急がば回れというでしょう

『●●●●!●●●●●●●!』

怒り心頭といった様子で猛抗議しているらしい黄色い蜘蛛、もといバチュルだけれど、言葉がわからない私から見れば何を言っているのかもさっぱり理解できない。勘違いしていた出来事からすると、毒なんて失礼な!みたいな文句だろうと予想はつくけれど。
とりあえず反省の意を示すために正座をしてみたものの、まさにこれは馬の耳に念仏を体現しているようにしか思えないのは私だけだろうか。

『ねー、なんでここ開かないの?』

ドアの向こうにいるらしい人物はこちらの状況を察しているのかいないのか、扉がひしゃげるのではと心配になるほど強い音を立ててこちらに存在をアピールしてきている。合間に聴こえてくる声が呑気なところがまた異常だ。

鈍く扉の叩く音をBGMにしながら意味も理解できない説教(?)を聞かされているこの現状、傍からみればどんなにシュールなことか。
せめてドア向こうの人が切羽詰った様相で叩いているのならまだしも…いや、その状態で説教をされていたらますます意味不明な空気が出来上がる。どうにもならなさそうだ。

『●●●●●?』

ばちっ、ばちばちっ。バチュルから火花の弾ける音が発され、少しばかり黄色みを帯びた何かが空気を焼いた。こ、こいつ、帯電してやがる…!
どこで話が区切れているのかもわからないので相槌すら打てないのだけれど、言葉が理解できないなんてことも伝えていないので、恐らくバチュルは私が話を聞いていないだけとでも思っているんだろう。誠に遺憾である。

とはいえ、バチュルに私のことを話したとして、果たして通じるのか否か。そもそも私はなんとなく言葉らしいものが聞こえているが、別に同じ種族というわけでもないのでこちらの言葉を理解できるとは限らない。
目の前で堂々と説教らしいものをされているので、その可能性は限りなく低いが。

「●●●●●●●●●●●?」

と、まだまだ長く続きそうだったバチュルの説教ともいえない音の羅列が一区切りしたこのとき、ドアの向こうでまた誰か別の声がした。
鳴き声は聞こえない。なんというか…そう、普通。音は普通じゃないけど、鳴き声ではなく人の喋り方。駅のホームで溢れかえっていた人間の喋る音と同じだった。

あ、ノボリさんとクダリさん!と、元気にその人を呼ぶドア向こうの誰か。どうやら彼の知り合いだったらしい、それならまだ安心はできそうだ。
それに加え、ドアの向こうの声がバチュルにもきこえたのか、聞き取ることもできなかった長い説教はその場で止まっていた。どこかおびえた様子で、ドアの向こうの誰かが怖いんだろうか。

「…●●、●●●●●?」
『うん!ねぇキミ、なんでこんなところにいるの?鍵でもかけてる?』

聞こえてる?言いながらまたもや壊す勢いでドアを叩き始めたので、慌ててドアの前に置いた段ボールをできる限り元の場所に戻す。がちゃがちゃ、合間に聞こえるドアノブを回す音も気のせいではない。
バチュルは私の邪魔にならないようにと配慮したのか、私の手が届かない位置にまで避難してこちらの様子をうかがっている。

『ごめんなさい、もう開きます』

ドアを壊されたといって怒られるのは本意ではないし、そもそも私は得体のしれない人から逃げるためにここに入っただけの話であって。
きっと変なコートの人もここまでは追ってきてないだろうし、ここを開けても何ら問題はない。関係者以外立ち入り禁止というところに入ったことの説教は甘んじて受けることにしよう。

ぎぃ、少し年季の入った音を立てて開かれた扉の向こう、私と似た犬型の獣がそこにいた。

『…同じ?』
『わぁ、キミもリオルだったんだね!』

獣は元気よく私の手を握り、ぶんぶんと上へ下へ振り回す。
少し背格好は違うけれど、私と同じ姿の彼に困惑を隠しきれない。何せ他にも色んな種族がいるとはホームで見たので知っていたが、自分と同じ種族がいるとは思っていなかったのだ。

リオル。彼の言うその名前がどうやら種族名らしい。
同じ種族がいるのなら、私が2足歩行していても普通だとみなされるのも納得がいく。思わぬところで疑問が解決した。

『僕、パートナーとその友達が持ってるリオルしか見たことなかったんだ!キミはどこから来たの?パートナーはどんな人?』
『え、あ、あの』
『あ、でもここにいるってことはここの誰かが貰ってきたのかな。生まれたばっかり?それとも迷子?名前はついてる?』

矢継ぎ早に質問をされてさらにキャパオーバーになりかける頭をフル回転させ、なんとか目の前の彼の言葉を処理していく。
パートナー、言っている意味がわからない。どこから来たのか、日本。生まれたばかりじゃなくて、私は一応10年は生きている。迷子といえば、多分迷子になる。名前は、

あれ?

『覚えて、ない』

名前を思い出せない。
それだけじゃない、この駅に着くまでの経緯も全然覚えていない。かろうじて兄がいたとか、おぼろげに自分がこんな人間だったというのは覚えていても、詳しいことはうまく思い出せないのだ。

首をかしげる前のリオルに、名前を覚えていないことを告げようとして、

「●●」

上から勢いよく拳骨が降ってきた。
呆気に取られたが、そういえばドアを開ける前に誰かの名前を呼んでいたじゃないか。むしろ今までずっと無言でいてくれたことに驚いてもいいくらいだ。

急いで拳骨が落とされた方向に目を向け、体がこわばる。見間違いかと思ってぱちりと瞬きを繰り返すが、目の前にいた人は消えることなく目の前のリオルを見ている。
何の感情も映していない瞳に、引き上げられて弧を描いている口元。少なくとも日本人には見えない整った異国の顔立ち。そして色は違えど、奇抜で特徴的なコート。

私を追いかけてきた人間がそこでこちらを凝視していた。