伸ばした手は振り払う

ポケモンも何もいない祠の中、奥に進むほど強くなっていく揺れを感じながら、丁寧に舗装された道を歩いていく。
揺れが強くなってきても落ち着いていられるのは、カイオーガが俺を待っているだろうことがなんとなくわかったからだ。走っていかずとも、俺はカイオーガに出会える。

そうした根拠のない確信を元に最下層へと降り立つ。出迎えてくれたのは、恐ろしいまでに綺麗な海水で満たされた湖だった。

もらったばかりのアクアスーツに身を包み、その湖に近づく。
あたりの揺れがより一層強くなり、水面に青黒い影が浮かび上がった。それが見覚えのあるポケモンのもので、ある意味安堵さえ覚えてしまう。

ざぶり、大きな音を立てて波が湖から飛び出した。同時に揺れが縦に横にと体を引っ張って、バランスを崩した俺は地面に倒れ伏す。
そのときだ。

「ぎゅるりぃいいおぉおお……」

金切り声。びりびりとスーツ越しに伝わってくるその声が恐ろしいまでに空気を変える。
湖に出現したのはカイオーガだった。巨体とはアンバランスな小さい目が、何かを探すようにぎょろりと周りを見渡す。ざぶざぶ、小刻みに揺れた拍子に波が起こり、自分の足や周りの石にぶつかっては弾けて消えた。

こちらに目が向いたのは一瞬。

その目に浮かんでいた感情が、底冷えした何かに変貌する。
何もしていないのに変わった感情に引け腰になった。深い心情はわからなくとも、その目は…カイオーガは、俺に興味がないことを雄弁に語っている。

お眼鏡に適わなかったのだと、否応なしに自覚させられた。

「そんなのって…」

そんなのって、ないだろ。

思わずこぼれてしまった言葉は苦々しかった。
全てを任されて、死ぬかもしれないと無駄に足掻いて、それでも自分を奮い立たせてなんとかここまで来て。なのに、肝心のカイオーガにお呼びじゃないと俺の存在を否定されるとか。
カイオーガはグラードンと戦いたいだけで、俺みたいなちっぽけな人間なんて目に入っていないんだろう。世界が滅びようとも、人間が住めなくなろうとも、そんなものは関係なく、ただグラードンと戦うためだけに。

ハルカはこのカイオーガを鎮められて、挙句の果てに捕まえてすらいたけれど、俺がそんなことを成し遂げられるとは到底思えない。
それでも、やるべきことは一つしかない。

青い体躯がこちらに背を向け、ゆっくりと透明な湖の中に沈んでいく。
スーツと荷物を手で軽く確認し、紅色の珠のことを強く思い描いて、俺は消えつつある背中に手を伸ばした。


―――
――――

水から出た、と思った次の瞬間には、体は地面を転がっていた。
スーツは衝撃吸収の役割を備えてなかったようで、転がった衝撃で体中に鈍い痛みが走っていた。立ち上がることはできそうだがいつもよりゆっくりになってしまう。

呻きつつどうにか立ち上がり、スーツが破れていないかを確認する。破けていれば帰るときの水中突破はさらに難しくなるだろう。
幸いにもスーツに穴は空いていない。しかしボールは自分の体と同じくスーツに包まれており、モンスターボールを取り出そうにもスーツが邪魔をしてくる。

悪戦苦闘しながらスーツを脱ぎ、広がった視界で周りを見渡した。

美しい場所だった。ありきたりな言葉で表すならそうなるだろうな、と、今まで見たこともない景色を目に映して思う。
濃い霧が漂う中、何かの牙のように生えている石が目に入る。暗く光るその牙の奥がさまざまな輝きを発していて、まるでどこかで聞いたオーロラというもののように見えた。あの光は何かのエネルギーだろうか。

地面にもいたるところに水色の透明な結晶が飛び出していて、オーロラの光を不気味なほど美しく反射している。そばにあったものを触れば冷やかな温度が指から伝わった。
カイオーガはオーロラの下にある湖に鎮座していた。こちらを見ることもなく、ただ上空で輝く光を浴びるようにそこにいる。

ふと、カイオーガとは真逆の地面が目に入った。岩の向こうに茶色い何かが落ちている。そこまで考えて、それが違うことに気付いた。

「コトア!」

コトアと一匹のポケモンが岩陰に倒れ伏していると、頭で理解するよりも早く体が動いた。
慌てて駆け寄り、体の状態を確認する。かろうじて呼吸はあるが、どちらも傷だらけで意識はなく、コトアは俺と同じように地面に投げ出されたんだろう、切り傷よりは打ち身が目立つ。

あいにく打ち身に効くような薬は持っていない。それどころか、コトアがここにいること自体祠に入ってからだったので、人間用の治療用具なんて持ってないに等しかった。
ポケモン用の傷薬は効くだろうか、不安に思いつつとりあえず吹きかけてみる。傷に染みたんだろう、体が時折痙攣するように跳ねた。

コトアの治療を終え、ポケモンのほうにも傷薬を吹きかける。こちらも打ち身が多かったが、おそらくバトルで傷ついたものだということは察しがついた。
ボールからリオルとフレアを出す。

「コトアの体が冷たい。フレアはあっためてやってくれ、リオルはこいつにスーツを」

俺の言葉に一も二もなくうなずいたフレアに対し、リオルは渡したスーツを握ったまま、目線で疑問を訴えかけてくる。
お前は、と。

「俺は、カイオーガを倒してくる」

やると決めた、やらなきゃいけない。崇高な使命感なんか祠の前に捨ててきた。拭えない違和感も、過去に対する執着も、ここにはいらない。
リオルが何かを言葉にしようと口を開くが、実際空気を震わせたのはただのため息だった。

ただの憂さ晴らしだ。カイオーガに対する、ただの虚しく身勝手な八つ当たり。
きっと目の前のポケモンが何も言わないのは何を言っても無駄だとわかっているからだろう。俺はそれに甘えて、そして文字通り命を賭けるのだ。

「骨は海に沈めてくれ」
『縁起でもないことをいうな』

ただの冗談に低い声で返されて、たまらず乾いた笑みがこぼれた。

ああ、うん。腹いせが終わってから、俺も含めた全員が無事だったなら、そのときはまたリオルも一緒に旅をしたいと思うことだけは許して欲しい。
きっとそれも叶わない願いだろうけどさ。