朝飯前、昼食後だけど
トイレに行った客が十分経っても帰ってこない。
いくらなんでも長すぎるので、(どうやってかまでは予想していないが)犯人の追跡を逃れたか、単純にトイレに引きこもっているかのどちらかに思えてきた。一般人なら後者だろう。
それにしても、タイムオーバーで人が死ぬと言われたというのにこの仕打ち。間接的な殺害だろうという怯えはないのか。…自分の命が惜しいのはよくわかるので言ってやらないが。
押し付けられた包丁に力がこもる。ぷつり、首が軽く切れたことに気づいていないのだろうか。気付いてほしいが、絶対知ろうともしないだろうな。何せ今から命を奪おうとしているんだ。傷なんて気にしても無駄だろう。
ため息をつきたい気持ちが心の中を満たしたが、さすがにそんなことをしていたらさらにカウントダウンが早まるに違いない。
休日に限ってこんな事件、今日はとことん厄日である。
「そろそろお前の命も終わりだな」
銃を持った男がにやりと口を歪めた。目出し帽ごしでもわかる表情に内心苦笑を漏らすも、それを悟らせないように男を睨みつける。あと五分だ、それまで何が起きるかはわからない。
外に警察がいるかどうかは定かじゃない。ただ、こいつらは「警察を呼ぶな」とは一言も口にしなかったあたり、警察に捕まらない自信は相当なものだ。
何か策があるか、あるいは誰かを人質にして逃げるか…どちらにしても面倒な話だ。五億を準備できるとは間違っても思えないこともさらに焦りを掻き立てる。
しかし、こいつらは何が目的なんだろうか。計画はどう見たって杜撰という一言に尽きるのに、五億などまるで気にしないように…"なにか別のものを狙っているように"落ち着き払っている。
そういえばこの人質を取るとき、迷わず俺を指したのはなぜだ?
「た、いちょ、う」
沈みそうになる思考を引き戻したのは、まるで気配を感じさせなかった男の声だった。
ふらふらとトイレの方角から帰ってきたその男は、よろめき息を乱しながら銃を持った男に近づく。近くにキャスケットをかぶった男の姿が、見えない。
「あのクソ野郎が、俺を蹴飛ばして脱走しました」
「…なんだと?」
隊長と呼ばれた男が顔色を変えた。俺もまさかこんなことになるとは思っていなかった。一般人の選択をしなかった男に驚きを禁じえない。
周りに居た客のほとんどが息を飲んだ。中には心配なほど青ざめている人もいる。戻ってこないことは確定、俺は衆人の前で見せしめのように首を裂かれる、と。グロテスクだ。
拘束している男の、刃物を握る手に力が篭る。刃がますます首の皮を引き裂き、細い血管を目指して突き進む。
「――殺れ」
言葉が耳に届き終わるかどうかという瀬戸際、包丁を持っていた腕を前に引っ張り引きはがす。
突然のことに対応できなかったらしい男がバランスを崩して俺に体重をかける。左手で腕を押さえたまま、右肘を腹の辺りにつきだした。鈍い音が響く。
「ごぁっ」
うめき声をあげて崩れ落ちたところで顔面を蹴り飛ばす。隊長が反射で俺の方に銃を向けてくるも、そばにいた男――先ほど帰ってきた男だ――が手首をひねり上げた。痛みに顔を歪めたその一瞬で、素早く両手に手錠をかける。
残った人員は状況が理解できてないのか、武器を持ったままその場に立ち尽くしていた。
無防備になっているところを見逃すわけがない。勢いよく飛びついて床に倒し、包丁を手からひったくって遠くに滑らせた。遠くに消えていったそれを確認する前に後ろ手で手錠をかける。
もうひとりは、と、周囲を見渡すために顔を上げると、驚いた顔をした平次くんと目が合う。その表情がどんどん強張っていくことに疑問を覚えた次の一秒には、風を切る音が後ろを通過していった。客の悲鳴が上がる。
「気が緩みすぎだ」
「…助かった」
隊長に手錠をかけた男が後ろに立っている。
聞き覚えのある声が目出し帽の向こうから聞こえることに違和感を覚えるが、見た目さえ気にしなければ普段と変わりないから、と耐えることを要求された。腹筋のHPがどんどん減っていく。
金槌を持っていた男一人、包丁を持っていた男二人、そして隊長。人数は合っている。
「上は?」
「塩田が。伊藤は向こうと合流、逃げた一人を追ってる」
「了解。…みなさん、我々は警察です」
警察手帳を取り出して見せる。それと同時に、男が目出し帽を脱いだ。
小田切の顔が現れる。
「怖い思いをさせてしまって申し訳ありません。安全が確保され次第外にご案内しますので、どうかそのまま動かないようお願いします」
平次くんが呆気に取られている。確かに、いきなり犯人が警察だと言われたら驚くか。本当はただ犯人と入れ替わっていただけなんだがな。
今頃素手で乗り込んできた犯人はトイレで身ぐるみを剥がされた状態に違いない。トイレに行った男…伊藤、もとい神永が昏倒させて、小田切に引き渡したのだから。
過剰防衛だったかもしれないといささか肝を冷やしたが、こっちは命を取られるところだったので、殴ることくらいは仕方ない範疇だろう。そうでないとやっていられない。
トイレにいるやつ以外を縛り上げたことを確認し、そこかしこに投げ出された武器を回収する。没収された携帯のほとんど全てが持ち主の手元に渡った。
「いずれニュースでも報道するかもしれませんが、SNSなどへの書き込みはしないようにしてください」
小田切が客に呼びかけている間にトイレへ足を向ける。気絶させているだけで、手錠をかけてはいないだろう。
それにしても、打ち合わせなしでよくここまで連携が取れたものだ。
神永からのサインで強盗らしき集団がいることは分かっていた。佐久間さんを車に行かせたのは、犯人が逃げたときのための追いかけ要員としてである。
佐久間さんを通じて神永に俺のキャスケットを渡し、顔を隠せるようにした。神永はトイレに行ってすぐに犯人をのし、家で確認しておいた避難経路を使って外へ逃亡。忘れ物が何かと悩んでいる佐久間さんと合流したというわけだ。
小田切と福本は俺と平次くんが話している間に四階へ移動し、管制室を占拠したところを狙って奇襲、奪還。神永と同じく確認していた抜け道を使って三階に来た。
塩田、もとい福本がいないのは下の階がどうなっているか知る必要があるからだろう。増援が必要なら連絡してくるはずなので、今のところ問題は無いらしい。
トイレに倒れた犯人を発見する。さすがにパンツだけ穿いた状況は見苦しいの一言に尽きるので、近場の服屋から適当なものを見繕っておいた。
領収を切るわけにもいかず、センスのない安物コーデになってしまったがいいだろう。丁寧に置かれている財布から金をとって支払いを済ませる。
台車に載せて運ぶかどうか悩んでいると、私用の携帯が音を立てて振動を始める。アプリの無料通話だ。
通話相手は佐久間さん。
「もしもし」
『―鏑木か?』
「はい」
運転しているはずの彼がなぜ?
初めてとるアプリ電話に少し胸を高鳴らせながら言葉の続きを待つ。
聞かなければよかったと思ったときにはすでに後の祭りだった。
『車が爆破された。死傷者は出ていないが、お前が狙われている可能性がある』
車の買い替えをしなければいけないとは聞いてない。
泣きそうになるところをぐっと抑えて返事をした。佐久間さんが申し訳なさそうなのがさらに虚しさを増長させたのは言うまでもない。