あなたの心を知っていた
導かれるように祠へ一歩近づく。
このまま祠に行っても、何も解決しないことはなんとなく予想がついた。中途半端な覚悟しかできないまま行っても逃げ帰ってくるだけだ。でも大人たちはそんなことを気にしないらしい。
操り人形のようにふらふらと足を動かしていると、誰かが橋を渡る音が耳に届き、その後間もなく大声で俺の名前が呼ばれた。「シズクくん!」
「ハルカ」
あまりにも聞き覚えのある声に、おぼつかなかった足を止めて振り返ってしまう。そこには息を切らしたハルカがいた。
ハルカは俺と同じほど濡れた服を気にすることもなく、俺が気づいたことを素直に喜んでいた。よかった、まだ話せるみたいで、途切れがちにそう聞こえた。
「ルネの周りが大変って聞いて、そしたらテレビナビにシズクくんの姿が映ってたから、もういても立ってもいられなくなって飛んで来ちゃった!」
ハルカの言葉に毒気を抜かれる。こんなときでもテレビが放送されてるって、呑気というか。
けれどきっと呑気なんかじゃないんだろう。俺は自分が映っていることを知らなかったが、この異常事態が流されているのならカイオーガが復活したことも知る人が出ているはずだ。
ここまで来るのも大変だったはずなのに、ハルカはこうして俺に会いに来てくれている。その事実は嘘偽りなく嬉しいと感じられた。
沈んでいた俺の気分が浮上したのがわかったのか、それともわからないまま本能に従ったのか、ハルカはいつもと変わらない笑顔を浮かべたまま話を続ける。
「なんていうか、その、いろんな意味でびっくりすることばっかりだよ!
きっとあたしが想像つかないくらいすごいことが起きてるんだよね…」
だから、何もきかない。
「あたしはあたしで、いま自分にできることを探して頑張ってみる。そしてずっと、シズクくんが無事でいてくれること、お祈りするから!
だって…だって!一番の友達だもん!」
息が詰まった。
そうだ、ハルカは知らない。俺がなんでここにいるのかも、今どれほどのことが起きているのかも。ハルカは俺の知っている"ハルカ"じゃないんだ。
途端に不安になった。もしこれで失敗してしまったら、ダイゴさんはこの何も知らないハルカを祠に向かわせるんだろうか。
戸惑いがちにダイゴさんを見やる。本人は向けられた視線の意図が察せられないらしく、不思議そうに首をかしげている。当然だ、彼だって記憶がないのだから。
「…シズクくん?」
一向に返事をしない俺に疑問を持ったのか、ハルカは俺の名前を呼んだ。
早く返事をしないと。俺は大丈夫だから、早く逃げろって言わないと。無茶はするなって、それで祠に行かないと。
簡単な言葉のはずなのに声が出ない。重石を付けられたように足も動かない。早くしなきゃいけないのに、カイオーガだって俺が止めなきゃいけないのに。
動け、俺の体。こんなところで立ち止まってなんかいられないんだろ。はやく、はやく俺がなんとかしなきゃ…
『いい加減動け』
気づいたときには左の頬に鈍い痛みが走り、俺は地面を転がっていた。
何が起きたのか分かっていないままに起き上がると、そこにはもう見慣れたと言ってもいいほど行動を共にしてきたリオルが仁王立ちしていた。
さっき預かったばかりのボールから早速出てきてしまったらしい。この頬の痛みもこのリオルがやったに違いないということがすぐに理解できた。虚しい信頼関係だ。
リオルは起き上がっただけで動かない俺から視線を外し、さっさと祠のほうへと歩いて行ってしまう。しかもその祠に手をかけて…って、
「ちょ、ちょっと待てよリオル!」
いくらなんでもためらいがなさすぎる。なんで一人で行こうとして、しかもそんなに何でもないような素振りで。
慌てて入ろうとするリオルを引き止めれば、そいつはかなり迷惑そうな表情を隠しもせずに俺を見る。なんで止めるんだとでも言いそうな顔だ。
いや、だって、まだ俺なら分かる。一応耐えられるかもしれないスーツを持っているし、周りからは俺が行くように言われてるんだ、俺が行かないという選択肢はない。
でもお前、ただ俺に託されただけのリオルだろ。不本意ながらも俺のポケモンになっただけの、なんの関係もないポケモンのはずだろ。なのになんでそんなに何でもないことみたいに先に進もうとしてるんだよ。
「先に進むの、怖くないのかよ」
死ぬかもしれないんだぞ。お前だって俺と同じでダイビングも使えないだろ、ショックを緩和できるようなものだって持ってないくせに。
俺の言葉のあと、誰かが息を呑んだ音が聞こえた。
「俺は…怖い」
雨の中で、それだけが重く響いた気がした。
言葉として口にするのが憚られた感情を外に出すと、今まで抑えてきたものが全部溢れそうになる。視界は滲み、声はみっともなく震えて、まとまらない言葉が次々に口から飛び出した。
「死ぬかも知れないってなんだよ。大丈夫って、俺ならできるって、何を根拠に言うんだよ。
…俺、普通の子供だったはずだろ?あいつみたいに勇気があるわけじゃない、コトアたちみたいにバトルが強いわけでもない。事件に関わっただけの、どこにだっている子供だっただろ?」
預かったリオルが特殊だったからだろうか。今まで散々事件に関わってきたからだろうか。
俺はコトアより弱い。アオギリの思惑も止められず、カイオーガを復活させてしまった要と言ってもいい。
でも、それでも周りは俺を持ち上げる。俺しかカイオーガを止めることはできないって言いながら、俺をずっと殺そうとする。…ただのトレーナーの、シズクを。
「セレナは選択肢をくれた。俺に逃げてもいいって言ってくれた。
でも、みんなは俺なら止められるって言う。嫌だって逃げ出す選択肢を与えてくれない、許してもくれない。…正直、それが何よりも苦痛だと思った」
逃げてもいいんだと、せめてそういってくれれば、きっと俺はちゃんと覚悟を決めて祠に足を踏み入れたと思う。ハルカの鼓舞に心を舞い上がらせて、世界を救ってみせるんだって。
でも、それすらも与えてくれない彼らは。俺が失敗するといったい誰を犠牲にするんだろうか。
「怖いんだ、リオル。俺、独りで死にたくない」
カイオーガなんかと戦いたくない。
スーツは未完成で、カイオーガと戦う前に死ぬ可能性だってあって。でも逃げ道はもう残っていなくて。
あいつの代わりに果たす使命なんだってこともわかっている。どんなに泣いても喚いても、結局俺は祠の中に入るんだと。
でも、海底洞窟で、あいつならきっとできたはずのことが俺には無理だとわかってしまった。俺は無力な人間のままだったんだ。こんな大層なこと、できない。
置いていくのも、置いていかれるのも嫌だ。一人だけで死にたくない。
折角この世界もいいものだって思えてきたのに、本意でなくても記憶も少しずつ思い出に変わってきているのに、ただそれを享受するだけの日々も、意味を探すことさえも許されないのかと。
シズクくん、誰かが俺の名前を呼ぶ声がする。もう耳慣れてしまった、"ユウキ"じゃない、この世界の俺の名前。
『独りじゃないだろ』
腕を引かれる。
祠の前にいたリオルが、いつの間にか俺の前に戻ってきていた。
『俺も、お前の相棒たちもいる。だからお前は死なない』
行くぞ、と、リオルは俺の前を歩く。なんてこともないように、いつもうだうだと悩む俺を引きずっていくのと同じように。
俺の心の吐露を聞いても、リオルは変わらなかった。俺が死なないって、そんな保証もないくせに。
祠の前に立ち、扉に触れる。どういう仕組みかわからないが自然に開いたそこに、一歩。
「シズクくんっ!!」
踏み出したところで、ダイゴさんが俺を呼ぶ声がした。
「ボクは…ボクたちは、そんなつもりじゃ…」
わなわなと震える口から言葉がこぼれる。彼の愛する石のように綺麗な瞳には多大な罪悪感を滲ませて。
そこでやっと、俺は自分が犯した失言に気づいた。俺がいった言葉は、この場にいる全員を責めているのと同義であったと。俺はただ自分勝手なことを告げてしまったのだと。
でももう、謝る時間はなかった。
「…行ってきます」
無情にも、祠の扉はそこで閉まった。
祠の中は雨音も聞こえず、重苦しい沈黙を貫いている。