イデオロギーに郷愁を覚ゆ

微妙な空気が店の中を漂っている。
ついやってしまったと頭を抱えている俺を、カウンター越しに向かい合う降谷が冷めた目で見てくる。明らかに雰囲気が「何やってるんだ」と言っているのがわかった。

俺だって好きであんなことを言ったわけじゃない。ただ、口が。口が勝手に言ったんだ。
そもそも口から勝手に言葉を紡ぐだけでもD課失格ではあるが、ここにはD課の人間に告げ口するようなやつはいない。…いないと信じたい。
D課の人間はどこにでも現れるから厄介なのである。

「疲れてるんです」
「はあ、お疲れ様です」

言い訳がましく紡いだ言葉は小バエのように叩き落とされた。
やる気すら見受けられない返答にまたも心が粉砕された気がするが、こんなのはD課の仕打ちに比べればなんのその。返事をしてくれるだけで優しい。

少し話を変えよう。

D課に入れば全員がカバーとして偽の経歴を与えられる。
無論俺も例外ではなく、D課の人間や関わりの浅い奴らにはカバーの経歴を教えている…のだが、降谷や警備企画課の一部は(前の職場だったため)俺の本来の経歴を知っている。知っていても変えた経歴に何も突っ込まないのは公安故だろう。
D課で一番情報が漏れやすい人間は俺だろうな、という確信は日々強くなるばかり。周りの経歴は偽物か本物かわからない。

そんなカバーの経歴だが、俺の過去付き合ってきた人間ってやつはいわゆるグラマラスな体型をした女性ばかりとなっている。古い言い方をするなら、そう、ボンキュッボン。
でかい胸は嫌いじゃないし、女性らしさってやつはストレスを溜めた俺にとって癒しに等しい。つまり満更ではなく、むしろ同僚の神永たちとナンパに出かけようかと考えたことがあるくらいだった。

そんな俺が思わずつぶやいてしまった言葉が、「可愛い」という言葉だ。
ただそれだけのことだと侮ることなかれ。

「なんでだ…」

向けた相手が豊満な肉体を持つ大人の女性でなく、近場の学校に通っている男勝りな女子校生だったのは、とても衝撃を受けてしまう出来事だったのである。


―――
――――
時は少し遡って、昼過ぎ。
業界用語ではアイドルタイムというんだったか、そう、確か客が少ない時間に降谷の元を訪れた。D課が掴んだ情報を流すためだ。

こちらからすると、昼間の忙しい時間のほうが誤魔化すことが楽になるのだが、相手はカフェの客ではなく店員。当然昼頃は忙しく、メッセージをまっすぐ受け取れない危険性があった。
渋々昔からの知人だと偽って(元より間違いではなかったが、カバーの経歴で知り合ったことにして)堂々と顔を出している。

言うまでもなく、暗号はお互いの会話の中に仕込んだ。
さり気ない仕草、会話の運び方、言い回し。
様々な状況を加味してするやりとりは頭を使うが、使わなければ馬鹿になる。馬鹿は思考停止の象徴で、そんなことを上司に知られれば間違いなく睨まれることになるだろう。それだけは避けねばならない。

「そちらは相変わらずのようで」
「ええ。問題だらけで胃痛が増すばかりです」
「転職すればいいのに」
「それができたらどんなにいいことか…」

もちろん話している内容は多少のすり替えが行われているとはいえ、ある程度は本当のことも話している。俺のカンチェンジュンガ級のプライドで作られる胃痛の原因なんかはまさしく真実だ。
降谷もそのことはわかっているんだろう、どうやら俺の胃を心配してくれているようだった。元上司がこんなにも優しい。

愚痴大会という名の情報交換も終え、いざ帰る段になったとき、それは起きた。
カララン、ドアベルが軽快な音を立てて来客を知らせる。降谷…もとい、安室が営業スマイルを浮かべて入口を向き、その視線につられるように俺もそちらに目を向けたのだ。

「ああ、いらっしゃいませ、三人とも」
「安室さん、こんにちは」

三人の女子高生だった。三者三様という言葉を明確に表すように、三人はそれぞれ方向性の違う雰囲気をまとっている。
普段の俺ならば、今日は早いですねという降谷の言葉に返事をする可愛らしい黒髪の女子に目を向けていただろう。制服の上からではわかりにくいものの、それなりに出るとこは出ている。

が、なぜか一番最後に入ってきた女子が目に入った途端、(ほんの瞬きの間くらいだったが)俺の世界が停止したのである。

「かわいい…」

無意識に口から溢れでた言葉は正しく四人に届いたらしい。正気に返って口を押さえても遅かった。

「…えっと、その、ありがとうございます?」

頬を赤く染めたその子が笑った、それだけで脳がキャパシティオーバーになってしまったのだった。
優秀な頭脳って、笑顔で殺せるなと実感した。


「もう帰って寝たほうがいいんじゃないですか?」
「うん…うん、はい、寝る。寝ます」

カウンターに座る俺と対角線上になるように座ったその子たちは、どうやら試験期間中らしい。時折聞こえてくる数式や英語の文法はとても懐かしく感じる。
そろそろD課に報告に行かなくては。失言をしたのでしばらく落ち込んでしまったが、時間はどうしたって有限なのだ。

降谷もそんなことはわかっているので、さっさと会計を済ませてドアノブに手をかけた。
女子高生たちの名前は知らない。安室のいるカフェの常連ということは、今後も会う可能性があるわけだが…

「…」

気づかれない程度の変装をしなくては。
仕事を途中で放棄するなんてありえない。結城さんの指示に背くのは合理的ではないし、このくらいは自分でも処理できるはずだ。自身のコントロールはできて当然なのだから。

ありがとうございました。
安室の上辺だけを繕ったような声を背中に受けつつ、足早に警察庁への道のりを進んでいく。
とにかく、この失態を上司に知られてはいけない。いずれ辞めるにしても、そう、俺のプライドを守るために。せめて悪あがきくらいはしたいと思った。
あの日と同じような失態は、どうしても俺に許されるとは思えなかった。