イザナミノウミ
結城さんは報告を上げた際、ついでのようにそれを口にした。
「死ぬな、殺すなとお前には伝えたが、とらわれるなと言った記憶はない。無論それに越したことはないがな」
穏やかにとはいかずとも普段より柔らかい声で言われた気がして顔を上げた。仏頂面の結城さんがいるだけで、別に何も変わっていなかった。幻聴かと思うほど。
考えてみればおかしな話である。
俺は結城さんに「囚われるな」なんて言われていなかった、もちろんほかの人間にも。スパイにあるまじき思考なのは確かだったが、その思いはいったいどこから来たのだろう。本来の俺だったらば浮かれてそんなことに気付けなかったのに。
首をひねる俺に、結城さんは退出を促した。
それが異動願を提出した日だった。
―――
――――
「もう帰るんですか?」
片手に収まる程度の荷物を抱えて出入り口に向かっていると、渡瀬が廊下の隅に立っているのが見えた。手には数枚の書類、先日起こした騒ぎの始末書と推察する。
D課が担当した仕事の結果は基本結城さんの目が通ると内々に処理される。公安と連携したものも書類は後に結城さんの手に渡り、改竄(といえば聞こえが悪いかもしれないが)されていることがほとんどだ。
また、降りてきた仕事の書類も、遂行中こそ佐久間さんが保管しているが、終われば火にくべられる。D課の情報隠蔽はいっそ不自然なまでに厳重に行われてしまう。
俺の出張を機に、公安との連携は表向き一時的な切断を求められた。今後も必要ならば佐久間さんが奔走することになるが…お互いのプライドと実力が高い職場だ、よほどのことがない限り手を取り合うことはない。
そうなると渡瀬が書類を持っているのはおかしい。結城さんがいる部屋とD課に割り当てられた部屋をつなぐ廊下ではないから、他に見られてもいい書類しかない。
結論として絞られるとするのは始末書しかないのだ。最後に公安と連携をとることになった仕事で、渡瀬はためらいなくライフルを使用してしまったのだろう。
「あまり佐久間さんの胃を痛めてやるなよ」
「うーん、そうですね。気をつけます」
「…俺はもう上がりだが、そっちはまだ始末書が残っているのか」
「はい。波多野が見つからなくて」
猫みたいなやつだな、波多野。
「明日出発でしたっけ?見送り行きましょうか」
「必要ない。連絡はいつでもとれるようになったからな」
「ふふ、深夜にまた面白い画像を送ってあげますね」
「やめろ…眠れなくなる」
渡瀬の面白いは俺にとってホラーである。
連絡を交換して数日、普段は使わない携帯を鳴らし続けたのは小田切と渡瀬だ。練習になるからと何度か会話もした。言っておくが俺は常人程度にスマホを使える。
渡瀬から送られてくる画像は自分の家で飼っているという鳩が大半なのだが、何分鳩の量が問題だ。多すぎて名前も覚えきれない。
あんなに鳩を飼って餌代は大丈夫なんだろうか。写真を見たその日は夢でうなされた。
引越しが落ち着いたらまた連絡する旨を告げ、鞄を片手に横を通り過ぎる。
最後に仲良くなれたのだし、もう少し話していてもいいかもしれないと後ろ髪を引かれたが、生憎とこのあとは約束があるのだ。
渡瀬の視線を感じてふとあることを思い出した。足を止める。「そうだ、言い忘れていたな」
「独り立ちおめでとう、渡瀬。いや、
…田崎」
―――
――――
夕方から夜に変わり、周りの店や街灯が眩しく光り始める。
スパイとしてはこの時間はそう得意なものではない。昼と夜が交錯する時間帯は目が働かないからだ。夜目は効くし、明るい場所での行動もたかが知れているが、陽炎に飲まれそうな時間帯はどうにも惑わされる。
それでもこの時間を選んだのは相手の都合と、自分自身に行う潔白の証明のようなものだった。
「お待たせ」
いつも利用していたカフェの前、街灯のそばで佇んでいる少女に声をかける。少女は携帯に向けていた目線をあげてこちらを認める、にこりと笑った笑顔は最初と同じく花が咲いたように可愛かった。
彼女とは前に会った後も少しだけ交流を続けていた。それは間違いなく俺の未練の塊だったが、それでも親しくなったことに喜びを覚えずにはいられなかった。今ではお互い敬語もなくなっている。
熱くなる頬に気づかないふりをして近づけば、少女…世良ちゃんは、手袋をしていない俺の右手を取った。
「さっきまで蘭ちゃんたちがいたから平気さ!それより鏑木さんのスーツ姿、いい感じに似合ってるね!」
「あ、ありがとう。世良ちゃんに言われると少し照れるな」
「ボクも意表をつく格好をすれば良かったかな…ごめんね、制服のままで」
意表を突く格好をしたら俺が恥ずかしさで逃げたくなるからやめてほしい。そもそも、俺がスーツなのは事務仕事の帰りだからで、特に珍しくもないのだ。休日や外事で私服になるだけで。
興奮冷めやらんままに顔を押さえる。じゅっと左手が焼けた音が聞こえた気もするが気のせいだ。
「…話自体はすぐ終わる、ここで話していいか?」
「?うん」
不思議に思いこそすれ特に疑問も持たないのか、世良ちゃんはなんてこともないように頷いた。
なんて純粋な子なんだろう。俺の周りは敵だらけだと思っていた分、彼女のまっすぐな態度は俺の心を癒してくれた。きっとこの子は、これからも俺みたいなやつを無意識に助けていくんだろう。
「さよならだ」
「…え」
「もう会えないかもしれない」
彼女の顔が驚きに染まる。
「いや…会えるには会える。でも、少し仕事で失敗したんだ。距離を取らないと、世良ちゃんの命が危ない」
「そんな、ボクだって、自分の身くらい自分で守れるよ」
「…、世良ちゃん。本当にすまない」
世良ちゃんにとっては大事な友達がいなくなるんだから、それはまあひどい裏切りにもなるのかもしれない。でもこれは元々決められていたことだ。ちゃんとした別れを告げることも、これまでを考えたら破格の待遇なのだ。
いくら自衛ができるといっても、所詮は女子高生だ。対処できない事案だって多く存在しているし、慢心して危険な目に遭うのは誰も望んじゃいない。
死ぬな、殺すな、とらわれるな。結城さんに告げた言葉が蘇る。きっと本当の優秀なスパイであるなら、ここじゃあ悲しむふりをしているだけなんだろう。
「俺の名前は、真己といいます」
息を吸って改め、口から転がした言葉は彼女に届いたと信じている。
「世良真純さん。もう一度会えたら、また友達になってくれますか?」
約束なんて不確かなものだ。もう一度なんてありえてはいけない。
それでも次を望んで、友達でもいいから繋がりを持ちたいと思ってしまうのは、きっと俺が彼女にずっと惹かれているからだ。
揺れる瞳を見据え、返事を待った。太陽は既にビルの合間に沈んでいて、空は青黒く染まって街灯が光り輝いていた。
しばらくして世良ちゃんは首を動かす。その答えは俺を涙ぐませるには十分な働きをしたのだった。
「ありがとう」
握ったままの手から気持ちが伝わればいいのにな、と、珍しく本気で思った。
明日もハレルヤ!
(本日は晴天、)
(卑屈な俺とのお別れ日和だ)