マグロを猫に取られた

届けを提出したとき、あの人は手に取る素振りを見せなかった。
報告がてらに出したものだったから、ついでのように持ってこられたそれを不快に思ったのかもしれない。一応タイミングは測ったつもりだったのに、と、少ない書類に紛れ込ませるように机に置いた。

「死ぬな、殺すな、囚われるな…自分は、規律には従えません」

相変わらずの威圧を発してこちらに視線を向ける男。怖気づくように肩を竦ませて視線を外せば、白い革手袋がぎこちない素振りで俺の届けを拾い上げた。
その人が口を開く。

地を這うような恐ろしい声。配属された当初は毎度男の声に怯えていたのを思い出す。
今はただ落ち着いた壮年の男の声と判断できるようになったが、降谷から聞いた「魔王」という呼称のせいで彼の前に姿を現すことをためらっていた。あの頃がひどく懐かしい。

男の声はしっかり耳に届いているのに、俺の頭の中に入る言葉は何の意味を残すわけでもなく通り過ぎていった。
そういえば、この人は随分と不思議なことを言っていた気がする。なんだったろう。
確か、そう、「なぜ…――」

――「なぜお前がそれを口にする?」


―――
――――
頬にひやりとしたものがぶつかっている。同時に感じる小さな違和感に、どこか建物の床に転がされていると予測した。おそらく違和感は小さな砂粒たちだ。
おもむろに目を開き、何度か瞬きを繰り返す。すぐに慣れきった目が暗闇に照らされた風景を映し出した。同時に両手足の拘束を確認する。

「起きましたか?」

古典的に縄で縛られたものか。丁寧に隠し持っていた道具は回収されているし、鞄もどうやら傍にない。さほど強く縛られているわけではないが…抜け出せそうにもない。相手は捕獲に慣れている。
俺が目を覚ましたことがわかったらしい、どこかから声が響き渡る。聞き覚えのある声に顔をしかめた。

「渡瀬…」

こぼした名前に、相手が笑う気配がする。

「こうも簡単に捕まるとは思いませんでした。仮にも警察だと警戒していたのに」
「おい、渡瀬。これはいったいどういうつもりだ?なぜ俺を縛る?」
「やだな、それくらい考えればわかるでしょうに」

じゃり、話すたびに擦れる砂が肌を傷つけているのがわかる。

いつも通りの返答に冷や汗が流れた。声が震えているわけじゃあない。突発で行われたとは思えない犯行に、いささか危機感を覚えている。
明確な時間はわからないが、この暗さだ。実井たちと約束している時刻は過ぎているに違いない。今日を乗り切っても明日が怖い。

一度、渡瀬との行動を振り返るべきかも知れない。
最初は普通の買い物だった。渡瀬の言うとおり、新しくできたというペットショップを見に行った。ハムスターやウサギと二人して戯れて毛だらけになったし、確か店員にコロコロを借りたのも記憶している。
出かけたのは昼からだったので昼食は済ませていたが、確か休憩だといって近場のカフェに入ったはずだ。ちょうど渡瀬が紅茶に詳しいというので、言われるがままにおすすめを頼んだ。

さほど時間もかからず出された紅茶を口にして、渡瀬といくつか言葉を交わして…―そこから意識が途切れている。

「俺はあなたとは違う立場であり、そしてあなたに利用価値があると判断しました。その結果がこれです」
「…つまり」
「日本警察は本当に詰めが甘い、といえば、もうわかりますよね」

男の言葉に確信を持つ。
置かれている状況も、こいつの立場も、充分なほど教えてもらった。
渡瀬は警察内に潜んだスパイだ。警察として働く傍らでどこかの組織に情報を売り、日本が不利な立場になるよう仕組む。今までの立ち振る舞いは全て演技だったというわけだ。

D課に所属してからはさぞかし苛立っていたに違いない。
何せ窓際部署だ、回ってくる仕事は少ないし、新人に機密性の高いものは任せられない。他課との接触をほぼ絶っている課だ。当然、警察内部の情報が回ってくることもほとんどない。

今年新しく配属された渡瀬の過去を知っている人間、そんなものは結城さんしかいない。実井は波多野と知り合いだったと言っていたが、それだって真偽のほどは定かではないのだ。
信用できない人間には小さな仕事しか任せられない。結城さんからの指示に従って任せたものは、どう見たって新人向けのものだった。

今まで耐えてきたが、じれったくなってとうとう…といったところか。そして一番近づきやすいと思ったのが俺だった、と。

「たとえ巡査として働いていても、あなたは俺より警察の内部機密を知っているはずだ」
「少しは高く買われているようでなによりだ。…教えるものは何もないがな」

考えろ、どうすれば一番被害が少なく切り抜けられる?教えていいものと深層まで潜り込ませなければいけないものの選別は?脱出経路はどう行けばいい?
必死に回っている頭の片隅で嫌な予感が発生する。明らかに扱いがひどく、俺を椅子やソファに座らせる気配もない。響き具合からしても、どこかしらの部屋というより廃工場や倉庫といった場所にしか思えないのだ。

「それじゃあ少し卑怯になってみましょうか」

何を今更。俺の連れ去り方も強引、情報の引き出し方も優雅じゃない。結城さんに言わせればゼロ点に近いだろう振る舞いをしておいて何を言う。
そんな内心が言葉として外に出ることはなく、俺はいきなり上から向けられた光にうめき声をあげた。

「あなたは情に弱い。いくら嫌悪を抱いていようと、仲間なら見捨てられないくらいには、ね」

光の合間に聞こえたそれに、思わず顔を上げて絶句した。
前に転がされている人間がいる。俺と同じくらいの体躯、毎日丁寧に整えられていただろう短い髪。男にしてはやけに赤く薄い唇は、その端正な顔立ちに収まるとやけに色っぽく思える。
そうだ、俺はこいつを知っている。どうしようもなく皮肉屋で、いつも食えない笑みを浮かべては周りをからかう、そんな男を。

「っ、牧野!!」

あらかじめ与えられていた名を忘れ、普段の呼称を口にしてしまいそうなほどに混乱していることは、もう渡瀬にもわかりきったことだろう。
言い直すように俺からこぼれでた名前に、口元を歪めた男が言葉を続ける。

「今ここ、俺の上司もいるんです」
「なっ…!?」
「早く決断してくださいね。まあ、返答次第で死にますけど」

かちゃり。鉄の擦れる音と同時に牧野の頭が影に覆われる。
目の前にはしゃがみこんだ男がいた。顔は影になって上手く見えなかったが、帽子の内側から伸びる銀髪が目を引いてやまない。あいつが上司か。
嫌な予感が当たった、むしろ大当たりを引いてしまったのだと理解して、そして俺はもう一度状況を飲み込むしかなかった。

二人で助かる方法。相手が起きる様子は見えない。さらに俺と同じ手法で縛られた手足を見て、反撃に出るのは得策じゃないと判断する。
反撃に出られない上に、相手はこれ以上話をする素振りを見せない。明らかに脱出の手段をひとつに絞られて歯噛みした。

仕方がない。なるようになれ。
もう考えることも放棄し、俺はなりふり構わず叫んだ。

「わかった、身柄の安全と引き換えに知ってることを話してやる」