泣き叫ぶその声を聞け
カイオーガのタイプは水。フレアは炎タイプだから苦手とするだろうが、今はリオルと共にコトアを任せている。仮に水が押し寄せてもリオルが対処してくれるだろう。
いつの間にか、何をするわけでもなく、ただこちらをじっと見ていた伝説のポケモンは、近づくといくつかの小さな波を起こした。
「勝負だ、カイオーガ」
俺の言葉が終わると同時、カイオーガがその小さな目を閉じた。
一瞬の静寂。
また無視するつもりかと声を張り上げようとして、その考えが間違っていることを悟った。
全身が粟立つ。つるりとした青の巨体がガラスの結晶のようなものに包まれ、反射か、中身が透けず黒くなっていく。
じわりと巨大な宝石に滲み出た文字は、俺でさえ知っている…――
「α」
宝石が割れ、空気に溶ける。
現れたカイオーガは、ただでさえ圧倒的な美しさを見せていたその体躯を優美に彩り、元々海の色をしていた青を深縹色に変えていた。
模様のように走っていた赤い線も、今では浅瀬の水のように薄い水色になっている。まとっていたオーラやこぼれる力の大きさは、身を隠す前より格段に上だった。
無視なんかしない、抹消しようとしに来ている。背筋を冷や汗が伝った。
これが伝説たる所以。封じられ、語り継がれてきたポケモン。生半可に立ち向かうことすら許さない鋭い光がその瞳に宿っていて、気合を入れていなければ立つことすらままならない。
こんなのを相手に、よくもコトアは体が残っていたものだと思う。ハルカなんて連れ帰ってきたのだから、その実力は推して知るべしだ。
だがひるんでいる暇はない。喧嘩を売ったのはカイオーガではなく俺のほうだ、今更怖気づきましたなんて笑い話で済む問題じゃない。
震える手に気づかないふりをしながらボールを投げた。
「タネマシンガン!」
ボールから光が放射される中、叫んだ指示の通りに小さな爆弾がカイオーガを襲う。様々な種子がなめらかな肌にぶつかり弾け、多分にある水を散らばらせた。
これだけで終わるとは最初から思っていないため、コノハに次の指示を出して勢いよくこちらに飛来する水を振り払う。雨のせいで元から濡れているが、これ以上濡れると体温が心配になる。
すぐに終わった爆発の後を追うように種子が叩きつけられる。青い肌に付着するかどうかというところでそれが芽吹き、凹凸のない体に根付いて形を変えた。やどりぎのタネだ。
頂点辺りには上手く根付いたが、ほかの部分は水に流されるか、カイオーガの自慢のヒレで引きちぎられたりと、体力が奪えそうなところはほとんど排除されてしまった。しかし一つでも付いたのなら僥倖といったところか。
苛立ったようなカイオーガのひと睨みでコノハの体が硬直する。内心舌打ちをしてボールの開閉スイッチを押し、コノハと離れた地面に放り投げた。
白い煙と共に飛び出したポケモンはライラ。草タイプではないにしても、その技の一部は扱える。
「ライラ、電磁波!」
コノハを戻すことはしないままに指示を出す。
すっかり怯えてしまったコノハからライラに視線を移されるが、その動作はひどく緩慢だ。
びりびりと静電気よりは強い電流が相手の体を覆う。間髪入れずにマジカルリーフを指示してコノハに近づけば、コノハはためらうようにこちらを見た。その目は攻撃への戸惑いを見せている。
カイオーガには敵わないと言いたいのか。いや、そんなはずはない。確かに強いが勝てないわけじゃない。だって、だってあいつは。
青い体躯の周りを鮮やかな光が舞う。葉の形をしたエネルギー体が次々にぶつかり切り傷を作っていくものの、相手はそれすら気にする素振りを見せずにざぶざぶと海面を叩いている。飛んでくる飛沫が先程よりも冷たくなっているように思えて気持ちが急いた。
電磁波がまともに効いているようにも思えない。十万ボルトを口にして、ライラに攻撃が当たらないようコノハを前に出した。
「ベノムショック!」
紫色の液体が当たる。じゅわ、肉が焼けるような音とともにカイオーガの口からうめき声が漏れた。よし。
心なしか動きが鈍いコノハに違和感を覚えながらも、次の指示を飛ばすために口を開く。いや、開いたはずだった。
「ぎゅるぅううううおおおおおお……」
大地を揺らすほどの轟き。開いていた口が自然と閉じて歯を食いしばり、前に向けていた腕は手のひらを耳元に持っていく動きになる。
身を竦ませるほどの声量のそれは、俺がこの場所に来て受けた洗礼とは少し違った色合いを含んでいた。途端にコノハが大きく体を震わせて動きを止め、ライラも怯んで溜めていた電気エネルギーを霧散させてしまった。
笑う膝を叱咤し、根性だけで新しくボールを掴む。
攻撃の手をとめちゃいけない。カイオーガは叫んだだけで、俺たちに攻撃すらしてこない。油断をしているうちに倒さなければ、あの青く澄んだ体を海に沈めなければ、世界は終わってしまうのだから。
ライラが指示を仰ぐようにこちらを見た。遠目でもわかるほど震えていて、目にはコノハと同じ困惑の色が浮かんでいる。お前もか、ライラ。
震える口を無理矢理動かした。声帯が震えず、ただの空気が喉を通りすぎていく。
俺の戦闘意欲は、技でもなんでもない、ただの遠吠えだけで削げてしまった。
「……あ、あ」
口の中がざりざりして気持ち悪かった。まだポケモンを全員出し切っていないのに、俺はどうしようもなく負けを認めてしまっていた。
やっぱり俺じゃダメだったのだ。ハルカじゃなければ、あるいはコトアに手伝ってもらわなければ、カイオーガは止められない。どんなに期待されたって、俺は結局一般人の域から出なかった。
全身が濡れている。海水だけでなく、自分の冷や汗も相まって衣服をべとつかせていた。
青水晶が周りで輝きを増す中、俺はカイオーガの影に隠れ、暗い世界にいる。その小さな目に映る姿は情けない男の姿だろう。
ダメだった。世界も、俺の人生も、せっかくの覚悟も、何もかもが終わってしまう。
『甘ったれるな!!』
悲鳴が漏れる直前、いきなり耳を叩いた怒号に体を震わせた。
『終わりじゃない、終わらせてたまるか、お前、アンタは、アンタが諦めたらどうなると思ってる!』
「…り、」
リオルが、こちらを睨んでいた。
俺と同じように全身を濡らしたリオルは、息を荒げて俺を非難する。いつもと違ったちぐはぐな言葉の刃が容赦なく俺の心に突き刺さった。
『世界が終わるなんて誰が決めた』
じゃぶ、いつの間にか増えていた水かさを気にすることなく、リオルはこちらへ向かってくる。靴がぐしょぐしょで気分は最悪だった。
『アンタが死ぬなんて誰が言った』
リオルの後ろにフレアの姿が見える。コトアを岩の上に避難させているらしい、弱った様子が見られないことには少しだけ安心した。
『その覚悟が無駄なんて、誰が思ったんだ!』
胸ぐらを掴まれる。
『カイオーガの声をちゃんと聞いてやれ』
真っ直ぐと俺を見る目に、泣きそうになった男が映っていた。リオルの目に迷いはなかった。
その丸い目に映った男の表情に躊躇いが生まれていた。胸ぐらを掴んだ相手は、首を小さく動かし、カイオーガがいるほうを示した。
想像していたより、カイオーガは傷だらけだった。よく見ると、俺が指示してつけたものではない傷もちらほら存在している。コトアがやったんだろうか。
俺たちを覆う影を見上げる。見下ろしていた鋭い目は閉じられ、大きな口からは呼吸音とか細い鳴き声がこぼれていた。きっとリオルが聞けと言ったのはこの声だ。耳を澄ませる。
「――ああ、そういうことだったのか」
ぼとり。目尻に溜まっていた涙は海水に溶けた。
なんだ、こんなに簡単なことだったのか。俺はなんてバカなことをしてしまったんだろう。
『は、る、か』
カイオーガも俺と一緒の、ただ世界に取り残されただけの生き物だったのだ。