優しさを漬け込んで

「名前さん、お願いです」

暗闇に映える白い手が俺の頬をなぞる。手の先をたどっていけば、その近くにあるあどけなさを残す顔が視界に入った。
熱に浮かされたように赤い頬、潤んだ目。体ががくがくと震えていることは、触れた先から伝わって理解している。押し倒されているせいで、珍しくはだけられた首元からはささやかな胸の膨らみが覗いている。

「私を…女に、して…」

恥じらうように言葉を口にした女の顔が近づいてくる。俺はそれを拒む素振りを見せることなく、それを見守って…――

「クソガキは寝る時間のはずだが」

――そいつの頭を枕に押し付けた。



特に何があったというわけでもない、普通の日だった。
強いて言うならばジンに「そういや最近ご無沙汰だな」と冗談半分で言っただけだった気がする。そばに誰かがいた記憶もなく、ジンも強く反応することなく冗談として流してくれていたはずだ。
そして仕事を済ませて寝ようとセーフハウスに来たら上記のようなことが起きたのである。

「どっから知った?」

改めて体勢を整え、女もといマティーニのはだけた服装を直す。そこに情欲が浮かぶはずもなく、溜息混じりに問いかけた。マティーニは首をかしげるだけだった。
聞きたいことは二つある。一つ、溜まっているということ。二つ、俺が寝泊まりしている場所。そのどちらも「どこから情報が流れたのか」という問いかけで済んでしまうため、両方を含めた意味で投げかけた。

マティーニはしばらく考えた後、はっと何かを思い出すように顔を上げて「ジンさんが、」と口にした。確信に近い予想をしていたのでまったく驚かなかった。
さっきも言ったとおり、ジン以外から「俺のが溜まっている」と聞くことはできないはずで、このセーフハウスを把握しているのはジン以外ならばバーボンしかいない。バーボンはマティーニと仲が悪いので線は薄かった。
面白半分でジンに放り出されただろうことは考えるまでもない。時折あいつは嫌がらせのようにこの女を仕向けてくるから、尚更タチが悪い。

「ハニートラップはバーボンにでも投げとけ、無理にやる必要はねぇよ」
「…はい」
「ついでに言っとくが、俺ぁお前に食指は動かねえからな」

二度とやるなよ、そういった意味を込めて告げれば、マティーニは目を潤ませながら「でも」と追い縋った。「その気じゃない、人を」

「その気にさせる、のが、真髄…って」

呆れて言葉が出ないとはこういうときに使うのか。
乗り気でない人間をその気にさせる、当たり前で難しい事項。ハニートラップにおいて初歩的な知識で、人の感情を巧みに読み取り言葉を操り、仕草や自分の持ちうる全てで相手を虜にさせなければいけないという戒めだ。失敗は許されない。

マティーニは幸いにもそういった機会を設けたことはないらしい、誘い方はドがつくほどに下手くそだった。おそらくこれからも機会が来ることはない。それでいいのだから。
丸い頭を二、三度叩き、安っぽいベッドから這い出た。スプリングが相応の音を奏でて俺の存在を外に追い出す。

「なんかあったら起こせ」

とにかく致すつもりはない。溜まっているからと同僚を慰み者にする性癖は持ち合わせていない、しかも好みでも恋人でもない女となんてまっぴらごめんである。
ダイニングの椅子にかけてあったブランケットを手に取りソファに寝転ぶ。幸いにも、バーボンほど他者の気配に敏感というわけでもないので、マティーニが寝ていようがお構いなしに眠れる。

俺が本気で寝ようとしているのがわかったのか、ソファの向こうでごそごそと布擦れの音が聞こえて静かになった。

「なんで、優しくしてくれるのかな」

耳に届いた一人言のような呟きに返事をしそうになってやめる。彼女の中で俺には聞こえていないという設定だということは、その口ぶりで理解できた。
幸せも、優しさも、その人次第。きっと名前さんは優しい。いい人。ぽつりぽつり、空から金平糖を降らすように柔らかい声が鼓膜を揺らす。平静を装っている俺の心さえも簡単に震わせる。

優しくなんかない。俺が優しくしたところで、マティーニは幸せにならないし、俺も幸せになることはない。幸せは誰にもやってこない。
幸せは人それぞれだが、優しさは決してそうではないのだ。残酷なほどの優しさは時に人を狂わせ、不幸にする。
俺たちは幸せに縋ってはいけない、優しさを持ってはいけない。優しさを持てば心が死んでしまうことを、マティーニはまだ知らないから。俺が周りの人間全てを切り捨てられることを知らないから、そんなことが言えるだけだ。

悲しみと不幸が違うように、優しさと残酷さが紙一重なように、「優しい人」と「いい人」というものは似ているようで違う。マティーニはきっと、その何もかもを知らない。

「…早く寝ろ」

言葉を発したと同時、ベッドから聞こえる声がすぐにやんで、それから少し経つと静かな寝息が聞こえてきた。
マティーニは俺が仲間も何もかもを売るような人間だとわかっているんだろうか。
俺の意識が完全に落ちるまで、その疑問は頭にこびりついたままだった。