逃げたくなるのも仕方ありませんよ

駅のホームらしい場所の隅っこ、人気が少ない壁と自販機で囲まれた小さなスペース。うずくまって視線を下に向けて、目立たないように息を殺す。

一体ここはどこなんだろう。二足で歩くことができる犬みたいになってしまったけれど、周りの人達はそんなことは当然といわんばかりに素通りしていったので、案外私は異常に見られていないらしい。

ただ、それは確信じゃなかった。なにせ私には相手の言葉がまったく通じない。精々表情で好意か悪意かを判断することしかできないのだ。
しかもこの駅、もちろんのことのように外に出ているわけじゃなくて閉塞された空間である。大きい場所…例えば都市部の駅は大抵建物の中に乗り場が位置しているわけだけど、私がいる場所もおそらくその内の一つのようで。

つまり何が言いたいかといえば、駅で人通りが多かったとしても、外の空間が全くと言っていいほどわからないということだ。

外のことがわからないなら迂闊に出るべきじゃない。そもそも私がいる場所も駅"みたい"なだけであって、本当の駅かどうかすら未確認のまま。もしかしたら何かの研究施設にいるのかもしれないという不安が拭いきれない。
脱走しようにも、研究施設だったら即座に見つかって、厳しいお仕置きが待っているかも。考えると恐ろしくてひたすら身を縮こまらせるしかない。臆病といわれても仕方のない行動だが、現状これが一番安全だろう。

「…●●●?」

見た目は駅でも油断してはだめだ。見たこともない動物が受け入れられている世界、駅の形をした研究施設があったっておかしくない。だからここはしっかりと…――

「●●●●●●」
『ひえっ』

頭で反芻させた戒めの言葉が一気にすっ飛び、間抜けな悲鳴をあげて後ずさる。
考え事をしていたからか気づくのが遅れてしまったらしい、目の前に黒を基調とする奇抜なコートを着た仏頂面の男がじっとこちらを見つめてくる。何か用でもあるんだろうか。

「●●●、●●●●●●●●●●●●●」

引き結ばれた口に、何の感情も映し出していない瞳。やけに丹精な顔と言葉がわからないのも相まって怖さを助長させる。この人は一体誰だ、何がしたい。この研究施設で働いている一人か。
幸いにもこちらには手を伸ばす様子はない。が、さっき後ろに下がったときに背中が当たったので危機的状況なのは変わっていない。

どうすればいい。動き方自体は人間とほとんど変わりないが、獣の姿はどんな力を秘めているかわからない。襲ってきたら噛み付けばいいんだろうか。でも獣って、顎の力が凄かった気がする。万が一骨とかを砕いてしまったら、治療費なんて払うことができない。

目の前の存在は私がどんな行動をするのかを見ているらしい、無遠慮な視線が体をぶすぶすと刺していく。
はたから見ればかなり奇怪なもののように思えるだろうという私の考えはどうやらあたっていて、目の前の人が無言で私を見ていると少なかった人通りが心なしか多くなり、ちらちらとこちらをうかがってくる輩が増えてきた。

居心地が悪い。

なんとかそれを口には出さなかったものの、この人がこちらに視線を向けている限りこの居心地の悪さは延々と続くのだろうと思うと大変恐ろしい。奇異なものを見るような視線はお断りだ。

『あ!』
「?」

仕方なし、黒い人の左後ろを指差すようにして声を出す。
目の前の人はそれに釣られたのか、なめらかな動きで自らの後ろを確認した、今。

体育座りだった姿勢を前のめりに倒し、体制を立て直して地面を蹴る。指した方向とは違う方向、黒い人の右側をすり抜け、野次馬だらけの人ごみに飛び込んだ。
あとは自分の体が小さいことを利用して逃げ切るのみ。典型的なひっかけに釣られクマーをした黒い人が悪い、私はただ逃げ出しただけ。いくら体に慣れていないとはいえ、獣であるこっちが身体能力的には上のはずだ。

人の波に押し流されないようになんとか足元をすり抜け、がむしゃらに突き進んで出た先は線路だった。どうやら本当に研究所じゃなく駅のホームだったみたいで安心する。
とはいえそれが確認できたところで今は嬉しくない。ざわめきに紛れて聞こえてくる声に追いつかれないためにも姿をくらませなきゃいけないというのに、線路なんて行き止まりにぶち当たってしまうとは。

線路に飛び込むという方法も考えつかないわけではなかったけれど、それじゃあ周りから騒ぎ立てられてただ電車の遅延を起こすだけ。飛び降りて隠れても結局はすぐに見つかってしまう未来が見えている。
白線の向こう側を越えないように踵を返し、もう一度人ごみの中に姿を隠す。どこに向かっているかわからないけれど、とにかく確実に逃げられそうな場所を発見しなくては。

そうだ、あの人だって流石に関係者以外立ち入り禁止という場所には入ってこないはず。
駅員があんな奇抜なコートを羽織っているなんて聞いたこともないのだから、たといあの人が私を追ってきていても駅員さんに止められるだろう。

立ち入り禁止の看板を飛び越え、一気に閑散とした静かな雰囲気の廊下を走り抜ける。私も見つかってしまえばつまみ出されてしまうので、なるべく素早く移動をしなければ。
なんでここまでして男の人から逃げているのかもよくわからないまま、どこか寂れたところのドアを引き開ける。埃っぽくて整頓されていない紙の束たちが無造作に置かれているその部屋には誰も来そうにない。

勢いよく扉を閉じてバリケードを作った。獣の体は少しだけ慣れると便利で、重いものも軽々と運んでしまえる。バリケードといってもダンボールを積み上げただけの簡素な作りだけれど気休めにはなった。
ふう、一息ついてバリケードにもたれ掛かる。

人の好奇の視線に晒されることもないし、この部屋には私一人しかいない。少し埃っぽいところがあるのは玉に瑕でも少しの時間を過ごすだけなら無問題だ。やっと警戒しなくて済む。

『●●●●●●?』
『ひっ』

肩の力を抜いた直後、上から降ってくる謎の声。ばちゅばちゅとおぞましい響きを持つそれも、なんとなく言葉が分かりそうなものの完全に理解できるまではいかない。
もはや反射の域で頭上に目をやれば、そこには黄色くて小さな物体。…蜘蛛だ。

背筋が凍る。バリケードのそばから飛び退き、できる限りその黄色い蜘蛛から距離を離した。蜘蛛もいるのかここは。
ティッシュ、せめてティッシュはないものかと竦む心臓を心内の張り手でなんとか動かして蜘蛛の退治法を考える。

別に虫が嫌いなわけじゃない、蜘蛛が苦手なだけだ。蟻の行列なんか見たら背中に悪寒が走るとか、その程度だ。一般の女子がいう「虫が怖い」というわけじゃない。決して。
そのことを知らない黄色い蜘蛛はこちらに近づいてきて、ああもう、怖気が。

この際ティッシュじゃなくてもいい。多分この部屋に仕舞われているのは重要だったりする書類なんだろうけど、埃まみれということはあんまり使わないんだろう。一枚くらいダメにしちゃっても何とかして欲しい。
床に散らばっていた紙の一枚を引っ張り出し、思い切りその黄色い蜘蛛を掴んだ。

『●●!?』
『ええい、ままよ!』

私が見てきた蜘蛛の中で一番でかいが、A4一枚あれば包み込むことだってできる。くるんでひと思いに潰してあげるから許してくれ。
ばちゅ、黄色い蜘蛛の悲鳴が紙越しに上がった気がした。