
「バカな…これで完全にゲンシカイキしたら――
とっ…とにかく!様子を見ていろっ!」

焦りが見える表情に危機を察したのか、フラダリさんがアオギリに歩み寄って口を開く。「外で何が起きている」
その問いに明確な答えは示されず、アオギリは「どういうことだ」「ポケモンたちにとって理想の」と途切れがちに一人言を紡ぐばかり。その様子から、今起きていることはアオギリの予想していたものよりもはるかに酷い被害を受けていることが分かる。

「…やはり、私たちの予想は正しかったようだな。
カイオーガのもたらす始まり、それ即ち――この世界に存在するすべての生物を、死に追いやること!
この先に待っているのは、逃れることのかなわぬ絶望…ただそれだけ…超古代ポケモンのチカラを操るなぞ、あまりにも無謀な考えだったのだ」

マツブサの言葉にアオギリが肩を揺らす。さっきまで勝者としての余裕を見せ、体を何倍にも大きく見せられていたその男が、今度は一回り小さく見えた。
それにどこか既視感を覚えるも、記憶を深く掘り下げる暇もなくそばにいたフラダリさんが口を開く。

「とにかく、ここに留まっていては危険だ。先に外に出たほうがいい」

あまりにも冷静な判断に俺の思考が固まる。
確かにここにいるのは危ない。今まで耐えてきたといっても、これからの天変地異に耐え切れるほどの力がここに残っているのかさえ分かっていないのだから、脱出という手段を真っ先にとることは何もおかしくない。

けれど、コトアは。飲み込まれていったコトアはどうするっていうんだ。
この湖の中にまだコトアがいるかもしれない、そうなるとここで何もしなければ死んでしまうのはここにいる全員がわかっているだろうに。
せめて俺だけでも残ることができるなら。そう口にしようとする俺の思惑を読んでいたのか、フラダリさんは首を横に振った。

「わかってくれ」

腕を引かれ、入口のほうへと連れて行かれる前に、最後のあがきのように湖の方向を振り向けば、後ろをついてきていたアオギリがほんの少しの間だけ湖を見つめていた。

そのとき、俺は何に既視感を覚えたのかを理解した。
アオギリが何かの過去に囚われ執着しているあの様は、前世を捨てきれない今の俺と似ているのだと。