木兎という男
何も知らないふりをしていたけれど、私は隣の住人のことを知っていた。
木兎光太郎、都内の有名スポーツ大学在学。学年は私の一つ上、男子バレー部所属。今後大きな怪我をしなければ実業団入りは確実と言われている。
性格は浮き沈みが激しいけれど明るく素直で、愛嬌もあり、人から好かれやすいタイプ。顔立ちも整ったものだ。いつもワックスで上げているのだろう髪は下ろすとかなり大人びるし、勉強の成績もそんなに悪くはない…――
「…けど、日常面においては頭が悪い?」
呟いてため息。
今、手元にはおいそれと口にしてはいけないものがある。隣人から渡された袋の中にまた別の袋が入っていて、そしてその中にぽつんと一つ鎮座していたものである。
乾電池で動く類のものなのか、充電口は見つからず、代わりに電池を入れる部分の蓋が存在を主張していた。スイッチを入れる。ウィンウィン、機械特有のおぞましい音を立てて上下左右に蠢いている。
「…えっ、何に使うわけ、これ」
あの、木兎光太郎が。このおぞましい機械を。どうやって?
「いや、いやいや、…うん」
彼女がいるのならその人に使うんだろう。まさか本人が使うなんて、そんな蛮行。きっと彼女がいるんだ。そう思う事にする。
…木兎光太郎、大学四年。高校の頃から彼女はいない。自然と彼の遍歴が頭に浮かんできたが無視した。ええい、私の理論を否定するな、現実め。懲らしめてやる。
音を立てて動き続けるそれを呆然と見守っていたが、そういえばと部屋の壁が薄かったことを思い出す。血の気が引く。
私が、この…この、おぞましい物体を、あろうことか起動させていたことがバレたら。
入っていた袋を引っつかみ、投げるようにしてそれを叩き込んだ。
念のためとドンキの袋の口を広げて投げ入れ、一緒に入っていたお菓子とおもちゃの大半をそこに詰め込んだ。巨大なマシュマロだけはもらった。
それに自分が買ってきた食べ物(特に今日安かったイカと芋の天ぷら)を詰め込み、着の身着のままで部屋を飛び出した。すぐ横にあった扉のチャイムを連打する。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
「そんなに押さなくても聞こえてるっつーの!」
苛立つように開けられたドア、持っていた袋を上に押すように突き出したのはもはや反射といって差し障りはなかった。
固い感触。吹っ飛ぶ男。
見事不意打ちの1発が入った瞬間だった。
―――
――――
「本当にごめんなさい」
崩れ落ちた男にひれ伏す。扉は閉めた、木兎光太郎の部屋の入口でのやりとりだ。
「こんなことをするつもりはなかったんです。だからなにとぞ、命だけは」
「とらねーよ!」
とらないのか。
木兎光太郎は私の命はとらないけど、私は木兎光太郎の言質が取れたのですぐさま気分を切り替えた。命あっての物種、とりあえず死ななければいいのだ。
起き上がった木兎光太郎と顔を上げた私。そのちょうど真ん中に鎮座する例のブツ。イカ天や芋天をかき分け、厳重に包んだ袋越しにそれを確認して一つ。
「マシュマロとか、お菓子は嬉しかったんです。本当です」
「?おう、じゃなくて、はい」
「でもさすがに、これは受け取れないなって」
ずるり。強く掴んでいたからか、引き出すときにスイッチを押してしまったのか、引き出すと同時にうねり出すそれ。袋越しでもわかる動きに木兎さんの顔が青くなる。
うねる動作が邪魔でスイッチを切ると、私たちの間は重い沈黙に包まれた。
「…これ、あれ?」
「どれでしょう」
「間違って渡してた?」
「渡すつもりがなかったっていうなら、間違いですね」
「〜〜っ!」
ゴン、勢いよく突っ伏した相手が声を張り上げた。「ほんっとーにごめん!」
「セクハラとかじゃなくて!」
「あ、それは、」
「くろおから借りたの忘れてて!」
「あの、」
「さっきの水色の下着のことも!!」
「口に出さないでください!?」
「俺は白が好みです!!」
「見せる機会もうないんで!!」
借りてる人の実名出てるし下着の色を大声で言うのもやめてほしい。木兎光太郎、白の下着が好み。またつまらぬ情報を得てしまった…。
相手がひとしきり叫び、私も口を出したいところだけ叫び終わると、お互い息が切れた状態になった。涼しい時間帯なのに異常な暑さがあった。荒い息はめちゃくちゃうるさいことを学んだ。てれれれってれー、レベルアップ。嬉しくない。
息を整えている合間に、死ぬほど小さい声が私に謝罪をした。ほんとごめん、と。
「…確認せずに受け取ったのはこっちにも非があります。私はただ、それを返せればよかったので」
「でも、し」
「下着のことも気にしてないので!」
掘り返したほうが傷を抉るということを学んでほしい!
「マシュマロはもらったので、私からのものも混ぜてます。消費期限が短いので早めに消化してください」
「イカ天と芋天」
「そうです。はい!この話終わり!それじゃあお邪魔しました!」
「えっ!もう帰るの?」
「用事は終わったので」
「えー!」
まだ何か不満があるのか。
ドアを開けて飛び出そうとする私の足をひっつかんで離そうとしない。踏ん張ってもきつい。くっ、このパワー5リラ(公式のデータより)め。
意地でも帰ってやるとドアノブを掴んだまま抵抗する私に、同じように諦めが悪く這い蹲った状態で足を掴む男が叫んだ。
「名前教えて!」
そんなの表札でも見てろ!碧羽 瑞希だよ!
私が叫んで、そしてこの日の攻防は幕を閉じた。