笑って次の日
家の冷蔵庫には、たくさんの付箋が貼られている。
少し忘れっぽい自分に対して、高校のときの友人が「メモとか貼ってみたら」と提案してきた。その名残だ。明るい黄色の背景に、読みにくい自分の字が所狭しと並んでいる。
用事や重要でないものは期限を過ぎるとすぐに剥がしてしまうのだけれど、何となく引っかかったものはそのまま端っこに貼ったままにしてしまう。
今日も要らなくなった付箋を剥がしてしまおうと冷蔵庫の前に立った。一つの名前が目に入る。
それと同時に目に入った日時に、少しだけ頬が緩んだ。来週の水曜、昼時。
「…楽しみだ」
―――
――――
夜、少し辺鄙なところにある居酒屋で、俺は一人と向き合っていた。
「気になるやつがいる」
俺の言葉に向かい合っていた友人が「ふーん」と返事をした。随分と気の抜けた返事だ。
あ、これお願いしまーす。友人、木葉秋紀が近くにいた店員さんを呼んで注文する。欲目なしに見ても可愛いと思うその女性店員は、営業スマイルを浮かべて「かしこまりました」と手にしていた機械に注文を打ち込んだ。
「なんでそんなに興味なさそうなワケ」
「いや、あんま興味ねーし」
「俺の恋路応援してくんねーの?」
「するする、ってかめっちゃしてる」
そんな心ここにあらずみたいな返し方で信用できるか!
幸いにも個室だったので心置きなく吠えた。木葉の顔がゆがむ。「声でけーよ」そうか、店中に響いてないといいな。俺は別に構わないけど。
「隣に住んでるやつなんだけど」
「おう」
「ちょっとあいつに似てんだよな」
「…おう」
あいつとは、高校のときに俺が玉砕した女の子だ。顔も声も覚えていない、それでもなんとなく忘れられない、唯一の相手。俺が卒業して以来一度も連絡をしていない。当然、相手からも連絡は来ていない。
隣人の碧羽瑞希という女性は、その女の子を彷彿とさせる。
あいつに抱いていた感情が昇華できたかと聞かれると、微妙、と答えるだろう。
不思議なことに、思い出すことはあっても何か思うことがあるわけでもなかった。でも、そのときのことは不思議と忘れられない。夜中に目が覚めてしまうほど強い感情を抱いていたはずなのに、今じゃ「またか」と考えてしまうだけだ。
傷跡は、目に見えて残っている。原因解決の糸口は、年を重ねるごとにわからなくなっていく。それでも。
「いい加減、引きずるのもやめたほうがいいよな、って」
「その割には面影見てんじゃねぇか」
「うっ、そ、それは否定できねーけどさあ…!」
否定できないが、面影を追いかけていても彼女のことが気になったのは事実だ。隣人はほんの少し関わっただけでも惹かれる、そんな魅力を持っている。
「過去になるまで誰かとは付き合わない」。そんなことを言ったのは自分で、だからこそ少しもどかしい思いをしていた。彼女はその女の子のことを話しただけで僅かばかり距離を置いたのだ。
多分、碧羽も俺のことを憎からず思っている。俺がかつての想い人に未だ恋情を抱いていると考えて離れようとしているだけだ。
冗談じゃない、囚われていても過去は過去だ。自分でも笑えるほど傲慢なことに、高校の出来事に思考を奪われようと、自分は碧羽瑞希という存在を欲してしまったのである。
碧羽が望むのなら(俺もいい加減何とかしなければと思っていたので)、俺は長年自分を苦しめてきた問題と向き合う覚悟を決められる。
「…そりゃ本当か?」
「おう」
「で、俺に連絡先を教えてほしいと」
「そのとーり」
ため息を吐かれた。
仕方ないじゃないか。連絡先は交換していたが、高校時代に連絡が途絶えて以降に変更されたみたいで、メールを送ることすらできないのだから。
「この際だから言うけど、あいつ、お前に連絡先教えたくないってよ」
「えっ…そんなに嫌われてんの?」
「俺からメールしとくわ」
「ねえスルーやめて」
店員が運んできたビールを煽りながらメールを打つ様子を見つめる。文面を見せてもらおうと近づいただけで木葉からパンチが飛んできた。そんななよっちいパンチ効くもんかと思ったが黙っておいた。
流行に乗る木葉らしい、カバーのついたスマホが机に置かれた。どうやらもう送信を終えたようだ。
「んで、その気になる隣人にアタックしてんの?」
「…まだ」
「はぁ?なんで」
「や、だってさ、まだ知り合って全然時間経ってねぇんだもん!連絡先も交換してないし!」
勢いよくテーブルを叩いてしまう。ビールと一緒に運ばれてきた焼き鳥と枝豆が一瞬宙で踊った。
木葉の呆れ顔が浮かんで俯いてしまっていると、ふと視界に写っていた焼き鳥の上に二枚のメモが差し出される。癖があっても読みやすい字がつらつらと並べられていた。その字に少し違和感を覚えるも、それは降ってきた声に遮られる。
「ドアにでも貼り付けとけ。片方はお前ん家の冷蔵庫に貼っとくこと」
「へ」
「来なくても気落ちすんなよ」
場所と日時が書かれたものだった。丁寧に隣人の名前と、差出人である俺の名前まで書いてある。日時はバレーにも支障のない一日休みの時で、場所はマンションからほど近い場所を指定されていた。
碧羽の予定は分からないが、俺の予定はまるっきり空いていた。そんな日をチョイスしてくれた友人に感動を覚える。
「〜〜っありがとな!持つべきものは友達!!愛してる!」
「支払い、三分の二お前もちな」
感極まって抱きついたところでそんなことを言われた。うめき声をあげたが渋々承諾した。相談料とその他もろもろ、手回しのお礼と思えば安いものである。
高校のときの女の子と会う日も木葉伝いに決められ、そうして俺は三つのメモをうきうきした気持ちで持って帰ることになったのである。
振られた女の子に会うのは来週の月曜日。
碧羽に会うのはその二日後。
碧羽のためなら過去だって吹っ切れる。ちゃんと話すことができる。浮かれてなかったとしても俺はそんなことを考えていただろう。けれどこの時の俺は酒が入っていてかなり陽気になっていた。
だから、木葉のちょっとした違和感にも気付かなかったのである。