さてもさても、いかにかあらん

全身濡れ鼠になった女が俺の休憩部屋の前に立っていた。
なぜ部屋に入らないのか、そもそもなぜそこまで濡れているのか、まったく検討がつかずに首をかしげた俺は悪くないはずだ。

とりあえず部屋に招き入れ、タオルと自分の着替えを投げつけて着替えるのを待った。
布が擦れる音が聞こえて、後ろで女が着替えているという異質な状況を理解しつつも、そこにはまったく欲情というものを覚えない。ED(インポ)なわけではなく、女が俺の性癖に掠りもしないからである。

しばらくすると布擦れの音が止んだので、確認を取って振り返った。体格差からか、裾は余っていないものの、二の腕の周りなどは布だけで掴めそうなほどだ。
自分よりも細身な女と後姿が似ているという友人が脳裏をよぎり、ちゃんと食べているかといささか不安になるのも仕方のないことだと思う。いくら夜道だけとはいえ、これと見間違えられるとは。

空いている椅子に座るよう促し、今日の間に何があったのかを訊ねる。すると返ってきたのは「雨に降られた」という言葉だけだった。
相変わらずの返答だ。言っておくと、今日は嫌になるほど晴れやかな空だった。間違っても雨が降ったなんてことはなく、それは彼女よりも後に建物に入った俺がよくわかっている。

言いたくないことか、と、内心だけで解決し、随分と引きずりやすくなった袖を捲る。右腕はなんともなかったが、左の方は赤くなっていた。触ると相手の体が大げさに揺れる。
痕から察するに根性焼きなんかではなさそうだが、何かしら熱いものを浴びてしまったに違いない。

右腕を掴んで備え付けのキッチンに引きずる。冷水を飛び散らない程度に出して左腕を突っ込ませれば、冷たさに女の体が震えた。

「今日はピムスじゃなさそうだな」

ざあざあ、ばんばん。流れたりシンクに当たる水がうるさい。俺のつぶやきはそれほど大きい声ではなかったが、水音の合間を縫って鼓膜を震わせてしまったらしい、僅かに息を飲んだ様子が伺えた。

女、マティーニは、実は内部にも敵が多い人物である。
というのも、彼女は異例の速さで幹部になった人間なのだ。地道に努力を続けてもコードネームさえもらえない人間からすると、彼女がやっかみの対象になるのも仕方ないことのように見える。

普段はジンと共に行動しているとは言え、仕事の違いで一人でいることも少なくない。そういったときにマティーニはすぐに周りから攻撃を食らう。今日の惨状も十中八九それが原因だ。
ジンの前で手を出してこないのは、目撃されると自分たちが消されるとでも思ってのことだろう。精々目の前でこいつをいたぶるのはピムスくらいで、ジンもそれ以外は目に入っていないらしく咎めることもなさそうだった。

もちろんマティーニの人柄に惹かれる輩も少ないわけではなく、一定数の人間が貢物やら何らかの画策やらをしているようだが、やはり悪意のある組織だ。害を与える人間もそれなりにいる。
俺がマティーニに頼られるようになったのは、単にジンの繋がりで知り合いになったからということを知っている。あまり信用はされていない。

こいつと同じ分野を得意とする俺が治療専門なはずがなく、手つきはだいぶ危うい。
しかし、冷やし終えた後に苦心して巻いた包帯を、そいつはじっと見つめたあとに「ありがとうございます」と口にした。わずかに上がった口角、陰りはあっても組織特有の嫌な気配は感じられない。

「次はもっと自衛しろ。水はまだ冷える」
「はい」

まだ少女といっても差し支えないほどの年齢だろうが、組織に入った経緯は知らない。興味もないので本人に聞いたことさえない。能力は少女の方が上だということだけは知っているけれど。
ただ、この組織の人間としては不釣り合いだなと思うばかり。

淡白な関係だ。俺はこの娘に「組織をやめろ」なんてことを言うつもりはないし、言ったところで彼女はやめない。
少女も俺の所属理由を聞かないし、組織を抜けろだなんて言わない。死んだらそこまでの人間だった、そんな認識だ。少なくとも、俺からすれば。

「…あの、」

だからこそ、意外だった。

「私、そんなに幸せそうですか」

マティーニから初めてそんな言葉を聞いた。
質問という行為自体は既に何度もされている。仕事に関する話だって、似たようなことをしているのだから擦り合わせを兼ねて数え切れないほど。
しかし、そんな何でもないような質問をされたことなんて一度もなかったのだ。

この組織にいると、幸せということを考える余裕なんてものはない。周りは人格破綻者や、政府に不満を持つ人間、幸せを奪われ住む場所をなくした輩ばかりだ。安らぎはあっても、幸せを感じたことはなかった。
唐突な問いかけと、それに対する答えへの躊躇いが言葉を詰まらせる。彼女は唇を噛んだ。

「…幸せは人それぞれだ。誰かに言われたんなら、その誰かにとっちゃあそうなんだろうさ。だが、」

俺たちみてぇな人間は、それを自分にとっての幸せとして受け取ることは許されない。

「俺にゃ、お前は今にもポックリ逝きそうな人間にしか見えねぇよ」

探り合いや蹴落としが常の実力社会だ。息苦しく重々しい空気ばかりが存在する中で、まともな幸せなんて手に入るわけがない。
少女は答えを聞いて肩の力を抜いたらしかった。返答のどこが良かったのかなんて、俺は知らない。少女も口にしない。

ただ、俺にとっての幸福が少女に降りかかることは生涯ありえないだろうと、有り得てはいけないと、そう思っていた。

本当に、こんなに純粋な少女が組織に所属している理由がわからない。
眠たげにまぶたを瞬かせている相手の手前、俺は今自分の表情がどうなっているのかさえ、知ることはなかった。