どちらも助けは望まない
一息つくついでにコーヒーでも飲もうか、そう考えて休憩部屋のドアを開けると、鈍い音と共に床に何かが倒れる光景が目に映った。
床に目をやると、それは全身を黒で固めた人間だということがわかった。体つきを隠すような分厚いコートで分かりにくいが、その体格は確実に女だということを告げている。
倒れた女と、振り切ったばかりだろう腕をそのままに息を切らしている男。それだけを見て、自分は厄介なときに足を踏み入れてしまったことを悟った。
溜息をすんでのところで飲み込み、小さく呻く女と殺気立ったままの男の間に手を差し込んだ。荒々しく上下する男の腕を柔く掴んでやる。
「…何」
苛立ちに任せた声が耳に届き、ぎらついた視線がこちらを向いた。
「商売道具を傷つけるのは関心しねぇな」
「ハッ、どうせ裏に引きこもってんじゃん、こいつ」
「お前の手の方だ」
忌々しげに吐き出された言葉を軽く諌め、掴んだ手を見やる。拳の先は赤く腫れ、上着でほぼ隠された包帯にはじわりと血が滲んでいた。傷口が開いているのは明らかだった。
言葉に詰まったそいつ、ピムスを強引に空いている椅子へ座らせる。脂汗を滲ませた女は動けない様子だったので、横抱きにして二人がけのソファに転がした。どうやら今日はいつもより手酷い仕打ちだったらしい。
奥に備えてあるキッチンで手早くタオルを濡らし容器に水を溜め、戸棚に仕舞ってあった救急箱とそれを持って二人の元へ戻る。早くしなければまたピムスが手を出すだろう。
案の定頬をつねられていたところを目撃して、今度は我慢せず溜息を吐き出した。
「またどやされるぞ」
「別に。どうでもいい」
「そうか」
意外に腕周りに余裕がある上着をたくし上げ、血の滲んだ包帯を取り外す。ガーゼは滲む場所さえないと言わんばかりに赤く染まっていて顔をしかめた。
染みるぞ、一言前置きをして、消毒液が染み込んだ白いガーゼを当てる。目の前にある方が大仰に跳ねたのがわかった。
拙い手つきでゆったりと付着した血を拭っていれば、傷口にガーゼが当たるたびに小さく体が震えた。しばらくしてから「痛いんだけど」と不服そうな声が上から降ってきて、そこでようやく手を止めることになる。
「手当てくらい自分でできるし」
「カンパリに見つかったら俺が怒られんだよ」
「は?なんで」
「怪我を放置したから」
愛されてんなあと思わなくもないが、言う必要もないので心だけにとどめておく。どうせ言ったところで、この男はいい顔をすると思えない。
もしかしたら顔を染めるなんてことくらいはするかもしれないが、それは俺の精神衛生上から遠慮願いたい産物だ。ピムス本人が愛だの幸せだのを嫌っている節があるのだ、頬を染めるなんて光景を見た記憶もない。
簡易の手当てを済ませた後、ソファに寝転がっている女…マティーニに手を伸ばす。引っ張られた頬がまだ赤くなっていた。
マティーニは治療中も朧気に意識があったらしく、冷やしたタオルを拒む素振りを見せた。有無を言わさず押し付け、目立った怪我の状況を見つつ、取り出した湿布を薄い腹に貼り付けた。
衣服をぎりぎりまで剥いで湿布を貼っていく俺に、未だ残ってその光景を見続けていたピムスが声を上げる。「名前、」
「なんか今日キモくない?」
酷い言われように肩を落とす。キモい、キモいとは。
質問の意図がわからずに男に視線をやれば、そいつも珍しく困惑の色を表情に乗せていた。他にうまい言葉が見当たらないらしい。
「いつもより手つきがいやらしい、かける言葉もキモい。…なんかあったわけ?」
特にそんなつもりはなかったが、どうやらピムスにはそう感じられるらしい。マティーニに視線を向ければ、青白い顔の中に浮かぶオニキスの瞳がそれを肯定した。
どうやら自覚もなくいつもより丁寧な対応をしていたらしかった。昨晩バーボンと飲みに行ったからかもしれない。
ふう、大きく息を吐いてマティーニの腹を叩く。体がぎくりとこわばったが知ったことじゃない。
時計を見れば、既に己に課した休憩時間が終わりそうな時間だった。
「治療も終わった。片付けといてやるから戻れ」
決して上司に使うべきものじゃない言葉遣いでピムスを外に追いやり、あとでカンパリを訪ねる旨を伝える。ピムスはいきなり追い出されたことに不満を隠さなかったが、強く拒絶すれば珍しく引き下がった。
ソファで寝転ぶマティーニにも声をかけると、ひどく緩慢な動作で立ち上がる。
「あの、…ありがとうございます」
「気にすんな」
いつものやり取りをして、マティーニもドアの方向へと歩いていく。
飲みのあとはどうしても感傷的になっていけない。力関係が違うとは言え、二人のやりとりを見たのも悪かった。
スコッチがいなくなってマティーニが来た。ライがいなくなったのはマティーニが来る前だったか、それとも後だったか。今はもう記憶が遠く彼方へ消え去っている。
ライとバーボンが殴り合ってスコッチが仲裁する、そんな光景が瞼の裏に浮かんで離れない。もうあの時は二度と訪れないということくらい知っているのに、まだ上手く消化しきれていないらしかった。
「我ながら、女々しいやつだ」
マティーニはもうドアの向こうに消えていた。言葉を拾った人間は俺一人しかいない。
そう思うと部屋の片付けをするのも億劫で、できることなら今すぐにでも眠りに意識を落としたいと考えてしまう。もちろん、そんなことができるはずもないわけだが。
床に散らばった様々なもの全てが俺を責めているような錯覚を覚えて、俺は「それでいい」と誰に言うわけでもなく呟いた。自分の選んだ道なのだから仕方ない。
拾い上げたペンで一突きすれば楽になれるのに、頭の中で悪魔がそう囁いた。