私の靴は黒い
「やめておけ」
先日降谷の口から転がった一言を思い出す。
俺が女子高生に陥落させられるところを見届けたそいつは、登庁してきたときに厳しい顔つきでそれだけを告げた。真剣そのものだった。
仕事に支障をきたすのではと考えているのかと思ったら、意外にも違うらしく、感情を複雑に混ぜ込んだ目がじっとこちらを見ていた。やめておけ、その一言が頭を叩く。
いい子みたいだが、と、根拠に乏しい反論をしても、降谷は首を縦に振らなかった。
「あの子は、あいつの…いや、何でもない、とにかくダメだ。お前はあの子にふさわしくない」
やつはどこぞの母親かと問いたくなる口調で両断し、俺の前から去っていった。
俺よりも上の人間だ、やる仕事もかなりあるのだろう。同じ歳だというのに結城さんとほぼ同じ仕事量をこなしているのは素直に尊敬できる。…最後の詰めが甘いときもあるが。
それはさておき、言わんとしていることは分からんでもないのだ。
俺とあの子は釣り合わない。
職業上、個人の好みとして寄り添うなんてあってはならないし、そもそも歳の差が問題だ。どちらが劣っているかなんてものはないにしても、俺には体裁というものがある。
様子を見る限り、降谷が止めようとした理由はまた別のものがあるんだろうが…、深く詮索したところで時間の無駄に過ぎない。
暴きたい欲はあれど、それを自制してようやくD課として働けるのだ。戒めを破るのはいただけない。
人生上手くいかないことだらけだ。だからこそ攻略のしがいがあるものだが、メンタルリセットを食らっているとあまりにも高い壁に見えてしまうから困る。
まあ、大多数ができることで俺ができないことなんてないので、高い壁であろうと超えることは可能だろうが。
「鏑木?」
小言を言われた情景を思い返していると、背後からカバーの名前を呼ばれた。普段使われている名前だ、警備企画課の人間ではない。
振り返ると佐久間さんと小田切がいた。廊下で呆けるように立ったままの俺を不思議に思っているらしかった。確かに何も持たずに立ったままの人間は多少なりとも目立つ。
「珍しいな、こんなところで。二課の仕事はどうしたんだ?」
「…書類を運んでいたんですが、昼から暇を出されてしまって。やることもなくてどうしようかと」
嘘だ。
書類を運んでいたのは事実で、昼から休暇になっているのも本当だ。…が、やることがないわけではない、結城さんからとある人間の送迎を頼まれている。しばらく時間を潰してからまた出かけなくてはいけない。
小田切はそれを察したのか何も言わない。佐久間さんはというと、どうやら察しが悪いらしく、何かを考え込む仕草をして顔を上げた。
「そうだ、もしよかったらなんだが、夜にでも何か食べに行かないか?」
「夜ですか」
「ああ。ちょうど三好から誘いを受けて…――」
「すみません、夜は少し用事が」
送迎にさほど時間がかからないにしても、佐久間さんの誘いに乗る気にはなれなかった。三好がいるのは大変好ましくない。
三好は食事のとき、少しばかり弄りが激しくなる。
ちなみに、三好と佐久間さんが一対一で食事したことはないらしいが、見ただけでも両の手を超えるほど誘い文句を口にしている。おそらく彼をからかうためだと思うものの、いつか佐久間さんはそれに乗るだろう。何せこの人は少しばかり人がいい。
それに誘いを断られたあとの三好は大変面倒くさい。普段取り繕っている表情を少し崩し、不機嫌ですと言った雰囲気を隠すこともしないのだ。
俺は三好に食事の誘いを受けたことはない。佐久間さんとは正反対に、だ。
仕事で共に食事した最初、口車に乗らなかったからかもしれない。少なくとも今、あの男は俺と何かを食べるなんてことをよしとしていないだろう。誘ったということは、佐久間さん本人は行く気があるということに違いないが。
いくら佐久間さんという緩和剤がいるとはいえ、三人で食べるなんて空気が重たくて味もわからなくなってしまう。
すかさず断りの言葉を口にしてしまったので、佐久間さんは少し肩を落としていた。小田切も首を振って「俺も福本に誘われていますので」と先手を打っている。もしそれが本当ならば、福本も抜け目がないやつだ。
「ところで、なぜ俺を?あいつが誘ったのは貴方だけだと思うんですが」
「ん、いや、いつもほかの人間も誘っているからな。今日もどうせならと思ったんだ。それに、」
「はい?」
「二人きりというのは、少し」
思わず納得してしまった。
やつと二人きりなんて、一体何を言われるのか…佐久間さんが考えなしにうんと頷くことができないのも仕方の無いことだ。
普段の行いから食事の風景も何となく想像できるのが悪いのだ。三好も、もう少し刺を隠して喋ればマシになるだろうに。
「今日は無理ですけど、今度一緒にランチでも行きましょう。次は俺から誘うので」
「ああ、楽しみにしている」
「小田切も、都合が合いそうならどうだ?いいカフェを知ってるんだが」
「…他のやつを呼んでも?」
「大人数でなければ」
小田切は常識をわきまえているので、流石に俺の知らないような人間は連れてこないだろう。
前に佐久間さんが神永を誘ったら合コンになったとかなんとか聞いたので、神永は要注意人物と認識している。そもそも神永も誘い合う仲ではないが。
実を言うと、小田切を誘うことも初めてだ。
佐久間さんとは密に連絡を取り合う仲なので、たまに時間を調整して食事に誘ったりする。D課の中で一番付き合いがあるのはおそらく佐久間さんだろう、二番目は甘利、三番目は福本だ。福本は数えるほどしか食事に行ってないが。
話も終わったので、二人と別れて帰路につく。適当に街中を歩き回ったのち、予約していた車を借りに足を進めた。
自分の車を持ってないというのは相当めんどくさい。佐久間さんは自車を持っているらしいのでうらやましい限りだ。いつか自分も給料が溜まった時に買おうと思う。
また適当に車を走らせたあと、待ち合わせ場所に車を停めて外に出た。帽子を被って壁にもたれかかり、煙草をふかす。時刻は待ち合わせちょうど、残りは20分。
煙草はあまり好きではないのだが、待ち合わせの条件が「煙草をふかしていること」だったのだから仕方がない。洗濯は念入りに行いたいところだ。
ぷかぷか、どうしたって苦いそれを黙って咥えていると、気配の薄い誰かが隣に立った。
「火を貸してもらえませんか」
男の声だった。
横目で確認すると、男の左手には煙草の箱が握られている。有名どころの煙草だ。
「私の靴は赤い」
男にしか聞こえないよう絞った声を出した。いぶかしげな動作は見えない。
ライターを男に放り投げ、車に乗り込む。レンタカーに臭いをつけるわけにもいかないため、男が乗り込んだ後に車内禁煙を言い渡した。少し不満そうな表情が見える。
発車するとお互いが無言になった。見たこともない男に話す事項なんてものはないし、相手もおそらくそういうことだろう。D課の人間というのは仕事中になると冷めている関係が多い。…男は少しこちらのことを気にしているようだが。
そんな男の素振りに気づかないふりをして、寄り道をすることもなく、まっすぐ向かった先は警察庁。
「ここからは一人で」
荷物を後ろに放り投げ、専用駐車場でそういってやると、後部座席に座った男が身じろぎする気配がうかがえた。間もなくしてドアが開く音がする。
背を向けて建物の入り口に向かう男をバックミラーで確認して発車する。さっさとレンタカーを返さなくては。
口の中に煙草の味が残っている。
苦々しいそれに歯噛みして水を口に含んだ。かぶった帽子がうっとうしい。いくら相手に顔をばらさないためとはいえ、車内で身につけるのは好みではないのだ。次の信号で止まったら脱ごうと決める。
「…外れか」
今回の男も、どうやら結城さんのお眼鏡にかなわなかったらしい。確かに気配の消し方もずさん、頭はいいんだろうが、仕草の端々から傲慢さと油断が見える。観察眼もないようで、俺ですら酷評を下せる程度なのだから仕方ない。
赤く光るライトの前に帽子を放り捨てた。最近じゃ髪の毛で身元照会ができるというのだから油断は禁物である。男の分もコロコロをかけておくことにしよう。
男はわかっているんだろうか。
「靴、赤くないんだよな」
俺の靴を見た合言葉だっていうのに、まともに確認しないなんて。あんなに露骨に言ってやったのに。
せいぜい童話の赤い靴のように無様に踊り続けることだ。俺も踊らされる一人だが、あいつはきっとそんなことすら知覚せずに使い捨てられることになるだろう。なんとも哀れなことだ。
まあ、自力で状況を打破できない男の自業自得ってことで。