やめてくださいさわらないで

あ、と理解をしたときには既に遅く、黄色い蜘蛛を捕獲していた薄っぺらいコピー用紙が破けた。

『●●●●●●●!』

ばちゅ、ばちゅ、先ほどと変わらない声がその蜘蛛から発せられる。様子からすると、私がいきなり潰そうとしたことに憤慨しているみたいだった。
確かに出会い頭に逃げて追いかけたら潰そうとして、という状況はいささかかわいそうだったかもしれない。けれど私はどうしても蜘蛛は苦手なのだ、言葉も聞いたことのない苦手なものから意思疎通を図られるなんて思ってもみなかったんだから仕方ないことだと思ってほしい。

『ごめんなさい、蜘蛛は苦手で』

こちらからの言葉が通じないのだから、おそらく相手もこっちの言葉はわかってないだろう。そう思っていても謝りたくなるのが日本人の性。
極限に追い詰められた状態でも飛び出る謝り癖に鬱々としながら、なるべくその蜘蛛から距離を取ろうと身を縮めてもがいた。

『●●●●!●●●●●●●!』
『あの、えっと、な、何言ってるのかさっぱり…やっぱり蜘蛛と意思疎通なんてできないって…』

私の言葉を受けてますます怒ったのか、蜘蛛はばちばちと静電気のようなものをその身に纏わせて声を荒げた。なんだこの状況、私が子供だったら泣いてることは確実だ。
大体、蜘蛛と意思疎通できるかもなんて考え自体が無茶だったんだ。鳴き声とだぶってよくわからない言語が聞こえてくるけど頭にちゃんとした言葉では入ってこないわけだし。誰か私専用の通訳をください。

とにかく蜘蛛から離れたくて書類をもう一枚手に取って蜘蛛をそれで押し返す。しかし蜘蛛も一筋縄ではいかないのか、書類を這い上がって手の上に乗ってきた。

『●●●!』
『ひっ、やめ、』

思い切り腕を振って蜘蛛を飛ばそうと奮闘する。ぞわぞわするからお願い離れてほしい。
しかし蜘蛛はどうも離れる気はないようで、私の手にしっかと捕まって離れる様子すら見せない。だから離れてってば。

『●●●、●●●●●●●!●●●!』

ばちゅばちゅ、蜘蛛から何か抗議のようなものを受けている気がしなくもないけれど、私には言葉がわからないのでそんなことを気にする余裕もなく振り回す。普通の蜘蛛ならすぐに離れるはずなのになんで。
と、そこでいきなり蜘蛛がひっついているあたりに痛みが生じた。びりっとした痛み。…まさか、噛まれた?

『か、噛まれた…?!毒!?タランチュラ!?』
『●●●●●●●!●●●●●●!』
『この蜘蛛タランチュラ!?日本にタランチュラなんていた!?』

どうしよう死んじゃう、もし毒だったら死んじゃう。
じわりと滲む視界、痛みを感じたところからじわじわ広がる痺れ。どうしよう、これは本格的に毒に侵食されている。このまま為す術もなく死んでいくんだろうか。

涙が出ると生理的に鼻水もでるもので、汚い音で鼻をすすると蜘蛛が慌てたように手から飛び降りた。それでも手のしびれは収まらずにじわじわとかゆみを生んでいる。
おろおろと半泣きの私の前をうろつく蜘蛛は見る人が見れば愛嬌があって可愛いのかもしれない。だが自分からしてみればただこちらを殺そうとするタランチュラだ、可愛いもへったくれもない。

これ以上噛まれて毒の回りを早くさせてたまるものかと薄い書類の束で蜘蛛を叩いて遠くに追いやり、そこでようやく毒は腕を縛っておいたほうがいいということを思い出した。
いくら混乱しているとはいえそこにも気づかないとは。

慌てて腕を縛ることができそうなものを探す。が、部屋の中は書類を置いているだけでビニールテープも縄も見つからない。こうしている間にも毒は回っているっていうのに。
ますます泣き始めた私を蜘蛛が遠く離れたところで申し訳なさそうに見守っている。あの蜘蛛を解剖したら解毒薬を作れないかな。ああでも、私が死ぬまでには完成しなさそうだ。誰か血清を持ってきてくれ。

打開策が見つからなくて投げやりになってきた思考を振り払ったのは、ドアの向こうから聞こえてきた一言だった。

『誰かいるの?』

意識が覚醒してから初めて聞くまともな言語。耳に馴染む日本語として頭で認識できるそれは、確かに何かの鳴き声と混ざってはいるものの、私の心を落ち着かせるにはもってこいのものだった。
思わずバリケード向こうの扉を見やる。本当に聞き取れているのか、確証がない。だからもう一回、もう一回だけだ。

心臓をうるさくさせる私の前で、蜘蛛がどこか安心した声色でばちゅ、と鳴いた。

『…あ、あの!』

思い切って声を張り上げる。迷っていようと躊躇っていようと私には時間がない。早く解毒して、それで蜘蛛から逃げなくては。蜘蛛、しかも有毒だなんてありえない。

『ちょっと蜘蛛にか、噛まれたみたいで…!もし解毒薬とか、あったらもらえませんか!』
『えっ!?解毒薬!?』

涙声の訴えはどうやら無事に相手に届いたらしい。聞こえてきた言語も日本語としてちゃんと理解できることに内心ほっと息をついた。言葉が通じるだけでこんなに安心感が違うとは思わなかった。
と、そこで蜘蛛がこっちに向かってばちゅ!と鳴いた。私に怒っていたときと同じくらいの声量に思わず肩を震わせる。

『バチュル!?ちょ、ちょっと、ねえキミ!そこにバチュルいる!?』

悲鳴にも似た声が向こうから上がった。バチュルって、何。いるってことは生き物?でも生き物って目の前にいる蜘蛛しか、
…えっと、

『もしかして、バチュルって、黄色い蜘蛛ですか』
『え?…うん、黄色い蜘蛛みたいな…』
『…あの、さっき言った蜘蛛、多分そのバチュルです』

数瞬の沈黙。

『そのバチュル、毒タイプの技はまだ覚えてないよ』
『えっ』

毒タイプの技、言い回しは独特だが、つまりこのバチュルという蜘蛛は毒を持ってないと。あるいはまだ毒を作れるような体ではない、と。
嘘だドンドコドン。言われてみれば先ほどよりも痺れがとれている気がしなくもないし、毒だったとしても随分と回りが遅い気がするけれど、じゃあこの痺れは一体なんだって言うんだ。

『毒タイプの技は使えないけど、電気タイプの技なら使えるよ。もしかして電磁波でも受けた?』

電気。電磁波。…もしかして、これはただ電気で一時的に麻痺にされているとか、そういうものなんだろうか。じゃあ毒かもしれない云々は杞憂で、私は一人でそれについて悶々と考えて半泣きになっていた、と。
恥ずかしい。いくら何でも恥ずかしすぎる。いやでもこんな体験したことなかったし、蛇に噛まれたりすることもなかったし、うん。

どうやら私は盛大な勘違いをして扉の向こうの動物に迷惑をかけてしまったらしい。そして潰しかけた挙句、このバチュル?にあらぬ罪を被せかけた。これは申し訳ないどころの話じゃない。

『…ば、バチュルさん、ごめんなさい』

遠くで私を睨みつけている黄色い蜘蛛に向けて謝罪を送って頭を下げると、まったくだと言わんばかりに蜘蛛は大きい二つの目を細めて「ばちゅ」と鳴いたのだった。