好きって何ですか
「好きです」
卒業式。
思わずそれを口にしたとき、相手の表情が驚きに染まった。まるで予想していなかったと如実に伝えてくる表情。そのとき私は自分の失言を悟った。
先輩は…―あの人は、私のことをなんとも思っていなかったのだ。
あの人にとっての自分は、ただ同じ部活に所属していた後輩の一人で、他と同じマネージャーで、その辺にいる女子とまったく変わりない存在だったのだ。
そのことを自覚すると同時に顔が熱くなった。胸を高鳴らせた告白なんてものではなく、ただひたすらに恥ずかしいと思った。
先輩に恥をかかせた。後悔になったそれは、あっという間に胸中を埋め尽くした。
告白するんじゃなかった。たかが卒業式なんてイベントに舞い上がって、油断して口にしてしまうなんて。浅ましい想いが親の仇のごとく憎くなる。
ただの後輩でいられたのなら、卒業後も先輩と気まずくならなくて良かったのに。
時間を巻き戻したかった。タイムマシンに乗って、一日前に飛び込んで、それで卒業式をやり直したかった。
「忘れてください」
視界が歪んでいて、先輩の顔を見ることはかなわなかった。泣いてるなんて知ったら慌てるだろうから、上げていた顔をすぐに俯かせた。先輩の鍛え上げられた足は珍しく震えていた。
彼の汚点になってしまうことは許せなかった。もう返事なんてわかりきっている、いっそすべて忘れてほしいと願った。
おい、と、先輩の声がする。声は随分と震えているような気がしたけれど、それを確認する余裕はない。
泣きそうで、悲しくて、この場所から逃げたくて仕方がなかった。自分は失敗してしまったのだ。彼の華々しい門出を荒らし、汚してしまったことが重く心にのしかかっていた。
「お願いですから」
お願いですから、忘れてください。
ひたすらつらくて、もう何もかも忘れてしまいたかった。この人を好きにならなければ幸せになれただろうか。こんな惨めな想いを抱えることもなかっただろうか。
ぐるぐると頭の中で「もしも」が回っていた。タイムマシンなんてものはなくて、人生にやり直しは存在しなくて、それでも頭の中の「もしも」を貪欲に欲しているのがわかった。それがまた、惨めだった。
目の前の彼は、私が泣きそうになっていることを悟ったんだろう。少しの沈黙を挟んで「わかった」とつぶやいた。
醜い感情を持っている私は、その返事にこの上ない安堵を覚えたのだった。
春爛漫、桜が舞い散る一日に、私は大きな失恋をした。
次の日、私が好きだった先輩は、突如として世界から姿を消した。
すぐに自分が原因だとわかった。これは罰だ。彼が遺した呪いだ。この四年間、何度も当時を思い出しては後悔していた。
それなのに、あの日からしばらく経った今でも、私は何度も同じ感情を胸にして、同じ気持ちを返してほしいと願うことがある。
―――
――――
病院の前で木兎光太郎と鉢合わせした。
先日のこともあって気まずかったものの、朝に何事もなかったように接されていたので、あの日のことは何となく水に流したままでいた。が、まさかこんなところで会うとは思っておらず驚いた。
いきなり体の動きを止めてしまったせいで、前から歩いてきた木兎光太郎とぶつかる。相手もぼんやりしていたらしい。
お互いの荷物が地面に散らばり、大きな音を立てて落下したことで向こうも我に返ったらしい。
「ご、ごめん!」
「いえ、こちらこそ」
二人して荷物を拾っていると、なんだか漫画みたいな状況だな、と、少し変な心地がした。
木兎光太郎は私の顔を見た途端に「あ、お隣さんだ」と口にした。一礼を返すと地面に散らばった荷物が目に入る。
湿布、と、薬。彼が出てきた病院の名前が印刷されていた。「怪我、」
「ん?」
「怪我、して」
思わずそんなことを口走っていた。
私の言葉を聞いた木兎光太郎は一瞬状況が理解できないような顔をしていたが、やがて思い出したように大きな反応を示す。
「だいじょーぶ!ちょっとしたら治るから!」
目の前に突き出された右腕。むき出しになった少し白い手首に、負けないぐらい白い包帯が巻き付いていた。腱鞘炎だろうか。
聞けば二週間ほど酷使を禁止されたようで、それに伴ってバレーの練習も控えるよう言われたらしい。木兎光太郎はそれが大変不服といった顔で告げてきたが、まあ、過剰な練習をする彼にはちょうどいいだろう。
怪我の話題で少し重くなってしまった空気の中、私と木兎光太郎は並んで帰路につく。私はこの後に用事なんてなかったし、それは木兎光太郎も同じようだった。
「…もう一個、聞いていいですか」
「なに?」
「薬」
この際だから聞いてしまえ、と、湿布と共に目に入ったそれを話題に出す。この人は気まずい空気になっても次の日には忘れてしまえる人なのだ。
…それと失礼なことをするのはまた別の問題なのだけれど。
隣を歩いていた彼が頬を掻く気配がした。赤葦と同じくらいの身長は、150センチ台の私と大きな差がある。
「高校卒業してから寝つきが悪くなってさ。環境が変わったからかな」
「え」
「まあ、最初よりマシになってんだぜ!今は念のためもらってるってだけ」
念のため、って。念のためで薬…睡眠薬?もらえるものなんだろうか。
環境が変わったって、赤葦の話じゃ大学に入って引っ越しなんてこともしたことないだろう。高校の時は実家暮らしって聞いてるけど、それでも四年、四年も同じ部屋に住んでるくせに。
本当に大丈夫なんだろうか。医学部ではない私には薬の種類もわからないが、相当強い睡眠薬なんて飲んでないだろうな。
不安が顔に出ていたのか、木兎光太郎は苦い笑いをこぼして「嘘。多分、環境じゃない原因だよ」と言った。
「…予想を聞いても?」
おそるおそる尋ねた。
「卒業のとき、こいつになら一生をあげれる…って思ってたやつに、振られた」
拍子抜けな理由だった。
恋、木兎光太郎が、恋煩い。それで四年も睡眠不足。精神的なものが原因で。
想像していたものと違っていたからか、私は随分と呆けた顔をしていたらしい。隣にいた彼が私の顔を覗いて「間抜け面」と笑った。少し楽しそうだった。
「今でもそんときのこと思い出して飛び起きるんだよ。っつっても、顔とか声とか、もう覚えてねーんだけど…薄情なのか執着してんのかわかんねーよな」
「はあ、でも、人が最初に忘れるのって声らしいですよ」
「けどさ、好きなやつだぜ。こんなに早く忘れるもんなのかな」
「…個人差があるんじゃないですか」
言うべきかどうか悩んだけれど、人の古傷を抉ったんだから、自分の古傷を抉るくらい何ともないだろうと思った。
「私も告白して失恋したことがあるんですけど、もうその人の顔、覚えてないんです」
「そーなの?」
「はい。人の記憶力なんてそんなものなんですよ、きっと」
だから執着していても、顔も声も忘れてしまえるものなのだろう。
隣で唸る木兎光太郎から視線を外して前を向く。木兎光太郎は正常だ、まともに生きている人たちの仲間なのだ。
「んー、まあ、そんでさ。そいつのことが過去にできるまで、誰かと付き合いたいとかねぇんだろうな」
斜め上で、日の光を浴びた銀色がきらきらと輝いていた。
綺麗、まるであの人の心みたい。本気で考えたことを内心で嘲笑した。
綺麗な彼は、私の未熟な感情なんて、知る必要はない。
その後は他愛のない話をして帰って、そして何事もなくお互いの部屋に戻った。
隣からがさごそと生活音が聞こえるので、なんとなく一緒にいるような気分になって、私はそれだけで充分だなと思えた。