きっと悩みは誰だって
ぴちょん。
俺とリオルの足音だけが支配する空気の中、どこからか染み出た水が石を伝って地面に落ちる。
無言で歩いていた俺たちだったが、その音で張り詰めていた糸が切れたような気がした。沈黙ばかりの重い雰囲気が少しだけ和らいだような、集中力が途切れてしまったような、そんな曖昧なものが。
隣で無言を貫いていたリオルもそれは同じだったらしい。ふう、と息を吐いた気配がして声が響く。
『良かったわけ?』
その言葉の意味が理解できず、思わず「何が」とこぼしてしまう。その返答はリオルにしては珍しく歯切れの悪いような、要領を得ない答えだった。『色々と』
「…多分、良かったとか悪かったとか、そういう問題じゃなかったんだ」
言葉をまとめきることもできないままリオルに答えを渡せば、そいつはまた沈黙した。
最初からわかっていたことだ。そうすることが最善だとか、俺の意思がどうだとか、ダイゴさんたちがどう思っていたとか。そんなことで世界の造りが変わるわけじゃない。
おそらく、俺がハルカの居場所に生まれてきた時点で運命は決まっていた。この運命を「ハルカが為すべきだった使命」と考え受け入れずとも、俺はこの場に立っていたんだろうことがなんとなくわかる。
だから、祠に入る前のあれは無意味な足掻きだ。
俺が俺たる弱音、言ってはいけない最悪のワード。それをもってしても、こうして祠に入っているのだから、運命の強制力はすごいとしか言えない。
「俺にしかできないことだ。だから、俺が行くしかない」
『…』
「…祠の前で言ったことも、紛れもない本心だけど」
何もしなかったせいで誰かが犠牲になるなんてことだけは避けなくてはいけない。それが茨の道であろうとも、ここまで来てしまったのなら。
ここまで来て大事な人たちに丸投げしてしまえば、後悔するのは確実だった。そんな罪悪感まで抱え込みたくない。
ダイゴさんたちはきっと後悔の念に駆られているだろう。けれど、それと俺の苦労が等価であるというのなら、それはそれで抱えていてほしいと思うことくらいは悪くないはずだ。
俺だって聖人君子なんかじゃない、ただのトレーナーの卵なんだから。
『紅色の珠、持ってるか』
長い沈黙の後、口を開いたリオルから聞いた言葉はそれだった。
紅色の珠とは送り火山で預かった紅い珠のことだろう。しかしその存在をリオルに話したことはない、むしろリオルに言われてやっと思い出したくらいに隅に追いやっていた代物だった。
肯定代わりにカバンから取り出せば、リオルは珠を確認してひとつ頷いた。
『紅色の珠はカイオーガの力を中和できる。多少は水流がマシになるはずだ』
「…え、」
『それと、先に言っておくべきだと判断したから言っておくが、』
コトアはおそらく生きている。
いきなりの暴露に対し、理解の追いつかない頭に追い打ちをかけるリオル。いや、ちょっと待て、コトアが生きてるって何を根拠に。
置いてけぼりを食らってしまいそうになっていると、それなりの時間を過ごしてきたからか、リオルはそもそも全てを理解していないことを悟ったらしい。事細かに…とは流石に行かないが、大まかに出来事を語ってくれる。
曰く、アオギリの持っていた藍色の珠は偽物だった。
最終的に手放してしまったそれはただの青いガラス玉だったらしく、今頃海の底で眠っているか、その身を粉々に砕かれて沈んでしまっているはずである。
なお本物はコトアが所持していた。
曰く、コトアは藍色の珠を使ってカイオーガと接触しようとしていた。
リオルでは目的や意図を聞くことができなかったらしいが、とりあえずそれは確定だという。この出来事も、おそらくはコトアの想定内だっただろうと。
曰く、コトアは万が一自分が失敗した場合に備えて俺にリオルを託した。
どうやらポケモンを大事にする、という認識はあながち間違っていなかったようで、リオルのこともある程度信頼しているらしい。カバンを預けたのもおそらくポケモンのためだろうとのこと。
紅色の珠は力を中和できる。だが、藍色の珠でも力の制御くらいなら可能らしい。
とはいえその制御にはかなりの疲労が伴う。藍色の珠で制御をするよりも紅色の珠で中和したほうが比較的楽、かつ安全に進めるらしい。
コトアも最初は紅色の珠を使って何らかの作戦を実行しようとしたが、アオギリが藍色の珠を欲し、紅色の珠を不要と判断していたため、藍色の珠しか持って帰ってこなかった。
その誤算を無理矢理に大丈夫だと判断し、今回の暴挙に…というところまでは本人から聞いたそうだ。俺が紅色の珠を持っていることはそのときに聞いたらしい。
『つまり、コトアはこの先にいる。お前が来て、カイオーガを止めてくれることを信じているんだ』
「…それは、ダイゴさんたちみたいな期待か?」
コトアが生きていることは喜ぶべきところなのはわかっている。だが、そいつもまた俺にそんな期待を向けられているとは思いたくない。
よほどひどい顔をしていたのか、リオルはなだめるように背中を叩く。
『お前が止めに行かなくても、自分の身を挺してでも止めるつもりさ。…英雄だから』
はっとしてリオルを見れば、そいつもまた苦い顔をして下を向いていた。その表情から、少なくともそれを享受していないことくらいはわかるが、それ以上は何もわからない。
英雄。誰しもから憧れられる正義の象徴。きっと俺なんかよりもよほどヒーローみたいな振る舞いができるんだろう。俺はその言葉が何よりも重く感じてしまうけれど。
『カイオーガがどんな脅威かなんて知らない。それでも俺は今、コトアに会いに行きたい。
まだ聞けていないことを聞きたいんだ。…どうして俺を、置いて行ったのか』
どうして野生に返してくれなかったのか。
コトアは一体何を考えているのか、頭の悪い俺にわかるはずもない。俺よりも聡いリオルにわからないことならばなおさらだ。
だからきっと、俺たちは進まなくちゃいけない。コトアのためにも、リオルのためにも、そして俺のためにも。
それぞれの抱えた"何か"を終わらせるために。
『その答えが、もし…』
ふと、意識をよそに飛ばしていて言葉を聞き逃してしまった。
何か言ったことは確実だったので、なんだと問いかけたが、リオルはゆるゆると首を振ってもう一度その言葉を発することはなかった。
『今はカイオーガのほうが先だな。進もう』
そうやって進んでいくリオルを見て、なんとなく思う。
リオルはきっと気づいていないことだろうし、言わなくてもいいことだろうけれど。きっとリオルもコトアに憧れていたんだろうな、と。
根拠のないことではあったが、きっと間違いではないんだろうと、そんな考えが俺の頭でくるくる回っていた。